序章 ―第九を口ずさむ者―
「ターターターラーターターターターラー」
本州と四国を渡るフェリーの上。端から見ると上機嫌に、ベートーベンの交響曲第九番を口ずさんでいる男がいた。
彼はこの曲がお気に入りで、最低でも年に一回は生の音を聞きにホールへ出向いている。彼もある方面では有名人なので、その最低一回が難しいのだが。
そんな有名人が今回、このフェリーに乗船しているのは、二十年近く前に交わした約束を果たすためである。
二ヶ月ほど前、年末の演奏会に出向いたのがことの始まりだった。去年は諸事情で年末まで忙しく、一番混み合う時期になるまで趣味に動くことが出来なかった。なんとか年の瀬の席を取ることができ、楽しみに向かったその場で彼は捕捉された。
一応演奏を聴くことは出来たのだが、その代償として、本人も忘れていた約束を果たさせられることとなったのだ。
実のところ、彼が今第九を口ずさんでいるのは機嫌が良いわけではなく、ただの未練であった。
「タータンター……ん」
目的地である四国の影を捉える。上陸すれば迎えの者が待っているとは聞いているものの、正直かなり憂鬱だ。約束のことは置いておくとしても、彼は基本的に乗り物が好きではない――というより、歩いて旅する方が楽しい――ので、待ち受けているであろう車に乗ることが嫌だった。今乗っているフェリーも本当なら乗りたくはなかったのだ。
しかし、自身の気まぐれさもまた有名であり、相手方にしてみれば好き勝手に歩き回られるよりは、ある程度動きを制限できる交通機関を利用させる方が気が楽なのだろう。
自分の気性が原因なので文句も通らず、不満のみを抱えて彼は溜め息を吐く。
そうして、人の姿を型どった波乱が目的の地に上陸した。