ある日の下校
「お待たせ。由梨」
校庭の葉桜の下、大柄な由梨はすぐに見つかった。
由梨はこちらをチラッと見ると、心配そうに顔を歪めた。
特徴的な青みがかった茶色の瞳が
悲しげに揺れた。
…由梨のこの瞳。苦手だ。
何もかも見透かされてるようで。
たまに目を背けたくなる。
「千鶴、また呼び出しされたの?」
「あ、まあ、たいしたことなかったけどね。言い負かしてやった」
相手にしなかった、というのがどちらかといえば正解かな。
「主席って恨まれるから大変だよね。なんかあったら、言いなさいよ?」
「由梨は心配性だな。うん、大丈夫。心配しないで」
こんなに真摯に心配してくれるのは由梨と、家族くらいだ。
私は、友達が少ない。
はっきり物事を言いすぎてしまうからだと思うが、別に直すつもりはない。
ベタベタするものは嫌いだし、ネチネチ嫌味を言われるのも嫌い。
要するに、陰湿なのが大嫌いな性分なのだ、きっと。
そう言い訳でもしなければ。
私は私を保てないよ。
「さ、由梨、帰ろっか」
「うん」
しばらく連なる街路樹を抜けたあと、私と由梨は河川敷を抜け順調に家へと歩みを進める。
由梨とは家も近所なのだ。
といっても、由梨のところは一人暮らし。
由梨は中学の時に私の家の隣に引っ越してきたのだ。
中学から一人暮らしって流石に危なくないかということで、私の父親が私の家に由梨を招待したのがきっかけだった。
その日由梨は泊まりに来たのだけど、いつも人と話すと棘のある言葉で返してしまうこの私が、なんと穏やかに彼女と話せたのだ。
由梨にはそういう力がある。
人を落ち着かせて惹きつける力が。
そして私と由梨はその日から、お互いを親友と呼ぶ仲になったのだ。
ところで私の父は非常に顔立ちが整っており、性格もいいという近所でも評判のイケメンパパだ。
別に父親自慢したいわけじゃないよ?
私父苦手だし。
ま、とにかく。そんなだから父は由梨のことが心配でならなかったらしい。
家でよかったら部屋を貸すよ?と誘い出た。
しかし、由梨は断った。
ならせめて親御さんに挨拶したいな。
そう言った父の申し出も断った。
結局私は由梨の家族は一度も見たことがない。
でも仕送りはあるようで、由梨の部屋を見る限り貧乏でもない。普通の家庭。
少し不自然なところはあるけれど、私は気にしていなかった。
由梨は由梨だから。
だから、本人以外の要因なんてどうでもいい。
そう思う。
「ねえ」
由梨が突然立ち止まった。
突然現実に引き戻される。
「え、何?」
「もー、なんかふけってたでしょ!」
そう言って由梨はクシャッと顔を崩して笑った。
その顔は、泣き笑いのように見える。
彼女は、時折すごく切なそうな顔をする。
何故かはわからないが、何か悲しんでいるように見えるのだ。
「ごめん。で、なんなの?」
私は踵を返して由梨をみる。
夕日の逆光が眩しい。空には、少しだけだが星が見えた。
由梨の切なそうな顔が、最上級に歪んだ。
「千鶴はさ、宇宙にも世界があると思う?」
ごめん、由梨。
意味が、よくわからない。
不思議かつ難しい質問だな。
私は物理人間なので地学は担当じゃない。
明確な答えが出ないものは考えたくないし答えたくもない。
保留にしておこう。
「わっかんない。ごめん由梨」
由梨は一瞬視線を落とし、そして今度は苦笑した。
「…だよね。ごめんね、難しい質問して。帰ろっか」
由梨はそっと空を見上げた。
何か、恋しいものを見るような目だ。
私も空を見上げてみた。
そこには、雲に隠れて弱々しく光る数個の星だけだった。
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しばらく他愛のない話をしながら歩くが、頭の中で先ほどの由梨の質問を浮かべてみる。
宇宙に、世界はあるのか。
世界って何?私達みたいな有機体が活動する世界のこと?
それとも、岩や土から成り立つ無機質な世界?
ぜんっぜん分かんないよ。
そもそも、世界とはなんなんだ?
世の中を支配している思想のことか?
自分の人生観か?
それは、どこにでも存在しうるのか?
宇宙に?
はっ…ありえない。
宇宙人なんているわけない。
「由梨、さっきの質問なんだけー…」
由梨の目が見開かれる。
え、どうしたの、由梨。
なんで、そんな顔するの?
「危ない!千鶴!」
私は首を傾けて背後を見た。
目の前に、車があった。
すごい轟音が、私の耳を支配した。
クラクション、由梨の叫び声。
そして、私の口から漏れる悲鳴。
いろいろな音がごちゃまぜになって、私に襲いかかった。
体に物凄い衝撃が走った。
全身をハンマーで殴られたような痛み。
そして体が宙に浮く。
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「いや…千鶴…っ、いやああっ!!死なないで!」
あ、れ…?
私、は…。
あれ…おかしいな、頭が働かない。
「ゆ…り?」
由梨がすごく泣いていた。
私の手を握ってる?
でも、感覚がない。
体が麻痺してる。
遠くに、あの車が逃げるように去っていったのが見えた。
「あ」
そうだ。
私、車に撥ねられたんだ。
「やだ…嫌だ!千鶴!千鶴っ!」
由梨の泣き様を見るに、私はかなり酷い状態だと思う。
実際、体がおかしいくらい重い。
そして、痛い。
痛くて痛くて。
痛すぎて、涙さえ出ない。
由梨が救急車を呼ぼうとしてるのか携帯を手にする。
「やめ…て、いいから、ゆ…り」
錆びたドアを開けるような自分の声。
掠れた汚い声。
ああ、もう、これは助からないな。
自分の周りから流れている赤い水たまりが見えた。
はは、出血多量。
これは、ヤバイやつだ。
どうせ、助からないなら、由梨に遺言くらい残させて。
「千鶴喋ったらダメだよ…!」
「いいか…ら、聞いて。由梨、いま、ま、でありが…と。楽しかった…。それ…と、……さん、いままで、ご、ごめ…」
もっと言いたいことはあるのに、口から溢れる血のせいで喉がつまる。
不自由すぎ、私の体。
あと少しくらい、頑張ってよね。
でもさ。
本当に、これでいいのかな。
だって、私まだ16しか生きてないんだよ。
研究者になりたいって、小さい頃からの夢だったのに。
もう、それも叶えられない。
ろくでもないよ、ホント。
体が驚くくらい寒い。
ああ、もう、私は生きていられないのね。
そういうことね。把握。
あのね、最期に一緒にいてくれるのが由梨でよかった。
ほんとに、よかった。
でも、ごめん。やっぱり、私、やっぱり…
「ゆ…り」
今度は、涙がこぼれた。
冷たい体に、私の涙は熱く濡れていた。
私は、まだ生きてるんだ。
そう、生きてるんだ。
「…死にたく、ないよ…」
情けないな、私。
そんなの、由梨に言ってどうしろというのさ。
でも、言いたかった。
まだ、この世に未練があることを、誰かに伝えたかった。
ごめんね、由梨。でも、聞いてくれて、ありがとう。
由梨は大きく目を見開く。
この青みがかった茶色の瞳ともお別れだな。
ああ、もう、お別れか。
やだな、寂しいな。
でも、ありがと。
由梨、大好きだよ。