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第二章 ―誘い招く者―

――家族のために尽くしなさい。

そう教えたのはあなたです

――あなたは私の分身です。

そう言ったのもあなたです

気付けばあなたはいなくなり

あとに残ったのは一人の人形

指針を失った人形は

目的もなく、目標もなく、ただ惰性に生きています

師匠の元に通いはじめて一週間が経ちました。

この一週間、魔術師らしいことをまったくしないまま、家事をして過ごしてしまいました。ああ、いえ。それらしい本を読んだりはしていたのですが、師匠自身から何の教えを授かることもなかったのです。

しかし、このままではいけません。

もしお父様に近況を聞かれてしまえば、私には「家事に勤しんでいました」としか答えることが出来ないのです。それはさぞがっかりなさることでしょう。

「一度はっきりと抗議するべきでしょうか……」

煮たってきた鍋に市販のうどん麺を投入し、熱湯の中で躍り狂う麺を眺めながらため息を吐きます。今日のお昼ご飯は素うどんです。正直手抜きです。

「でも、何か考えがあるのかもしれませんし……」

やる気が無さそうに見えても、お父様が推薦するほどの人です。香港映画みたいに、雑用をさせつつ有意義な修行をさせているのかもしれません。

「………………無いですね」

掃除や料理をしろと言われはしましたが、作法を教えられた覚えがありません。やはりただの下働きなのかもです。

「ふぅ、どうしましょうか……」

市販のだし汁を、先に湯につけて温めておいた椀に入れてお湯で薄め、ほぐれた麺をその中に入れます。上から刻んだネギを散らして完成。

「師匠を呼ばないと」

あまり細かいこだわりを持たない師匠ですが、二階へ食物を持ち込むことは嫌がります。飴のような固形物なら許可が降りますが、汁物は絶対に拒否します。本が濡れる可能性があるからなのだそうですが、お茶を飲みながら本を読んでいる姿をよく見かけます。結構いい加減です。

キッチンの隣にあるリビングにうどんを運び、階段に向かって声をかけます。

「ししょー、ごはん出来ましたよー」

反応はなし。でもすぐに降りてくるのは分かっているので、椅子に座って待ちます。

この屋敷の敷地内なら、師匠には声が聞こえるんだそうです。やろうと思えば視ることも出来るのだそうですが、それは師匠曰く「魔力の無駄遣い」なのだそうです。理論的なことはよくわからないので、聞くと視るとの違いがさっぱりです。

少しして、二階から階段を降りてくる足音がしてきました。そしてリビングに白衣の男性が姿を現します。

「やあ」

軽く手をあげ、すぐに手抜きうどんを視界に捉えます。

「冬の定番だねぇ」

そう言って私の対面の椅子に座り、二人揃って手を合わせます。

「いただきます」

「で? なにを抗議するって?」

椀を混ぜてネギをだしに浸しながら、師匠が聞いてきました。

分かっていて聞いているのか、分からないから聞いているのか判断がつきません。でも前者な気がします。だって師匠ですし。

「……師匠は私の師匠なんですよね?」

「君以外を弟子と認めた覚えはないけど。なんだ、独占欲かい?」

「違います」

うぬぼれないでください。

「この一週間、私は師匠の身の回りのお世話ばかりしてきましたが、師弟らしいことはほとんど何もしてないじゃないですか」

「師匠の時間は師匠のもの。弟子の時間も師匠のもの。弟子の時間は師匠の為にあるんだよ」

どこの世界のジャイアニズムですか。

「冗談だよ。こっちを睨みながら椀を持ち上げないでくれるかな。うどんって意外と張り付くから火傷しやすいんだよ?」

「私だって食べ物を粗末にしたくありません」

「投げようとしたのは認めるのか」と苦笑いしていますが、そうしようとした原因はあなたです。

「ふむ、では聞くがね。なっちゃんは自分が信頼出来る人間だと思うかい?」

「……えーと?」

「今は学院なんかも作られてるから実感し辛いだろうけど、元々魔術師にとって魔術とは、門外不出の秘技なんだよ。スパイなんてのもいたし、今でも旧家の間では一子相伝なんてことも珍しくない。君のことは弟子にした時点で信用はしてるけど、信用じゃまだ足りないんだよね。信頼に基づく実績が必要だったんだ」

「つまり、私には師匠から魔術を教わる資格がない、と……?」

衝撃的な話ですが、それもそうかと納得してしまいました。いくら支部長のお父様が紹介したとはいえ、私自身は一介の女学生に過ぎません。世間の裏側に生きる魔術師にしてみれば、信じるに値するものがなにも無いのです。

「正確には『なかった』だねぇ。この一週間、君のことを観察してたけど真面目に仕事してたし。判断を下すと決めていた今日に至るまで催促も無かったから、一定の信は置けると判断していいだろう」

まだ試験は続いていたといった感じでしょうか。……不安を口に出したのが今日でよかったです。

安堵の息を吐くと、片手で椀から直接汁を飲んでいた師匠が、空いた手の人差し指を顔の横で立ててくるりと回しました。

「なんですか?」

「いやなに。季節外れの虫がいたみたいでね」

「?」

虫なんてどこにもいませんが。


昼食を終えて作業部屋。部屋の真ん中に立つ師匠に命じられ、私は壁際に立っています。何が行われるのかというと、私にも分かりません。

「さて、始めようか。いいかい? 動いちゃ駄目だからね」

「はぁ」

何をするのかという説明もないので、気の抜けた返事を返します。師匠的にはそれでもいいようで、「うん」と頷くと右手で拳を作って親指と人差し指を立て、その『拳銃』の人差し指を私の方へと向けました。

「ばぁん」

一閃。

師匠の指先に何か円形のものが浮かんだかと思うと、そこから一本の光の筋が私の顔の数センチ横を掠めていきました。

おそるおそる顔を逸らして壁を見ると、黒く焼け焦げたような点が煙をあげていました。

「――――――っ!」

手を口に押し当てて飛び出しかけた悲鳴を噛み殺し、瞳孔の開いた瞳を隠すようにまぶたをぎゅっと閉じます。

――今、私、死にかけました?

「これが君の〝敵〟だよ」

荒い呼吸を繰り返す私に、師匠が普段通りの声で語りかけます。

「今、君を狙っているのは魔術師――人間だ。この一月で君が学ぶべきは魔術の知識だけじゃない。状況の急激な変化への適応力、襲撃者と相対しても恐怖心を抑えられる忍耐力。少なくともこの二つを鍛えないと、今みたいに固まって動けなくなる。そうなっては向こうの勝ちなんだよねぇ」

肩をすくめて首を振る。そんな仕草にすこしだけ平静を取り戻せました。

「だからって、急に」

「今から襲いますよって律儀に挨拶する馬鹿はいないんじゃないかな」

……それはそうですが。

「ま、今のをどう生かすか殺すかも君次第でね。落ち着いたら帰っていいよ」

そう言って師匠は私の頭を一撫でして作業部屋から出ていきました。

私は裏側の世界に触れた感触を忘れられず、しばらくの間立ち尽くし、内側から込み上げるものに耐え続けていました。



次の日の朝、足取りは重くもいつもの時間に師匠の家に着いた私は、何故かまたしても作業部屋の壁際に立たされていました。

まさか今日も指先ビームを撃たれるのかと身構えますが、そんな私の警戒心など意にも介さず、鼻唄を歌ってご機嫌そうな師匠は分厚い本を片手に持ち、床に大きな円とその内側に青いチョークのような棒で文字や図形を書き込んでいきます。俗にいう魔法陣が出来上がっていく様子は初めて見るので、次第に興奮が緊張を押し退けて前へと出始めました。

師匠は手慣れた様子でさっさと書き進めて魔法陣を完成させ、手招きして私を呼び寄せます。

「線は崩さないでね。出来るだけ円の中央に立って。……もう少し右。あと四半歩……はいオーケー。そこから動かないでね」

「あの、これからなにをするんでしょう?」

昨日のようにいきなり攻撃されるわけではないだろうと信じつつ、意を決して話しかけてみました。

「強化と付加の応用さ。素人のなっちゃんでも分かりやすく簡単に言うと、君の障子紙のような防御性能を底上げするんだよ」

師匠曰く、この作業を終えれば私の魔術に対する耐性が段ボールくらいにはなるそうです。どっちにしても紙です。というか、さりげなく貶されている気がするのは気のせいでしょうか。

釈然としない心持ちのままに立っていると、円の外側から師匠が膝をついて魔法陣に触れました。

「【起きろ、水面の守人】」

ぴちょんと、水が跳ねる音がしました。

次の瞬間、魔法陣から水が噴水のように噴き出し、溺れさせんばかりの勢いで私を襲いました。

「…………っ」

あまりの事態に息を吸い込んでおく暇もなく、噴き出す水は私の呼吸を妨げるように口内に侵入してきます。足掻いて外に出ようにも、動けば水の勢いに負けて転んでしまいそうで、迂闊に動けません。

気付けばまた死にかけているとも言える状況に涙が出そうになりますが、本当に涙を流すよりも先に水の勢いが弱まり、次第にその高さを低くしていきました。

「が、かはっ、……はっ、はぁ……」

脱力し、まだ僅かに水の沸く魔法陣に座り込んでしまいます。

「はぁ、はぁ……ふぅ……」

呼吸を落ち着け、事の元凶――師匠を睨みます。

「いやぁ、ははは。そう睨まないでくれるかな?こんなのただの水遊びじゃないか」

「その水遊びで死にかけたんですが!」

「昨日今日、魔道に足を踏み入れた人間に耐性を付けるんだ。荒療治じゃない訳がないだろう。そもそも、危険がないなんて言ったかな?」

危険があるならあるで、先に言っておいてくれませんかね。

と、そう口にしようとした時、ある可能性が頭をよぎりました。

「…………あの、師匠、一つ聞いてもいいですか?」

「なにかな?」

「まさか今の、わざとじゃないですよね?」

「あはははははは」

本当に、一発殴らせてくれませんかね。ぐーで。思いっきり。



「ふはぁ」

濡れたままで動き回るわけにもいかず、衣服や下着は乾燥機に入れ、私は浴室で体を暖めることにしました。もちろん許可を頂いています。

ちゃぷちゃぷ。

一般家庭のそれよりも随分と広い浴槽で四肢を伸ばし、足で水面を叩いたり力を抜いて浮いてみたりしてまったりします。

「はふぅ……」

服が乾くまでの間とはいえ、入浴は癒しの時間です。先程まで胸に秘めていた師匠への報復の意欲がどんどん解きほぐされていきます。

そういえば、師匠はあれで私の耐魔力が上がったと言っていましたが、私の感覚ではなにも変わった気がしません。むにむにと二の腕をつまんだり、手のひらを見つめたりしてみても変化は無いように思えます。

「うーん」

知識の乏しい私には分からなくても、詳しい人には分かるものなのかもしれません。改めて師匠にも確認した方がいいのでしょうか。

「まあ、いっかぁ」

今は至福の時間を優先です。はふー。



「ハイリスクハイリターンって知ってる?」

「ええ、まあ。大きな成果を上げようとするなら、大きな犠牲が伴うって意味ですよね」

お風呂から上がり、師匠の部屋で先程の疑問の答えを伺います。

「魔術も基本的にそういうものでね。それ相応のリスク――例えば魔力であったり私財であったり――を払えば、それなりの結果として返ってくるものさ。まあ、払った対価がまるっきり無駄になる、なんてことの方が多い世界だけど」

「私財ってお金ですよね? 魔術にお金って関係あるんですか?」

「大有りだよ。工房を構えるにも良質な土地から用意しなくてはならないし、道具や媒体、礼装なんかも最低限揃えるだけでもかなりの出費になる」

そういえば、初歩の魔術書でも宝石とか鉱石を普通に使ってましたね。

「……魔術師ってどうやって生計たててるんですか?」

聞いてる限り、生きているだけでも一苦労していそうです。

私はそれなりに裕福な暮らしをさせてもらっていますけど、もしかして借金……は無いですね。華美な生活を維持するためにお金を借りるとか、そういう意味のない見栄はお父様自身が一番嫌いますし。

「大抵は薬草を栽培したり、自分の足で素材を集めたりしてるはずだ。そうやって手に入れたものを協会が買い取ったり、逆に協会から買ったりもしている。君の家には協会からそれなりの給料が出ているはずだ。日本支部の大幹部だからね」

「はあ、なるほど」

魔術協会って思っていたよりも、魔術師に深い繋がりのある組織だったんですね。お父様が常に忙しそうにしているわけです。

「話を戻そうか。あの儀式で君は溺れかけた。それはつまりあの水を飲んだわけだ。あれには僕が使役している水精が宿っていてね。今は君の体に溶け込んで、内側から君の体質を改変している最中なんだよ」

水精って、水の精霊とか妖精とかそういうやつでしょうか。……飲んじゃっても大丈夫なんですかね、それ。

「んー、まあ、君は『水川』だから適応出来るだろう」

「……どうして言い淀んだのでしょうか」

しかも「だろう」って、不安材料にしかなりませんよ。

「ハイリスクだって言ったじゃないか。直接体内に取り込むやり方は事が速く済むけど、突然妙な場所に閉じ込められた連中が暴れださない保証はないだろう?」

言われたのはつい今しがたでしたがね。事後じゃないですか。

「……水精が暴れだしたらどうなるんですか?」

今一番知りたいことを質問すると、師匠は口を三日月の形に曲げて意地の悪そうに笑いました。

「ふふ、一日二日は便器が友達どころか恋人になるだろうね」

「……最低です……」

色々と。ええ、色々と。

「そう睨まないでくれよ。『水川』は水に属するものと相性がいいから、そうはならないはずだ」

睨んではいません。軽蔑しているんです。思春期の乙女に便器とか口に出さないでください。

「はあ、どうして師匠はこうも変態なんでしょうか」

「ついに堂々と口にしたね。まあ、否定しないけど。魔術師って変わり者が多いし、僕で慣れておくといいよ」

そういうことを自分で言いますか。しかも多いんですか、師匠みたいなの。

「そういえば、さっきから私の名字を口にしてますけど、有名なんですか?」

『水川』だから大丈夫とか、水に属するものと相性がいいとか。

「水のある所で『水川』に敵はいない、と言われる程度にはね。古い家は大抵一目置かれる存在なんだけど、その中でも『火ノ内』『水川』『木下』『金堂』『土浦』は日本魔術師の代表格とされているね」

「火ノ……水……、もしかして、陰陽五行ですか?」

名字の並びに思い浮かんだ単語を口にすると、師匠が人差し指を向けてきました。

「なっちゃん冴えてるね。天地万物の組成を『木火土金水』の五つの元素に分ける五行は元々、中国発祥の哲理なんだけどね。平安辺りに日本に伝わって以来、経緯は色々あったそうだけど、その魔術体系は現代にまで受け継がれているらしい。まあ、歴史の授業は君の父上にでも請いたまえよ。僕が知ってるのは上辺程度でね」

「師匠、土御門とか安倍は有名ではないんですか?」

「……君もマイペースだよね。まあ、いいか。旧家の全てが真っ当に生き残っているわけではないんだよ。昔は名を馳せていても、大抵は現代に至る過程で没落したり他家に吸収されたり、紆余曲折を経ていたりするものだ。それは日本以外でも変わらないことだよ」

歴史的に有名であっても、今でも直系の一族として続いているかどうかは、外部の人間には判別がつかないんだそうです。同じ名字って多いですもんね。

「さっきも言ったように、『水川』は水性魔術の大家と言われるほど水に近しい家だ。その血を引く君にも水精は馴染みやすいと思うよ」

「あの、もし馴染まなかった場合、私はまた水浸しになるのでしょうか」

苦しい思いはあまりしたくないです。

「ふむ、もっと安全な方法となると、苦しくはないけど、とても恥ずかしい思いをすることになるよ?」

「それはどんな……?」

「水精の宿った水の中に半日ほど浸かってもらう。内ではなく外から作り替えるわけだ。僕は水精が妙なことをしないように監視するし、君は裸にならなくてはいけない。余分なものは無い方がいいからね」

………………それは、確かに恥ずかしいですね。というか、そんなことをするくらいなら素直に溺れますよ。うら若き乙女の裸体を、そう易々と晒したりするものですか。

「さて、僕はやることがある。今日はもう帰っていいよ。書庫は開けてあるから自習がしたいならご自由に。あと作業部屋の扉には指一本触れないこと。これは注意ではなく警告だ。意味は分かるね?以上、解散」

苦汁を舐めたような顔をしている私に、それだけ言い残して師匠は部屋から出ていき、すぐに真向かいの扉が開閉する音が聞こえてきました。

ええ、まあ、師匠も私ばかりに構っているわけにはいかないということは分かりますが、もう少し返答の余地というものを寄越してくださいませんかね?

結局そのまま帰宅した私は、自室で横になったりリビングでくつろいでみたりと暇を持て余していました。……勉強?……気が乗りません。はい。

そうしている内に就寝する時間になっても、水精が暴れているらしい予兆もなく、安堵の息と共に床に就いた私は、翌朝も師匠の部屋を訪ねました。

「調子は、良さそうだね」

一目見るなりそう言い、関心を無くしたように新聞に目を通し始めました。師匠の手元には全国紙が一誌と地元紙が一誌。外国紙とか読んでそうなイメージがあったんですが、読まないんでしょうか。

「日本にいるんだから日本の新聞を読むのは当然だろう。ただの暇潰しだがね」

自分で言っている通り、師匠は関心を持って読んでいるという様子ではなく、他にすることもないから仕方なく読んでいるような感じがします。

「昨日言っていた『やること』は終わったんですか?」

「ん?ああ、まあね」

深く話す気もないのか、ペラりと新聞をめくりました。

「………………」

なんでしょう。師匠の様子がいつもとは違う気がします。長い付き合いという訳ではありませんが、普段ならもっとこう、自分勝手にとりとめのない話をし始めるのですが。

妙にやる気がないというか、心ここに在らずといった様子の師匠の扱いに困った私は、とりあえずお茶を淹れようと階下の台所へ向かいました。

湯沸し器に水を入れてスイッチオン。これは私が持ち込んだ文明の利器なのですが、師匠は邪道と言って使いたがりません。使わないだけで、私が淹れれば口にしますが。そういえば、師匠は携帯電話も持っていないようですね。もしかすると、ただの機械音痴なのかもしれません。急須にお湯を注ぎ、湯呑みに淹れます。玄米茶の香ばしい匂いを師匠に届けるべく、二人分の湯呑みを盆に乗せて二階へ戻りました。

「師匠、お茶淹れましたけど飲みますか?玄米茶ですけど……あれ?」

師匠の部屋に入ると、そこに師匠の姿はありません。机に盆を置いて部屋の中を見回しますが、隠れているような気配もなく退室しているようです。

何処に行ったのだろうかと首を捻りつつ部屋を出ると、階段の方向からなにやら物音が聞こえてきました。

「あそこは……薬品室でしたか」

あまり目に入れていたくない品があるので、出来ることなら必要に迫られない限り立ち入りたくはないのですが。

いきなり開けると危ないかもしれないので、とりあえずノックをして呼び掛けてみます。

「ししょー。ここにいるんですかー?」

中からガタッと大きな音がしたかと思うと、硝子の砕ける音が幾度か続きました。非常に嫌な予感がします。

「し、師匠、大丈夫ですか?」

『ああ、いや、大丈夫ではないな。けほっ、やれやれ、考え事をしながら漁る場所ではなかったな』

大丈夫ではないと聞き、私は慌てて扉を開けようとしますが、それよりも先に師匠に止められてしまいました。

『開けない方がいい。僕は慣れてるけど、君には有害だ。片付けるから一、二時間ほど外に出ていてくれるかい?僕の部屋の机の引出しに紙幣が入っているから、それで昼食をとってくるといい』

「一人で平気なんですか?掃除なら手伝いますよ?」

『邪魔になるからいらないよ』

「あ、はい……」

申し出を一蹴され、師匠の指示した場所からお金を取り出して薬品室の扉に声をかけます。

「それでは行ってきますね、師匠」

『ああ、行ってらっしゃい』

カチャカチャと硝子が擦れあう音と重なりあった師匠の声に送り出され、私は時間潰しの旅へと出掛けました。



階下から響く玄関の開閉音を聞き、木戸藍楽はふぅと息を吐く。

彼がいる場所は、今や常人立ち入ることを許さぬ毒霧で満たされている。水の精霊をその身に宿したとはいえ、未だ唯人の域から脱していないあの娘には、刹那の滞在も厳しいだろう。

「己の失態とはいえ、これは酷い」

口元を隠そうともせず、平然と呟く。

昨夜の実験が成功したことで気が抜けたのか、それとも力を使いすぎたのか。この身を蝕む虚脱感に抗おうと、薬の精製に手を着けようとしたのが間違いだった。

柄にもなくここに至るまでの郷愁に浸ってしまい、弟子の呼び掛けに過剰反応してしまった。

「あの娘にも心配をかけたな」

心根は素直でいい子だ。遊び甲斐もある。

彼女について、木戸藍楽にとっては暇潰しの一環にすぎなかったはずなのだが、存外弟子というものも悪くないように思う。

「……ふむ」

この先を考えると未練や執着は好ましくないのだが、気が変わってきているらしい。

「まあ、今更だがね」

木戸藍楽は既に天に向かって唾を吐いた。あとは唾が天上に座す神とやらの顔面に張り付くか、届かずに自らの身に降り注ぐかしかない。

――神は天に在します、並べて世は事もなし。

お前が見過ごし生まれた道化の踊る様を、嘲笑いながら眺めているがいい。



「ごちそうさまでした」

両手を合わせて感謝の祈り。

久し振りの外食は開店したての洋食屋さんでしたが、まずまずの美味しさでした。

支払いを済ませて表に出ると、まだまだ冷たい空気が暖房で温まった頬を冷まします。

「んー、時間はまだありますね」

自転車に跨がり、宛もなく漕ぎ出します。もう少し暖かくなれば、こうして感じる風も心地好いものになるんですがね。山が多く、盆地のようになっているこの土地ではまだ先の話になりますが。

シャコシャコシャコシャコ。

チェーンの回る音と、たまにすれ違う自動車のエンジン音を共にしばらく漕ぎ続け、道中で見つけた川沿いの公園に立ち寄りました。

児童公園の看板とシーソーや鉄棒等、小さな遊具以外なにもない広場ですが、静寂に満ちた空間が妙に心安らぎます。

「……これは穴場かもしれませんね」

木で作られた屋根付きのベンチに腰掛けてちょっと休憩。近くを流れる川のせせらぎに耳を傾けているうちに、段々と眠気を催してきました。

「…………ふぁ」

流石に風邪をひきますかね。でも眠気を伴った運転は危ないですし。……ちょっとだけなら……。

――ちりん。

睡魔がもたらすのは甘い誘惑です。目を閉じろ、意識を閉ざせと囁いてきます。

――ちりん。

こくりこくり。魅惑的な手招きは抗いがたく、私はなすすべもなく眠りの淵へと滑り落ちていきます。

――ちりん。

……………………。

――ちりん。

『眠れや眠れ。眠れや良い子。良い子はこちら。こちらへおいで。おいでやおいで。おいでや良い子』


――ちりん。




「…………うむぅ…………んぅ?」

変な声が聞こえたような気がして、私は目を覚ましました。

「んー、……ん?」

おかしいですね。そう長く寝ていた感じはしないのですが、やけに辺りが暗いです。というか……、ここ、室内ですよね?

よく見れば、窓が外から黒い布で覆われているようです。道理で暗いはずです。

「……………………はえっ?」

いや、おかしくありませんか?私、どうしてこんなところにいるんです?公園にいたはずなのに、……ここ、どこですかぁ?

「おやぁ、起きなすったか」

「っ!」

状況を飲み込めない私に追い討ちを仕掛けるように、どこかから男の人の声がしました。

「ああ、ああ。危害なんざ加えませんやな」

「だ、だ、だれですか」

「ん、んん~、あぁ~、はははぁ」

ぞくり。と、身震いするような吐息。

「だ、あ、れ、だぁ、あっははぁ」

なんなんでしょう、この人。ヤバイです。なにか危ない薬を服用しちゃってるんじゃないでしょうか。

「ルンペン・ルーズリード」

ふいに、正気に戻ったかのようなはっきりとした口調で、彼は名前らしきものを口にしました。急な変化に目を丸くする私に、ルンペン氏は咳き込むような笑い声をあげました。

「いやぁ、なに。力を使った後はこうなるんでさぁ。後遺症とか副作用だなぁ」

そう言いながら、ルンペン氏は部屋の灯りを点け、椅子に座ったままの私の前に姿を見せました。

薄汚れた作業着から覗く肌は浅黒く、顔は痩せこけて、まるで浮浪者のような印象を受けます。

「とりあえず、お嬢さん。飯食うか?」

にやぁと粘着力の強そうな笑みを浮かべます。ですが私も、その誘いに乗れるほど余裕があるわけがありません。

「……いりません」

「おやぁ、そうかい」

申し出を断ると、ルンペン氏は一転して『しょんぼり』と擬音語が出てきそうなほど、ガッカリしたように肩を落としました。この人かなり情緒不安定です。

会話によって少しばかり落ち着いてきた私は、状況を把握するべくルンペン氏に声をかけました。

「あの、私今、どういう状況なのでしょうか?」

「んん~?」

ルンペン氏はぐぐぐいーっと首を傾げ、目をクリクリと動かし始めました。かなり不気味な光景に、全力で後退りしたい気分に駆られましたが、どういう仕掛けなのか体が全く動きません。

「あっは~。そうそう。聞くだけ聞いてポイっじゃぁ、駄目だよなぁ。あのなぁ、おれたち、お嬢さんを捕まえちゃった」

「捕まえちゃった……?」

なんですかその、うっかりやっちゃいました的な言い方。いや、突っ込みどころはそこではなく。

つまり私、拉致られちゃいましたか。

「やっぱり、屋外での昼寝は危険でした……」

「いやぁ、おれも上手くいくとは思ってなかったんだ。たまたまお嬢さんが白いのから離れて一人きりになったからやってみたらさぁ、ちゃぁんと掛かっちゃってな」

愉快そうに笑ってますが、その発言には引っ掛かるものがあります。

「………………白いの?」

それって、もしかしなくとも師匠のことですよね。それにちゃんと掛かっちゃったって。

「あの、ルンペンさん。つかぬことを伺いますが」

「ん~?」

「あなたは、魔術師ですか?」

「ああ、はい」

頷くルンペン氏に大事な質問を続けます。

「……過激派の?」

「ん、ん~、んん~。……少し違うなぁ」

長考の末、曖昧な答えが返ってきました。

「あんたたちはぁ、魔術『協会』。おれたちはぁ、魔術『結社』。過激派って名前じゃねぇなぁ」

「……つまり?」

「過激派ってのはぁ、協会の連中が勝手に呼んでるだけで、おれたちは魔術結社なんだなぁ」

名前に関しては初耳ですが、どうでもいいです。今重要なのは、私はお父様が危惧していた状態に陥ってしまったということでしょう。

「……一応訪ねますが、これから私はどうなるのでしょうか?」

「ん~、さぁ?」

「えぇ……」

予想外な返答に脱力します。そういえばさっき、『上手くいくとは思ってなかった』って言ってましたね。今更ですが、思い付きで捕まったんですか、私。

「ん?……そういえばさっき、『聞くだけ聞いて』って言ってましたよね。私、寝てましたよね」

ふと思い出したので口に出してみると、ルンペン氏は驚いたように目を丸くしました。

「お嬢さん、本当に素人なんだなぁ」

「…………ええ、まあ」

本格的に習いはじめて一週間にも満ちませんが、なにか。

ルンペン氏は「はぁ、はぁ」と納得したように数度頷き、またにやぁとガムテープばりの粘着性を有していそうな笑みを浮かべました。

「お嬢さん、『言霊』ってぇの聞いたことあるか?」

「え、ああ、はい」

言葉には不思議な力が宿るっていうやつですよね。

「おれの得意な魔術」

「はあ」

とりあえず相槌を打ちます。

「まずな、ゆっくりと意識を奪うんだぁ。眠れや眠れっつって。んで、ここまで誘導してぇ、聞きたいこと聞いてぇ、体の自由奪ってぇ、終わりでさぁ」

つまり、催眠術みたいなものなのでしょうか。私は眠っているつもりでも、傍目からはちゃんと起きて見えるという。

「でもなぁ。お嬢さん、何にも知らなかったんだわ。本当に水川の娘なのかって、何度も確認しちまった」

それはそうでしょう。家業のことは知っていても、本当に浅い部分だけでしたし。師匠に教えてもらったことも、彼らにしてみれば常識の範囲内のはずです。情報源としてこれほど役に立たない身内なんて他にいないでしょう。

「んでな、上の連中に相談したんだわぁ。そしたらめちゃくちゃ怒られちまったよ。勝手なことするなって」

「え?」

どういうことでしょうか。お父様を含め、私たちの予想では人質として扱われるはずなのですが。

「あの白いのって、『魔王の忘れ形見』なんだってよ。それ聞いておれたちもびっくりしちまってさぁ」

『魔王の忘れ形見』ってなんなんでしょうか。

そう訊ねようと思ったのですが、次のルンペン氏の言葉にその問いは頭の中からするりと抜け落ちてしまいました。


「今仲間たちがな、やられる前にやろうってことで、あの白いのの屋敷に行ってんだわ。数は揃ってるから、流石に殺せんだろ」


はっきりと、ためらいもなくルンペン氏はそう言いました。

「え、……師匠を殺すって、なんでですかっ!」

詰め寄ろうとしますが体が動きません。拘束された感覚もなく、全身が脳の命令を無視しているかのようです。

「なんでって、そうせにゃあ、おれたちが殺されちまうしなぁ?」

「なんでっ、師匠がっ、この、体がっ!」

平然と返される答えに納得がいかず、声を荒らげながらどうにか体を動かそうと足掻きます。ですが、

「ああ、ああ。お話もここまでだなぁ」

そう言ってルンペン氏は、胸ポケットから透明な液体の入った小瓶を取り出して、中身を口に含みました。

「んじゃあしばらく――『黙れ』」

「――――――!」

「おれもなぁ、あんま手荒なことしたくはねぇのよぉ。ひひっ、ひっ」

これがルンペン氏の言う『言霊』なのでしょう。一瞬前まで言葉を発していた口までもが、役割を忘れたかのように音を発することをやめてしまいました。

ひきつるような笑い声をあげるルンペン氏は、部屋の隅に置いてあった段ボール箱から、先程服用したものと同じような小瓶を取り出して胸ポケットにしまいました。おそらく、あれが『言霊』を使うための要なのでしょう。

しばらく中空を見つめながら笑っていたルンペン氏でしたが、突然表情が溶け落ちたかのように無感情になって静止しました。

「なんだ」

ぽつりと、そう呟いた次の瞬間、ドンッと私の目の前の壁が破裂し、その向こう側から、


「や。元気かい?」


馴染みの屋台に顔を出すかのような気軽さで、いつもの白装束を身に纏った師匠が壁に空いた穴から入ってきました。


「……なぁんで、あんたがここにいるんですかぃ」

師匠に視線を向けつつ、ルンペン氏は段ボール箱から小瓶をいくつか取り出しました。その内の一つの蓋を開け、一息で煽ります。

どうにかして師匠に彼の魔術について情報を伝えようとしますが、私の体は『言霊』の呪縛によって拘束されています。

ただ私が焦っているということだけは表情で伝わったらしく、師匠は「ふぅん」と椅子に座ったままの私を爪先から頭の天辺まで眺めて頷きました。

「呪いか」

「質問に――『答えろ』!」

無視された形になったルンペン氏は怒号に魔力を乗せ、師匠に命令しました。師匠は一寸ばかり目を閉じて、鬱陶しげな視線をルンペン氏に向けます。

「分かりきっていることを聞くのは馬鹿のすることだよ。君のお仲間は全滅した。それが答えだろう」

「てめぇ……」

憤懣するように体を震わせるルンペン氏に対し、師匠は怒りを煽るように首を振ります。

「まったく。聞けば君たちは僕のことを知りながら、仕掛けてきたそうじゃないか。大人しくしていれば、それほど手酷い目に合わせずに済んだだろうに。馬鹿の上に愚かの二文字が付く」

それに、と師匠が私を指差しました。

「この子に手を出したね?いやはや、まったく、無知なのか無謀なのか」

「『黙れ』ぇ!『黙れ』『黙れ』『黙れ』『黙れ』『黙れ』ぇ!もうてめぇはタダじゃ帰さねぇぞ!ひっ、ひっ、はははははぁ!」

一つ、二つ、三つと次々に小瓶を空にしていくルンペン氏を見て、『黙れ』と命令されたはずの師匠が口を開きます。

「第五元素水――『エーテル』の粗悪品か。その症状を見るに協会のものじゃないね。個人作成の劣化品かな」

「――なんでおれの『言霊』が通じてねえ」

「『言霊』?出来の悪い催眠術か精神汚染の間違いだろう。大方、術式の体内移植に失敗して大した力を使えずにいるんだろ?」

これは後から聞いた話なのですが、ルンペン氏の『言霊』は術式を体内に取り込むことで詠唱等の手間を省く魔術式の一つだそうで、儀式に失敗したのか上手く整合が取れず、本来の性能を発揮出来ていないらしいです。

元々の『言霊』というのは、世界を改変する力のことだそうで、使いようによっては世界を滅ぼした大洪水のような、神話の再現も不可能ではなくなるそうです。

「どうやら君は仲間を害されたことで憤っているようだけどね」

そう言って、師匠はにこやかに笑いました。


「僕だって、かなり虫の居所が悪いんだ」


空気が質量を持ったかのように、重くなりました。

ルンペン氏に対して催した嫌悪感からではなく、生存を訴える本能がこの場からの退避を求めています。

聖人君子のような笑顔とは真逆の威圧感に、胸の動悸が酷く激しくなって息苦しさまで覚えます。

「……化け物め」

真正面からその重圧を向けられたルンペン氏は、額に脂汗を滲ませながらも師匠を罵倒しました。

「そうだ、僕は化け物なんだよ。そして君たちはその化け物の逆鱗に唾を吐き付けた」

師匠の足元が輝き始め、円を象って徐々に広がっていきます。

「僕はね、自分のものに手を付けられるのが大嫌いなんだ」

師匠が人差し指をルンペン氏に向けると、光円が収束して一本の線になりルンペン氏に向かって走り出しました。

「ちっ!」

ルンペン氏が横に飛び退くと、光線は彼の側にあった段ボール箱に当たり、爆発するように火柱をあげました。

「ふ、ふふ、ふひははは!――『起きろ』ぉっ!」

壊れたような笑い声をあげ、ルンペン氏は咆哮します。

直後、天井から杭らしきものが落下してきます。それに続いて壁から無数の針が飛び出し、その全てが師匠へと襲い掛かりました。

『起きろ』という妙な命令は師匠へではなく、この部屋の仕掛けへ向けられたものだったのでしょう。

魔術師は迎え撃つ方が圧倒的に有利であるという、見本のような戦法です。

「あっはははぁ!馬鹿が!馬鹿が馬鹿がぁ!そいつを『殺せ』ぇっ!」

四六時中屋敷に籠っているとは思えない機敏な動きで迫り来る罠を回避し、時には叩き落としていきますが、『鋼鉄の処女』のように四方八方から止むことのない攻撃は続きます。

そして、ルンペン氏も『言霊』に頼るばかりの一辺倒ではありません。

「『絡めとる戒めの蔦』ぁ!」

床に手を突き、短い詠唱を済ませるとその手元から黒い植物が沸きだし、師匠へと伸びていきます。

「ちっ」

黒色の蔦を見て舌打ちし、回避先を模索していますが、師匠は動きません。

「…………」

一瞬だけ、私と目が合いました。

すぐに逸らされた視線に、私は自分の存在が足を引っ張っていることを悟りました。

部屋中から凶器が飛び交っているなか、仕掛人であるルンペン氏はともかく、私まで無事であるというのはおかしいのです。

彼に私を人質にするという思考がないのは先の会話で承知済みです。私を避けるように攻撃していては、師匠に回避先を提示するようなもの。

では、何故私に流れ弾が向かってこないのか。

それは、師匠がそうならないように動いているからです。

恐らく、師匠は回避が可能なはずです。ですが、避けてしまうと落としきれない流れ弾が私に当たってしまうのでしょう。

「――――――」

声を出すこと叶わぬ口を必死に動かそうとします。ですが私にはルンペン氏の呪縛を解くことは出来ず、物言わぬ人形のように身じろぎ一つ出来ません。

そうしているうちに蔦が師匠の足を捕らえて絡み付き、好機とばかりに数多の凶器が師匠に飛び掛かります。

「ぐっ!」

白装束を貫き、肩に、胸に、腹に、足に突き刺さり、師匠の口から血が溢れ出しました。

「ひっひひ、はははぁ!『燃えろ』ぉ!」

更にルンペン氏が『言霊』を発し、師匠を捕縛していた蔦が燃え上がり、瞬く間にその全身を覆い尽くしました。

「ふ、ふひ、ひははははははぁ!やった!やったぁ!」

歓喜の声をあげながら、ルンペン氏は懐から拳銃を取り出し、師匠に向けて発砲しました。

ぱぁん、という軽い音の後で、炎に包まれた師匠から更に血が吹き出します。

追い撃ちにまた追い撃ちを重ね、ルンペン氏は満足したようにまた笑っています。

「――――――」

目の前で、師匠が燃えています。

私のせいです。

私がいたから、師匠が――。


「いやはや、まったく」


そんな声が、耳に届きました。

「古い友人相手ならともかく、僕が串刺しにされて焼かれただけで死ぬと思われているなんて」

ずずっと、炎に焼かれている師匠が、体に刺さった刺を引き抜いていきます。

「この程度で終わるなら、誰も苦労はしないだろうさ」

ずずっ、からん、ずずっ、からん。

ルンペン氏も、呆然とその光景を眺めています。

「まったく。君のせいで僕の弟子が泣きそうじゃないか」

最後の一本を抜き取り、師匠が爪先で床を数回叩くと、その身を覆っていた炎がふっと消えてしまいました。

ローブは所々穴が開き、数ヵ所に焦げ目が見えますが、あの惨状を経たとは思えないほど師匠は平然としています。

「あれだけやっても死なねえのかい、あんたは」

そういうルンペン氏の表情は、信じられないものを見た、いや、だからこそかと、納得したものへと変化していきます。

「『奇跡の遺物』か。魔法ってのはとんでもねぇなぁ」

「そうでなければ、協会も禁域に指定したりしないさ。さて、どうする?」

天井を指差しながら、師匠がルンペン氏へと歩きだします。

「まだ、やるかね?」

「冗談でしょうや。おれじゃああんたは殺せねぇ」

首を振るルンペン氏ですが、その顔は諦観に染まりながらも、目からは力が失われきれておらず、一矢報いようという意思が見てとれます。

その目が、私を捉えました。

「『死――――』」

言葉は途切れ、ルンペン氏は胸を穿った師匠の腕を見つめて天を仰ぎ、そのまま仰向けに倒れ伏しました。

師匠は赤く染まった右腕を振って血を飛ばすと、私の方へ振り向いて常のような気軽さで、

「じゃ、帰ろうか」

そう言って動けない私を抱き抱えました。


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