ただ、好きだっただけ
幸福そうな花嫁が、彼の隣で笑っている。
そこにいるのは本来私だった――なんて過去の話を出来るほど暇じゃないはず。
なのに、どうして私はここにいるのだろう?
「ターシャ」
「わかっているわ」
促されて踵を返す。それでももう一度、振り向いた先で見たのは。
愛おしそうに花嫁へ口づけを送る彼の姿だった。
彼と出会ったのは本当に幼い頃。それこそまだ男女の違いさえ判らぬほどに小さな私にとって、彼はまさしく王子様だった。
両親の仲が良かった、だから幼馴染として共に育った。同時に婚約をしていたのだと知ったのは十歳になった時。
それは彼の両親が不慮の事故で他界し、親族に引き取られるのを見送る最中に父から聞かされた話だった。
「いつでも帰って来てくれてよいのだぞ? そなたはターシャの婚約者なのだから」
そう言った父の言葉で、はじめて婚約をしていたのだと知った。同時に覚えたのは歓喜。
気が付くよりもずっと前から、私は彼の事が大好きだったから。
だけど、それは束の間のぬか喜びでしかなかった。
「いいえ、どうか私の事はお忘れください。最早私はターシャに相応しい身分ではない」
きっぱりとそう言い切った彼は、私に一瞥もくれず立ち去った。
確かに私は下級とはいえ貴族で、両親を亡くした彼は身分違いになる。だけど、それがなんだというのだろう?
私にとって彼は大切な幼馴染で、最愛の人で。それに変わりはなかったのに。
「お父様」
「……あの子は聡いな。二人の死が、あの子を大人にしてしまった」
引き止めて。そう言おうとした私の言葉は、喉で止まってしまった。
ぽつりとつぶやいた父の顔が哀しみと微かな安堵を浮かべているのを見てしまったから。
「お、とう、さま」
「ああ、彼の言うとおりだ。彼はもう、ターシャ。そなたとは釣り合わぬ」
嘘だ、と叫びたかった。だって彼を好きなのに、私は彼を好きなのに。
そう叫べば、今は変わっていたのだろうか。
当時の私は叫べなかった。ただ、父の言外の拒絶に自分の意見を引っ込める事しか出来ないでいた。
あれからもう、十年以上の年月が過ぎている。
彼は実力で名のある騎士の一人に登りつめ、私も社交界で咲き誇る花のひとつとなった。
それでもこの心に残り続けた初恋は色褪せなかったらしい。
風の噂で彼の結婚を聞いて、気が付けば馬車を走らせていた。
彼が選んだのはどんな女性なのか。私よりも美しいのか。私では駄目だったのか。ぐるぐると心の中を言葉が回る。
社交界の花が、なんて有様だ。王族でさえ愛を囁く美貌を持ちながら、どこまで子供なのだと自嘲さえ浮かぶ。
それでも、心は素直だった。嫌だと叫んでいた。忘れていたはずだったのに、忘れてなんていなかった。
「ターシャ」
「わかってると言っているでしょう」
再び名を呼ばれた時に少しばかりキツイ物言いをしてしまうのは、そのせい。
私を見つめる瞳が翳るのを見ても、荒れ狂う心は抑えきれないでいるのだから。
「フェリクス、帰っていいわよ」
「貴女をおいて?」
「ええ。心配しなくても馬鹿な事はしないわ。あの二人を引き裂くようなみっともない真似も、自ら命を絶つような愚かな真似も」
これでもささやかながらプライドはあるのだ。
苦笑交じりにそう言えば、返って来たのは不機嫌そうな顔で。
「妻が他の男で頭をいっぱいにしているのに帰れるとでも?」
「政略結婚じゃない」
彼の次に決まった結婚相手。嫌いではない、むしろ好きだとは思う。
ただ、それが彼とはあまりにも違う感情なのだ。穏やかに寄り添う友情めいた想いと、狂おしいほどの恋情を同じには出来ない。
「貴女はどう思っているのか知りませんが、私は貴女を愛していますよ」
真っ直ぐなまなざしに返す言葉などない。
気付いていない訳ではなかった。夫が本気で愛してくれていると、気が付かぬほど愚かではない。
ただ、心はどうしようもないだけで。
「……う……」
様々な思いが痛みとなって胸を刺し、堪えきれずに涙が零れた。
恋しい、かなしい、申し訳ない、情けない。押し寄せる感情が止まらない。
「ターシャ」
すっぽりと夫の腕に抱きかかえられ、結い上げた髪を崩さぬよう慎重に撫でられる。
怒っているのに、優しい人。それが更に涙を誘う。
ああ、どうしてこんな単純な話が、こんなにも難しいのだろう。
ただ、好きだっただけ。それだけなのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
優しい夫の腕の中で他の男を想って泣くなど、最低だ。そうわかっていても止められない。
ただ強くなった腕の力だけが、今の私にとって確かに頼れるものだった。
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