「岩肌巖雄・中」
◆◆◆
「いーえーつーなー!」
「あ痛てッ、由乃てめぇ……、何しやがんだ」
ボクは怒りに任せ、家綱の頭を思い切りぶっ叩いた。少々のことなら我慢して目を瞑るつもりだったが、これは流石に我慢しきれない。
「人のお金で、人がせっせとバイトして貯めたなけなしの金で何勝手に競馬に行ってるんだよ! 勝ったから良いものの……って、勝っても良くないけど、お前のせいであの時のボクがどれだけ苦労したか、分かってるのか!?」
「悪かった、謝るよ由乃」ボクの剣幕に気圧されたか、家綱は申し訳なさそうな顔で謝った。「けどよ、俺だって何の断りもなしに金を借りたりはしねぇよ。覚えてねぇか? ほら、一年前の俺がお前の財布に忍ばせた、あの紙」
「紙……? そんなもの覚えてないぞ」
「何言ってんだ、入れておいた筈だぜ。俺の素晴らしく丁寧な字で”ちょっと借りるよ”と書いた紙を……」
聞いたボクが馬鹿だった。そう言えばそうだ、確かに覚えがある。折角だから外食にでも行こうと財布を覗いた時のあの絶望感、沸々と湧き上がる家綱への憎悪。全てはあの一枚から始まったんだった。ボクは今感じた怒りと、一年前に滾ったあの怒り。二つの力を一つに束ね、家綱の後頭部を掴んでテーブルに叩きつけた。
「ちきしょう! なんてことしやがるんだこの野郎! 謝ったし、きちんと断ってただろう!?」
「余計悪いわ! お前一応大人だろう!? 子どもの手本になるべき大人が、子ども染みた真似して盗みを働くんじゃない!」
もう無茶苦茶だ。ボクは今までこんなアホと一緒に生活していたのか。がっかりだよもう。ほら、傍目で見ている岩肌さんだって……。
「あの、由乃ちゃん、家綱探偵。そういう与太話はいいから、話を続けてもらえないかしら?」
「えっ、あぁ。あぁ……」
と思ったが、岩肌さんにとってはそれどころではないらしい。いや、よくないでしょう実際。これ窃盗ですよ。しょっぴかなくていいんですか、警察官として。
まぁでも、与太話には違いない。元々ボクが食ってかかっただけだし。仕方がないから一時的に家綱を許すことにする。あくまで一時的に、だけど。
「……もういいか? 話を続けるぜ。それで俺と厳さんは、競馬場近くのオムライス専門店に行ってだな――」
◆◆◆
岩肌巖雄、罷波町警察・重大犯罪課の警部。一等の馬をぴたりと当てたこのおっさんは、どうやら俺の素性を知った上で仕事を依頼してきたらしい。
俺は特に何も考えず首を縦に振り、どんな依頼だと聞いたのだが、「ここではまずい」と場所を変え、競馬場近くにある、場末の『オムライス専門店』へと連れて来られた。
オムライスと言えば、最近噂の『女子力』を上げるアイテムとして注目されているが、この店は場末すぎるらしく、若くてきゃぴきゃぴした女子は一人もいない。そもそもこんな廃れた店に入るイマドキの女子なんているのだろうか。ロザリーも纏も首を横に振るだろうな。あぁ、でも、葛葉のやつはそうでもないか。飯さえ美味ければ。
俺は店員の計らいで店の一番奥の席へと通され、おっさんの一存で『この店のお勧め』を注文されてしまった。
注文を行って店員を下がらせ、お冷を口に運んで一息付いた俺は、何用だとおっさんに問う。
「いい加減に聞かせろよ。俺に何をやらせようって言うんだ。奥さんの浮気調査か? あんたぐらいの歳じゃあずいぶんとただれてそうだしな」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。今年で結婚二十八年目。周りが引く程アツアツよ」
おっさんは左手でコートの右ポケットからライターと煙草の箱を取り出し、そこから一本抜いて口に咥えてポケットにしまい、ライターで火を点けて言葉を継いだ。
「証拠探しさ。警察の中じゃ探せないような後ろ暗い奴のよ。こいつを見てくれるか?」
奴はそう言うと、俺に一枚の写真を見せた。今俺の目の前にいるこのおっさんと、友達にしちゃ妙に若々しい警察官が、肩を組んで楽しそうに笑っている写真だ。
「なんだよこいつ。あんたの息子か?」
「厳騎雄一……、大分歳が離れちゃいるが、俺の相棒だよ。あいつが捕まえて、俺が取り調べ。やり過ぎだ何だと上からよく始末書を書かされていたが、それなりにいいコンビだったよ」
『コンビ』。その言葉を口にする時、おっさんの目が僅かに緩んだ。言葉以上に親密な関係だったらしい。……いや、ちょっと待てよ。
「おかしな話だな。『だった』ってのはどう言うことだ」
おっさんの眉間に皺が寄る。「死んじまったよ、ある事件を追ってる最中にな」
「あぁ、その……済まねぇな。思い出させちまったか?」
「『ゲンキ』が死んだのは三日前だ、思い出すも何も無い。それよりも、だ」
おっさんは『相棒』の写真を懐にしまい込むと、代わりに別の写真を俺に見せて来た。
映っているのはさっきと同じ男。苦悶に歪んだ表情に、死んだ魚のような目。耳と鼻と口の周りは赤黒い染みで汚れていた。首に縄できつく絞められた跡が見える。
なるほど、両手の指がおかしな曲がり方をしていて、その全てが血だらけになっているのは、死ぬ寸前までそいつを引き剥がそうとしていたからか。
「こいつは町のモーテルの一室で見つかった。だがな、ゲンキはそんじょそこらのゴロツキにやられるようなタマじゃないし、この死体にゃあ、かなり不可解な点があるんだわ」
「不可解? 何が不可解だってんだ」
「死因そのものさ。ゲンキは能力者でな、『一度触れた縄や紐を、触ることなく自由に操る』能力を持っていた。俺が足と人脈で追い、あいつの縄が犯人を捕らえる。俺たちはそういうタッグだった。そこでコイツだ。ゲンキの奴ァ几帳面でな、犯人を捕らえる際、縄の網目と網目がズレ無くキッチリと重なる、独特の縛り方のクセがあった。
もう一度その写真をよぉく見てみな。首に残った縄の跡、網目がキチンと重なってるだろう?」
おっさんの言う通り、縄の網目は縛られたとは思えないほど綺麗に重なっている。人一人絞殺するのに、こんな手の込んだことをするだろうか。
「確かに不可解だが、それが何だってんだ?」
「それだけじゃねぇよ」おっさんはお冷を飲み干し、店員に替えを頼んだ後に続ける。「もう一つ、訳の解らないことがある。縄に”握った跡”がねぇんだ」
「握った跡……。指紋のことか? そんなの、軍手とか手袋使えば付かないだろう」
「違う違う、言葉通りの意味だ。人一人殺すのに掛かる力は相当なものだぜ。ゴム手袋じゃ力は入らんし、軍手でやったとしても、握り跡や繊維のほつれがあってしかるべきだ。なのに、ゲンキの首にはそれがねぇ。どういうことか……お前にだってわかるだろう?」
警察官・厳騎雄一は「一度触れた縄や紐を、触ることなく自在に操る」能力者だ。そこでこの不可解な絞殺。おっさんの言わんとしていることが、ようやく俺にも読めてきた。
「つまり『自分で自分の能力に殺された』って言うのか? ありえねぇだろ」
「そうだな。だがよ、ゲンキの手に残っていたのは『縄を引き剥がそうとした』跡であって、自分の首を絞めた跡じゃない。状況証拠が他殺だって言ってんだ、あり得なくてもそう考えるしかないだろう」
「おいおい、マジかよ……」
「驚くにゃあまだ早いぜ。俺だってお前と同じことを思ったよ。その上で、どんな手を使っても犯人を引っ捕らえるとゲンキの墓前に誓ったさ。だがな……」
おっさんは運ばれてきたお冷を、腰に手を当てて一気に飲み干し、残った氷を喉を鳴らして飲み込んだ。
「ゲンキの死体が発見された次の日……。二日前の話だ。犯人逮捕に躍起になっていた俺に、上から突然一週間の暇と、”退職したら行ってみたい”と冗談で言っていた『熱海温泉』の宿泊券が、それと同じ日数分送られて来やがった」
上から突然言い渡された休暇に、温泉の宿泊券。警察組織にあまり詳しくない俺にだって良く分かる。
「深入りすんな……、ってことか。上から圧力かけられてる訳だ」
「俺の居ぬ間に、事件を資料ごと処分して闇に葬ろうって魂胆だろうな。首を切られないだけまだマシか。だがな、奴らがそういう手で来るんなら俺も容赦しねぇ。どんな手を使ってでも見つけ出して……おぉ、おっと」
おっさんが握り拳を作って、机から身を乗り出したその時、さっきのウエイトレスが、二皿のオムライスを持っ戻ってきた。俺は右手で、おっさんは左手でそれを受け取る。オムライスと付け合わせの野菜たちが、熱々の鉄製プレートの上で美味そうな匂いを立ち昇らせている。
「メシも来たことだし、熱いうちにこいつをいただくとするか。話は後回しだ」
おっさんの言葉に甘え、出来立てのオムライスに口をつける。ふんわりとした外側の半熟卵が口の中でとろけ、店秘伝のソースで煮込まれたチキンライスがたまらない。おっさんが贔屓にするだけのことはある代物だ。
そうして暫くの間、絶品オムライスを堪能していたのだが、向かいで同じものを食うおっさんの食べ方が気になって、手が止まる。
何しろこのおっさんと来たら、右手をコートの中に入れたまま、左手で器用にスプーンを使い、オムライスを窮屈そうに口に運んでいるのだ。最初っから右手を使えばいいのに。気にならない筈がない。
「おいおい、なんだその食い方。右手も使えばもっと楽に食えるだろ」
「いいんだよ、おじさんはこれでいいの」
「よかぁねぇよ。俺は気になって仕方がない」
「んじゃあ気にするな。さっさと食えよ、冷めちまうぞ」
おっさんはそこで話を打ち切って、何事もなかったかのように、黙々とオムライスを口に運ぶ。気にはなるが、当人に話す気がないんなら追求しても無駄かと思い、諦めてメシに集中することにする。その方がこいつを堪能出来るだろうしな。
おっさんがオムライスをあらかた胃の腑に落とし込んだのを見計らい、俺は右手の話とは別に、さっきから気になっていることを尋ねてみた。
「なあ、一ついいか? あんたの怒りは尤もだし、敵討ちしたいって気持ちも良く分かる。けどよ、何故そこで俺なんだ。あんたは俺に何をさせようとしているんだ。いい加減はっきりさせてもらおうか」
おっさんはスプーンを皿の脇に置いて、決まってんだろと声高々に言う。「俺ァ定年間近の老いぼれだ。そう派手にゃあ動けねぇ。俺の手足になる奴が必要なんだよ。ゲンキを殺った犯人を捕まえるために、お前にはゲンキの代わりになってもらう」
「代わりってアンタ……、俺ァ探偵であってボディーガードでも万屋でもねぇんだぜ」
「まぁそう言うなよ。こいつで手ェ打っちゃあくれねぇか」
情報収集が得意なら一人だって捜査できるだろう。俺が加わる程の事には思えない。難癖を付けて断ろうと思ったのだが、おっさんは懐から『小切手』を取り出し、左手でぎこちなく数字を書いて俺に手渡した。
「なんだよそいつは……って、おっ、おぉ……! なんじゃこりゃ!?」
ちょっと待て、待ってくれ。なんだこのゼロの桁の数は。余りの多さに声が裏返っちまったじゃねぇか。警察官ってこんなに儲かる仕事だったのか? 公務員という職に俄然興味が沸いてきたぞ。
「俺の貯金と退職金として貰う予定の金、ついでに送られてきた熱海温泉行きのチケットを売り払って作った。これだけありゃあ文句ねぇだろう、若造」
「いや、文句はねぇけどよ……。いいのかよこんな真似して。あんた未だ定年じゃないみたいだし、奥さんだっているんだろ? 貯えがなくちゃ生活が」
「てめぇが心配することじゃねえさ」おっさんが俺の話を遮って言う。「なんとしても捕まえてぇんだ。ゲンキのこともあるが、こいつを街ン中に野放しちゃあおけねぇ。刑事としての長年の勘が俺にそう言ってんだ。分かるか? 分かるだろう!」
「あんた、なぁ……」やってることは滅茶苦茶だが、犯人への怒りと逮捕への覚悟は理解出来た。依頼料だって申し分無い。となれば、受けないわけには行かないだろう。
「分かった、分かったよ。受けます、受けりゃあいいんだろ?」
「そうだ、そうだよ。話が分かるじゃあねぇか」
「ふざけんな。無理矢理そう言わせたくせに」
おっさんは俺のぼやきを無視し、オムライスの領収書の裏に何やら、地図のようなものを描き始めた。
「この場所に深夜零時に来い。時間厳守だぞ、遅れるなよ」おっさんは言い終えると共に席を立つ。
「……ちょっと待てよ。何故夜だ。それにあんたはどこに行く」
「準備だよ準備。それに朝っぱらから動いちゃ目立つだろうが。バレたら終いなんだぜ。……んじゃ、そういうことで」
「いや……それもあるけど、そうじゃねぇよ! なんだこの絵は! こんなミミズが這ったような地図で場所なんか分かるわきゃねぇっつってんの! 待て、待ってくれって!」
俺の言葉に耳を貸すことなくおっさんは二人分の代金を払って店を出て行く。メシ代を払わなくて良いのは助かるが、この地図でどうしようって言うんだ。あぁ、なんで安請け合いしてしまったのだろう。後悔先に立たずとは、こういう時のことを言うんだろうな、きっと。
◆◆◆
街の中心から少し外れ、普段何をしているか知れない雑居ビル地帯の一角に、『明石屋ビリヤードホール』はあった。
六階建てのビルの五階に位置しているが、残りの階には何もなく、ビル内のポストにしか名前が載っていない所から、何やら怪しい雰囲気が漂ってくる。
おっさんは……、ビル前の電柱の影にいた。眉間に皺が寄る程不機嫌な顔をして、黙々とあんぱんを口に運んでいる。
「ようやく来たか、遅いぞ若造。俺は零時に来いと言った筈だ。今何時だと思ってる、零時半だぞ零時半」
「あのなぁ……」俺は深くため息を吐き、例の落書きを差し出して言う。「こんなふざけた落書きで分かるわきゃあねぇだろ! ここまで来るのに俺がどれだけ苦労したか、分かってンのか!」
「何ぃ、おじさんのせいだってのか? 人のせいにするのか? よくねぇなあ、そういうの」
「だったら最初っから利き手で描けよ利き手で!」
まだ何も始まっていないのに、もう疲れてきた。何なんだよこのおっさんは。
「で、なんでビリヤード場なんかに来たんだよ。仕事の前に遊ぼうってか?」
「なわけあるか。ゲンキの奴が死んでから、あいつのデスクを漁ってみたんだが、そこで出てきたのがこの場所だ。何でも、ここの一番の腕利き”ハスラー”が、それはそれは『でかい買い物』をするらしい」
「『ハスラー』ってェと、ビリヤードをやる奴の事だよな。そいつの買い物が、この事件と何の関係があるんだよ」
「奴が死ぬ直前まで調べていた事だぜ。関係が無いわけなかろう。それに、他に手掛かりらしい手掛かりなんてねぇんだ。地道にやっていくしかあるまい」
そりゃあごもっとも。返す言葉もない。時間も過ぎて意見も一致した所で、俺たちは雑居ビルに足を踏み入れる。
エレベータで五階まで昇り、「ここで遊びたい」と受付に顔を出す。隠している割にゃあ入口にカーペットなんか引いて、無駄に豪華な場所だ。
この手の後ろ暗い遊び場にゃ、一見様お断り用の七面倒なローカルルールがあるものだが、俺たちは意外なほどあっさりホールに通された(流石に職業は偽ったのだが)。
お上に隠れてどんなきな臭いことをしてるかと思ったが、六十畳はあろうかというだだっ広い部屋に四つの台が置かれており、客たちが玉を突き合って和気藹々としている。楽しめているならそれが一番だろうが、少し拍子抜けだ。
「なぁ、おい。んな所で『買い物』なんて本当にやるのか? とてもそういう、胡散臭い場所にゃあ見えないぜ」
「そりゃそうだ。楽しく遊んでる客はカモフラージュに過ぎん。本命は、あそこよ」
言って、おっさんはフロアの奥の『立入禁止』と張り紙の貼られた扉を指差した。
「……あれが、何だって?」
「でかい金の動く勝負は、全部あの部屋で行われている。ナンバーワンハスラーの、通称『玉突きタック』も、あの中だ」
「玉突きタック……ね」胡散臭い通り名だ。そんな奴がここで何を買い、この事件にどんな関わりを持つというのだろう。
俺たちは店員の制止を振り切り、立入禁止の扉を開け放す。長ったらしい栗色の髪を前に流し、先を微妙にカールさせた不可思議な髪型に、趣味の悪い紫のダブルスーツを纏った、やたらとひょろ長い男がそこにいた。
「何用だい?」押し入ってきた俺たちを、男は怪訝そうな目で見つめる。「悪いけど、今日は勝負って気分じゃないんだ。明日にしてくれないかな」
気だるそうな声で俺たちをあしらわんとするタックに、おっさんはわざと低く、凄みのある声で問う。「玉突きタック、ってのはあんたかい」
「そうだけど。だったら、何?」
「俺ァ別に玉突き遊びをしに来た訳じゃねぇ。ある事件の捜査でここに来てるんだがあんた、ここで何か”買い物”をするんだってな。何を買うのか……おじさんにもちょーっと、教えてくれないもんかね」
「何だって?」
おっさんが”買い物”と口にした刹那、タックの口元が微かに歪んだ。自分でもそれに気付き、慌てて隠そうとしたらしいが、俺たちの目は誤魔化せない。
「玉突き遊びの腕はどうだか知らんが……、オタク、ポーカーフェイスってのを覚えた方がいいな。バレバレだぜ」
おっさんは玉突きタックの胸ぐらを掴み、どういうことだと問い詰める。タックは暫くなすがままにされていたが、何か閃いたのか、いい加減にしろよとおっさんを引き剥がした。
「いいよ。そんなに知りたきゃ教えてやるとも。ただし、『勝負』で僕に勝てたらね」
「待て待て。なんで俺たちが玉突き遊びしなきゃならねぇんだ」
「ここにはここのルールがある。何かを得たいんなら、相応の対価がなくてはならない。あぁっと、だからって僕を無理に捕まえようとするなよ。喰って掛かってきたのはそっちなんだからな」
腹の立つ答えだが、尤もな言い分だ。証拠も容疑も何もない今、玉突きタックから無理矢理情報を引き出すのは無理だろう。仕方の無い事だ。
だが、相棒を殺されているおっさんはそうはいかない。タックの奥襟を掴んで激しく振った。「冗談じゃねぇ。そんな理屈が通用すると思うのか、あぁ?」
「通用するさ。僕は何も悪くないんだからね」
「えぇい、減らず口を……」
まずい。おっさんの奴、隠していた右手で殴る気だ。今も十分やばいが、殴ったら取り返しがつかないぞ。あぁもう、しゃあねぇな。
――だったらその勝負、私が引き受けましょう。
探偵・七重家綱の体が光輝き、長く伸びた黒髪の美女へと姿を変える。これが七重家綱の能力だ。その名の通り(自身を含め)自分の中に内包した七つの人格を、必要に応じて呼び出すことが出来るのだ。
美女・葛葉はビリヤード台からボールを奪って弄り回すと、並び立つ岩肌巖雄の肩を軽く撫でる。「気持ちは分かるけど、言い分はあっちの方が正しいんだし、ここは私に任せて頂戴な。おじさま」
「お前……まさか」
「そうそ。そのまさか」
今まで家綱がいた場所に、見覚えのない女が立っている。岩肌は彼女が誰なのか、家綱の能力が何なのかを概ね理解した。彼は佇まいを直して冷静さを取り戻すと、口元を軽く歪ませた。
「俺が悪かった。お前に任せるぜ、若造」
「そうこなくちゃ。ってことで……」
葛葉は岩肌のコートから、彼が先程レストランで広げていた小切手帳をすり取り、金額を書き込んでビリヤード台に叩き付けた。
「貴方が勝てばこのお金は総取り、負けても情報を話すだけで、何の損も無い。どう? なかなかイイ話だと思うんだけど」
「成る程、面白い申し出だ」タックは一本の玉突き棒を葛葉に寄越す。「いいだろう。その勝負、受けさせてもらうよ。この小切手の代金、ちゃんと払えるんだろうね?」
「心配しないで。このおじさま、見た目に寄らず羽振りはいいから」
岩肌の方へ振り返り、わざとらしくウインクをして見せる葛葉。いきなり出てきて、勝手に勝負を受けた彼女に不安は尽きないが、物怖じせず微笑んでいられる以上、何か策でもあるのだろう。何も言わず頷いて、彼女の手並みを拝見することにした。
プールに十つのボールがセットされ、その直線上にボールを弾くための手玉が置かれる。いよいよ試合開始だ。タックは葛葉の背後に回り、お先にどうぞと手招いた。
「レディー・ファーストだ。一打目は君に譲ろう」
「あら、優しいのね。親切にしていただいて何だけど、手加減はしないわよ」
「ハハハ、こりゃあ手厳しい」
タックとの会話の後、台を見回し、手玉を軽く転がして調子を確かめる。葛葉は粗方確かめ終えると、キューを手に台の端に立った。
「じゃ、ぱぱーっと行っちゃいますか。そぉーれっ!」
左手の親指と人差し指で作った輪の中にキューの先を通し、手玉を突く。弾かれた十つの玉は盤上に散り、うち二つが台の端にある穴に入った。
玉突きタックは葛葉の突き方から彼女を素人だと判断し、嫌味な笑いを顔に浮かべる。「威勢良く啖呵を切るから何をするかと思えば……、よくもまぁ、あんなにお金を賭けられたものだ」
「どうでもいいでしょ、そんなこと。兎に角、ボールは入ったんだから、続けさせてもらうわよ」
キューの穂先近くを持ち、盤上に散らばる番号付きのボールを指し、その上で台の周囲をぐるりと見回す。
何を閃いたか、手玉の元に再び戻った葛葉は、タックの方を顔を向けずに言った。
「ここからは穴に入れる玉を宣言するんだったよね。じゃあ……」
葛葉は短く持ったキューで、手玉から右側にぐるりと円を描くようになぞった。線上には五つのボールが並んでいる。まさか、それら全てをこの一回で落とそうと言うのか。
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、出来るものか」タックが嘲るように笑う。「ビギナーズ・ラックは二度も続かない。絶対に不可能だ!」
「でも、成功すればこのゲームは私の勝ちよね。失敗するって思うんなら、そのまま見てなさいよ」
タックを軽くあしらって、キューを長く持ち直し、盤上の手玉に視線を移す。手玉に向けてキューを構えた瞬間、葛葉の表情が変わった。彼女の顔から遊びが消え、周囲の空気が張り詰めて行く。
誰も何も言い出せず、重々しい沈黙が漂う中、彼女のキューが手玉を突いた。手玉には不可思議な捻りが加えられ、葛葉がなぞったルートを一直線に進む。
捻りの入った手玉が、六番のボールを弾き飛ばした。弾かれた六番は手玉の捻りを受けて進み、(葛葉から見て)右側中央の穴へ落ちて行く。残りの四番、七番、九番、三番も、同じように穴に落ち、手玉はまるで引き寄せられたかのように、再び葛葉の手元に戻ってきた。
「6、4、7、9、3。最初に入った2と5を合わせて……、36点。この勝負、私の勝ちね」
「なっ、ななな……。そんな、馬鹿なことが……あり得るのかッ!? 馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿な!」
タックの取り乱し方は尋常ではなかった。彼女の手付きは素人のそれだ。なのに何故、熟練者である自分にも不可能な業をやってのけられるのだ。訳が分からない。
恨み節を呟いて呆然とするタックに葛葉が言う。「さ、約束よ。あなたが何を買おうとしているのか、私たちに教えてよ」
「くっ……、くぅ、うぅう……」
自分から言い出した手前、断る訳にも行かず、憎らしげに歯噛みするタック。彼は苦心の末に右腕を高く上げ、ぱちんと一回指を鳴らした。
それと同時に、拳銃を手にした屈強な男たちが葛葉たちを取り囲む。タックのおかかえかここの従業員かは知らないが、味方でないのは確かだろう。
岩肌はぴくりと眉を吊り上げ、右手をコートの中に入れたまま言う。「おいおい、ルール違反じゃあないのか? ここで俺たちを殺ったら、警察のガサ入れが入って営業出来なくなるぜ」
「心配御無用。君たちはここには来なかったんだ。何も起きちゃいない。僕がド素人に負けたことも、何もかもね」
「負けた腹いせで人を殺すのか。いい歳して何やってんだい」
「ガキと一緒にするな。こっちは生活懸かってんだよ。常勝無敗のこの僕が、素人なんかに何も出来ずに負けたとあっちゃあ、商売上がったりなんだ。大人しくここでくたばってくれ」
「そいつぁ御免だ。死んで行方不明にされちゃあ、生命保険もあったもんじゃねぇからな」
岩肌の軽口に痺れを切らした黒服たちが、彼に銃口を突き付け、引き金に指をかけた。葛葉は冗談じゃないと、上着の中に手を入れるが、彼女が銭を投げるよりも早く、岩肌のコートの中にしまわれていた拳銃が火を噴いた。
コートから銃を抜くと共に前方の二人を、男たちが引き金を引くより早く、振り向きざまにもう二人。屈強な黒服たちは、瞬きする間も無く地に伏した。
四人が四人とも、正確に脇腹を撃ち抜かれており、拳銃をその場に放って血を噴いている。あれだけの早業で正確に同じ場所を狙い、しかも殺さずに倒している。この男の実力は相当なものだ。葛葉は額から冷や汗を垂らし、ごくりと唾を飲み込んだ。
「何よおじさま。そんなに強いのなら、私たちの護衛は必要無いんじゃないの」
「いいや、おじさんは相当な老いぼれだよ」岩肌は床に踞る黒服たちを指して続ける。「あれ見ろ。少し血ぃ噴いてやがる。若ぇ頃は余計な怪我をさせず、動きだけを止められたんだがな……っと」
倒れ込む黒服たちにすまんと一声掛け、岩肌はタックの元へとにじり寄る。
「悪いなァ、ボウズ。もっかいどん底から這い上がってくれ」
「うぅ……うあ、わああああッ!」
タックは恐ろしさのあまり、小便を垂らしてへたり込む。このままでは殺される。頼れる者は誰もいない。自分が何とかしなくては。
追い詰められて狼狽えるタックの手に、固くて重い感触があった。黒服たちが落とした拳銃だ。彼は迷うことなく銃を拾い、迫り来る岩肌に向けて引き金を引いた。
引いたまではよかったのだが、恐れをなしてうち震えるあまり、弾丸は岩肌から大きく反れて、腹を押さえて苦しがっている黒服の脹ら脛に当たり、彼に野太い悲鳴を上げさせる。
岩肌はタックの右太股に一発撃ち込んで彼の自由を奪うと、長く伸びた前髪を掴んで左のこめかみに銃口を突き付けた。
「さぁて、そろそろ教えてもらおうか。お前は一体何を、誰から買おうとしてるんだ?」
「し、知らないよ。何のことだ」
「とぼけちゃあいけねぇ。ンなもん嘘だって最初から分かってんだ」岩肌は銃の撃鉄を起こして続ける。「何分久し振りでよ、夢中になりすぎて何発撃ったのか忘れちまった。もう六発撃ち尽くしたかも知れねぇし、まだ一発残ってるかも知れねぇ。なぁ、おじさんに話しちゃあくれないかね、お前がここで誰と会って、何を買うのか」
岩肌の瞳は黒く澱んでいる。彼は本気だ。黙秘を続ければ確実に頭蓋骨に風穴が開くことだろう。背に腹は替えられない。タックは大袈裟に首を縦に振った。
「分かった。言う……言うよ。今夜の二時半に『カード』を買うつもりだったんだ」
「それが一体何だ。俺たちを殺してまで隠したいものなのか?」
「あァそうだ。まだ闇市にすら出回ってないからな、知らなくて当たり前さ。どういう原理かは知らないけど、『カード』は人に”能力”を与えるんだ。どこの会社の奴かは分からない。僕が知っているのはこれだけ。後は何も知らない、本当だ」
「能力を……ねぇ」
人に”能力”を授ける『カード』とは何か。もしそれが本当なら事だが、何処まで信じて良い者か。岩肌は少し考えた後、銃口をタックのこめかみから離し、掴んでいた前髪を放った。
「そうかい、ありがとよ」
「はっ、はは……は」
命の危機が去り、タックは力無く安堵のため息を漏らす。だがそれも束の間、岩肌は笑顔で彼の眉間に銃口を向けた。
瞬間、乾いた破裂音が響く。玉突きタックの頭は鉄臭い血を撒いて周囲に飛び散った。
「そんな! 何も殺すこと無いじゃない」葛葉は何てことをと岩肌に掴み掛かり、彼の頬に平手を喰らわせる。しかしどうしたことか、銃を手にした岩肌自身も、目を見開いて呆然としている。
「俺じゃない。こいつには最初から五発しか装填されてないんだぞ」
言って、何度か引き金を引いてみる。かち、かちと音を立てるばかりで、弾丸は一発も出てこなかった。
「でも……。だったら誰が」
「俺でもおめぇでもないとしたら……危ねぇ!」
岩肌は葛葉の体を抱きかかえると、その場から飛び退き、ビリヤード台を横倒しにして、その後ろに身を隠す。
彼女たちが今までいた場所には、硝煙の臭いと焦げ付いた丸い穴がぽっかりと開いていた。
何があったのかと、出入口の扉に顔を向ける。白いシルクハットを目深に被り、膝まで覆った黒コートと、異様に不気味な出で立ちの人物が、岩肌が持っていたものより一回り大きな銃を構えて立っていた。
「何!? さっきのやつらの仲間か何か?」
「だったら、頭目のタックを撃ったりしねぇだろ。ってェことは……」
岩肌の言葉を遮るように、白ハットの銃口が動いた。壁越しに撃って来るのかと身構える二人だが、奴の狙いは彼らではなく、立ち上がれずに苦しがる黒服たちであった。
黒服たちもまた頭を撃たれて脳しょうを撒き、命の灯を散らして逝く。次は岩肌たちの番だ。再び引き金を引く白ハットだったが、そこから銃弾は撃ち出されなかった。岩肌のそれと同じく、白ハットのものも弾切れを起こしたのだろう。
弾丸を拳銃に込め直さんとする白ハットを見、岩肌は声を張り上げた。「今だ、取り押さえろ若造!」
「あ……、え、えぇ!」
促され、葛葉はビリヤード台を飛び越えて突っ込む。白ハットは捕まるよりはと手にした銃を放り、元来た道を逃げていく。
こうなれば女の自分よりも体力のある男が行くべきだ。葛葉はそう考え、駆け出すと同時に体の主導権を家綱に返した。
俺――七重家綱は、奇抜で意味不明の白ハットを追った。奴め、相当足が早いぞ。このままじゃ逃げられちまう。何かないのか、何か……。
いや、あったぞ、これだ! ホールからエレベータを繋ぐ通路に敷かれたカーペット。こいつを使えば行ける!
「待ちやがれ、こんにゃろう!」奴が右足で踏み込むのに合わせ、カーペットを思いきり引いてやった。赤く長い絨毯は俺の方に向かって激しく波打ち、奴は受け身も取れず、床に頭を強かにぶつけた。
「手間取らせやかって、何者だお前!」動けないでいる奴のうなじを掴み、ハットを奪って俺の方へと引き寄せる。
玉突きタックも四人の屈強な黒服たちを殺し、あまつさえ俺たちまでも手に掛けようとした白ハットの正体は、薄緑の長い髪を二つに束ねた、由乃と同じくらいの少女だった。
俺が怖いか、ぶつけた頭が痛むのかは分からんが、瞳が瑞々しく潤んでいる。
「……って、なんだよこれ! あり得ねぇだろ、絶対おかしいだろ!」
今の今まで追っていたのは、黒服たちよりも一回り大きい奴の筈だぞ。それが何故由乃位の少女になっている。
俺ァ奴から片時も目を離さなかった。このホールは五階にあり、唯一の出入り口であるエレベータまでの通路までは一本道だ。別の場所から入って来れる訳がない。
「お前、一体なんなん……だッ!?」だが、そこで思い悩んだのがいけなかった。奴は俺の手が止まったのをいいことに、自由の効く右足で俺の脇腹を蹴り付けやがった。視界が歪み、もんどり打って床に叩きつけられる。不覚を取ったとはいえ、なんて力だ。
待てよ。……ちから? 力って何だ。怯むならまだしも、小柄な女の子に蹴飛ばされて、何故俺は宙を舞っている。あり得ねぇだろ。そして何だ。あいつの「丸太のような」ぶっとい足は。どう見ても女の子の足じゃあねぇだろ。
もしかしたら、こいつは……。
「おぉい、大丈夫か若造」そうこうしているうちに、おっさんが俺の元へと駆けて来た。「よく生きてンな。怪我はねぇか」
「昼に食ったオムライスが逆流しそうだが、問題ねぇ」
「ならいい。捜査が始まったばかりで相棒に死なれちゃ、話にならん」
「そりゃあそうだけどよ……。済まねぇおっさん、目撃者殺しのアイツを……逃がしちまった」
目を伏せてそう言う俺に、おっさんは「気にするな」と言う。「そうさな。確かに死人は口を利かねぇ。けどよ……、書き置きくらいは残しておいてくれるらしいぜ」
そう言って、おっさんがコートの中から取り出したのは、タグに”ももいろパラダイス 4-203”と書かれた小さな鍵だった。
◆◆◆
雑居ビル街を離れ、バスを何度か乗り継いた海沿いに、ホテル・ももいろパラダイスはあった。場末に建てられたからか、世辞にも流行っているとは言えず、犯罪者たちの密会には丁度良いい場所だ。
どういうホテルなのかは聞いてないが、宿泊施設らしからぬ目に悪い桃色の照明と、壁越しに聞こえる男女の淫らな喘ぎ声から、俺は兎も角、由乃を関わらせてはいけないことだけは分かる。
しかし、この手のホテルに野郎連れで入るのは怪しすぎるな。何か手はないものか……。
「……四階の203号室に予約を入れていた弾田だが」
岩肌巖雄はどうやら、鍵の持ち主である玉突きタックの名を借りて潜入することにしたようだ。
「いらっしゃいませー。お二人様で宜しいでしょうか?」受付嬢はそう言って微笑み、お辞儀で栗色のくせ毛長髪を揺らす。
彼女は受付という役職におおよそそぐわない、薄桃色でスカートの丈の短い女性看護士の制服を身に纏っていた。カウンターの奥に置かれていた帳簿に目を通し、彼女はそこに弾田の名を見付け出す。
「弾田、弾田……。あぁ、弾田卓朗さまですね。承っております。それで、そちらのお連れさまは……」
「ダーリンの嫁の七重葛葉でーす。よーろしくー」
さすがに男同士ではまずいということもあり、家綱は葛葉の姿を取って潜り込むこととなった。
因みに纏やロザリーにも声が掛かったのだが、纏には取り付く島なく断られ、ロザリーを連れて入ると別の意味で危険だということで、葛葉がこの役を担うことになった。
歳は相当離れていたが、何の問題もなく通され、二人は奥の部屋へと歩を進めて行く。
歩きながら、岩肌が申し訳無さそうに言う。「……済まねぇな。こんなおじさんと夫婦にされちゃ迷惑だろ」
「別にいいよ。フリでしょ、フリ。だったら気にしない、気にしない」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどよ……」コートの中に手を突っ込み、中にしまわれたあんぱんを奪う葛葉の手を取って、岩肌は言う。「そりゃあ俺のあんぱんだ。蓄えてる分まで全部食うなよ」
「まーまー。必要経費必要けーひー。にしてもこのあんぱんおいしいじゃない、どこの?」
「ンなたらふく食って味分かるのか……。こいつァ”満月堂”のだ。俺が若けぇ頃からの馴染みでな。張り込みン時はいつもこの店のあんぱんさ。どうだ、うめェだろ」
「うん、うん。うめェ。だから、もう一個貰うね」
「だッ! そいつぁ最後の一個だぞ。誰が渡すかッ」
あんぱんの最後の一つを取り合いつつ、タックが部屋を取った203号室へと辿り着く。入口で聞き耳を立てるが、物音は何も聞こえず、ノックをしても反応は何も無い。
「静かね。居ないと分かって帰ったのかしら」
「或いは、罠を仕掛けて待ち伏せているかもしれん。慎重に行くぞ」
タックから奪った鍵を使い、慎重に扉を開けて行く。中央には回転式の如何わしいベッド、左脇にはシャワー室が完備された普通の部屋だ。岩肌は銃を、葛葉は右手に銭を構えて辺りを探るが、何かが隠されている様子もない。どうやら売人よりも先に辿り着いたようだ。
「手掛かりは無し……。売人とやら待ちって所か」
「あぁっ、ちょっと待って!」そう口にした瞬間、葛葉の体が目映く光る。別の人格が表に出てきた合図だ。
「そこのヒゲオヤジ。命が惜しいのなら、直ぐ様この部屋から離れなさい」
甲高い声に高圧的な口調。ゴシック・ロリータファッションに身を包んだ気の強そうな少女。今回顕現してきたのはロザリーのようだ。
「……へぇ、お前が噂の『ロザリー』か。何故そう思う、勘か?」
「えぇ。でもこれは勘というか……、感覚ですの。貴方に敵意のある何かが二つ……、いや、一つ。ここに真っ直ぐ向かってきていますの」
「敵意ねぇ……」岩肌は顎に人差し指を載せて思案する。「つまり、野郎がここに来るって訳か。でかしたぞ若造」
ロザリーの手柄を称え、笑顔で彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。「ほ、誉めても何も出ない……、というか、私は逃げなさいと言っていますのに」
頬を紅潮させて恥じらうロザリーを無視し、岩肌は彼女に上着を脱がせ、彼女の胸元に手をかけた。
「と、言うわけで。君も少し協力してくれや」
「わわ、わわわわっ!?」
ロザリーの胸元に手をかけた岩肌は、そのままさっと下に引いて彼女の白い柔肌を露にさせたのだ。
彼女の顔はあっという間に真っ赤に染まり、岩肌の左頬に強烈な平手が飛ぶ。
「何のつもりですのドエロオヤジ! ことと次第に依ってはただじゃあ……」
岩肌は彼女の平手をものともせずに続ける。「お前はタックと楽しんでた。奴をこの部屋に誘い込め。後は俺がやる」
「ちょっと! 人の話を聞きなさいッ」
彼の無礼千万の行動に、ロザリーは顔を真っ赤にして喚き散らす。だが喚いてばかりもいられない。足音はこの部屋を目指して徐々に大きくなっている。
岩肌はベッドを乱し、バスルームのシャワーを出して、出入り口の裏に身を隠した。「後は任せたぞ、うまくやれよ」
「うまくって……あぁ、もう!」
岩肌は気に食わないが、やらなければ己の身も危うい。ロザリーは一頻り喚いた上で仕方がないかと溜め息を吐いた。
戸を叩く音が響く。間違いなく奴だ。ロザリーは息を深く吸い込んで扉を開ける。
彼女の目の前に現れたのは、色黒の肌に、反射して何か映りそうな程に禿げ上がった、恰幅の良い男性だった。男はかけていたサングラスを外してスーツの胸ポケットにしまい、部屋の中を見回した上で口を開いた。
「弾田卓朗はどこにいる」
「バス・ルームですわ。あれだけシャワーが出ていて分かりませんの?」
「成る程……。ところで、キミは何者か?」
「カレのツレですの。それ以上でもそれ以下でもありません」
「そうか」男はロザリーの姿をしげしげと眺めて思案する。「奴にそういう趣味があるとはな。脇へどいていろ、痛い目に遭いたくなければ」
「言われなくとも、そうさせていただきますわ」
求めに応じ、左脇にどいて黒服を招き入れる。彼はタックの名を呼びながら部屋の奥のバスルームに近付いて行くが、反応はない。
突然、出入口が音を立てて閉まった。男はこれが罠であると理解し、懐から拳銃を抜いて振り返る。
「悪ィな、タックの奴じゃなくてよ。待ってたぜ」
「何だと……? 貴様ッ!」
男は岩肌の存在に気付くと同時に、銃の引き金に指をかけるが、岩肌は彼が撃つよりも早く、数発の弾丸を男の腹に叩き込んだ。
男は反動で仰け反り、苦悶の表情を浮かべ、仰向けに倒れ込む。
「安心しろ、急所は外してある。さぁて、ここでタックと何をしようとしてたのか、話してもらおうか」
岩肌は銃をコートにしまい、仰向けになった男に近寄る。人ひとり程の距離まで接近した所だっただろうか。男に何か只ならぬものを感じたロザリーは、岩肌に向かい危ないと声を張り上げた。
「危ないって何だ……? って、うぉぉっ!?」
彼女が声を上げるも間に合わず、岩肌は男の前蹴りを喰ってドアに叩き付けられた。黒服スキンヘッドが腹を擦りながら起き上がる。彼のスーツ、その下のシャツには撃たれて付いた穴がある。だが、彼自身は痛みを気にする様子は無く、傷口からは一滴の血も流れていない。これは一体どう言うことなのか。
「ぎっくり腰にでもなったらどうするんだ、まったく……」男に続き、岩肌も痛む腰を擦りつつ立ち上がる。体勢を立て直した彼が最初に目にしたのは、黒服スキンヘッドに捕まり、こめかみに銃口を突き付けられたロザリーの姿だった。
「動くなよ。あんたのツレのバービー人形を粉々にされたくなかったらな」
岩肌は脅しに動じず、冷ややかな目で男を睨み付ける。「内臓を外して右脇に二発、左脇にもう二発撃ち込んだ筈なんだがな。何故立っていられる? ただ腹筋が強いってだけじゃ説明が付かねぇぞ」
「まだ気付かないのか?」男が得意気に言う。「これが俺の能力なんだよ。俺の体は鋼のように硬いんだ。頭の先から足の指まで全部全部、ぜぇんぶな」
「……わざわざ教えてくれるとは余裕だなボウヤ。思い切りの良い奴は好きだぜ」
「黙って手を頭の上に乗せろ。こいつの命が惜しくないのか」
岩肌は言う通りに両手を頭に乗せつつ続ける。「それはそうと、お前は『そいつ』を”バービー人形”だとか言ったな。だがよ、おじさんには『G.Iジョー』にしか見えないぜ」
「G.Iジョー?」何を馬鹿なと下を向いた瞬間、男の右胸に強烈な肘打ちが襲う。”それ”は、彼が痛みに顔を引き吊らせた隙を突き、彼の右手を両手で掴むと、一本背負いの要領で床に叩き付けた。
彼を見下ろして立つのは、黒服スキンヘッドと同じか、それ以上の体躯の男。七重家綱の七人格のひとり、巨漢のアントンだ。
「ワターシを人質にシヨーナド、百億コーネン早イノデス。恥ヲ知リナサイ恥ヲ!」
「ぐぬ……ぬ!」
男は悔しさに唇を噛み、右の踵を床にぶつける。同時に靴先から仕込みの鋭利な刃を迫り出させ、アントンの腹に深々と刺し入れた。
男の革靴が赤黒く染まり、アントンの体がくの字に折れる。スキンヘッドの黒服はそれを支えに起き上がり、反撃を見舞わんと振り被る。
この憎き金髪の顔を凹ませてやろうと嫌味たらしく口元を歪めるが、どういう訳か腹に刺し入れた刃が引き抜けない。
男が抜けない刃に苦心する中、アントンは顔を上げて不敵に口元を吊り上げる。
何故刃が抜けないのか、男は唐突に理解した。「おのれ、わざと刺されたのかッ! いや、そんなことはどうでもいい。刃の先には毒が塗られているんだぞ、何故平然としていられる!」
「ソンナ事、ワターシに聞カレテモ困リマース」
「ふざけるな、そんな答えで納得出来るもの…かぁあッ!?」
男の言葉を遮って、アントンの力強い左アッパーが、彼の顎を大きく揺らす。衝撃で腹に刺さっていた刃が抜けた。アントンは頭を揺らされ意識が朦朧とする男に向かい、強烈な右ストレートを撃ち込んだ。
男はもんどり打って壁を砕き、隣の部屋まで吹き飛んでいった。
「やるじゃねぇか、若造」岩肌がアントンの肩を撫でる。「いい右ストレートだ。ジムでみっちり鍛えりゃ、日本タイトルだって狙えるぜ」
「アリガターイオ言葉デスガ、ワターシ『たち』は探偵デアッテ、ボクサージャアリマセーン。他をアタッテクダサイ、オヤッサン」
「はは、違ぇねぇ」
斯様なことを話していると、大穴で繋がった隣の部屋から、絹を裂くような乙女の悲鳴が聞こえてきた。二人はしまったと舌打ち、穴を抜けて隣の部屋に足を踏み入れる。
スキンヘッドの黒服は、相手方の男を殴り付けてベッドから引き摺り下ろし、乱れに乱れたベッドの上に陣取り、シーツにくるまった若い女性の右こめかみに冷たく重い銃口を突き付けていた。
「やれやれ……また人質か。芸が無いぜボウヤ」
「つべこべ言ってないで、銃を捨てて手を頭の上に乗せるんだ。こいつがどうなってもいいのか」
「つまらねぇな… …」岩肌の眉間に皺が刻まれる。「抵抗するならするで、もっと俺を困らせられねぇのか。始末する気も起きん。こんな雑魚に殺されたアイツが不憫でならねえ」
「何をぶつぶつ言ってやがる。この女がどうなってもいいのか!」
「分かってンだよ、ンなこたぁ!」苛立った岩肌が声を荒らげる。「ピーピー喚いてんじゃねぇ、三下がァッ」
苛立ちが最高潮に達したその時、岩肌巖雄は捜査官・厳騎雄一の無念と自身の怒りを弾に込め、目にも止まらぬ早さで拳銃の引き金を引いた。弾丸は女性のうなじを掠めて男の左肩を激しく揺らす。体勢を大きく崩された黒服は、反動で捕まえていた女性を突き飛ばし、拳一つ入りそうな程の大口を開けた。
岩肌はそれを見逃さなかった。銃口を明後日の方向に向け、隙だらけとなった奴の口内を狙い、更に数発の銃弾を撃ち込んだのだ。
鐘木で鐘を鳴らすかのような音が男の口内に響き渡り、やがて彼は糸の切れた人形のように、力無くベッドに横たわる。岩肌は一体何をしたのか。誰にも分からなかった。
「人間防弾チョッキってのも考えものだな」男の足を引いてベッドから引き摺り降ろしつつ、岩肌が言う。「大の男が脳震盪起こしてノビちまうとはよ。おぉい若造、こいつを部屋に戻すぞ。手伝ってくれや」
「アァ……。オウ、イエス」アントンは岩肌の求めに応じ、気絶した黒服を担いで元居た部屋へと運んでいく。
男を退かし、乱れたベッドの上から不可思議な『カード』を見付けたのはその時だ。裏は白地にアルファベットのBが、表には鈍色の”盾”のイラストがそれぞれ描かれている。
この部屋を使っていた男女に問い質して見るが、両者共知らないの一点張り。となるとこのスキンヘッドが持ち込んだ事になる。
ビリヤードホールでタックが言っていたカードと、男が所持していたこのカード。これらが無関係だとは思えない。
岩肌は顎に指を乗せて暫く思案すると、アントンが開けた穴を通って元居た部屋に戻って行く。
「お楽しみの所邪魔したな。後は二人で宜しくやってくれ」
余りの事に呆然としたままの男女に、そうして声を掛けた後で。
◆◆◆
「うう……うむむ、うう……」
俺たちを襲った黒服が目を覚ました。脳震盪から立ち直ったらしい。俺――七重家綱は、奴に自分の置かれた立場を認識させるべく、両足太股に刺さった壁の破片を更に深々と差し込んだ。
奴の額から汗が滝のように流れ出し、聞いてるこっちが身震いしそうな程おぞましい声を上げる。
一頻り悲鳴を上げ終えたのを見計らい、おっさんは奴の額に銃口を突き付けた。
「ガキじゃあるめぇし、いちいち大声出すンじゃねぇ」おっさんはコートから黒色の携帯電話を取り出して続ける。「お前の事、色々調べさせてもらったぜ。ただの人間に能力を与える魅惑のカード。そいつがお前らの商品か。てめぇは差し詰め……、組織の売人にして、カードの実験台ってところか」
スキンヘッドの視線が泳ぐ。図星を突かれて動揺しているに違いない。
おっさんは奴の答えを待たずに続ける。「喋らなくていいぜ、実はさっき『他のエージェント』から連絡があってな。俺たちみたいなのに遅れを取った奴なんざ、我らが組織には必要無いって言ってたぜ。直ぐにでも消しに来るってよ」
「ボスが俺を……? 馬鹿なッ、そんなこと、あるわけがない!」と言いつつも、男は必死に逃げ出そうと体を捩る。無駄なことを。足首を鎖で固定され、太股に壁の破片が刺さっているのを知らないらしいな。
「まぁ、逃げたくなる気持ちも分かるし、お前を哀れだとも思う。おじさんの言うことを聞いてくれるなら……、助けてやらんでもない」
「助ける……だと? お前らごときに『あの人』が止められるものか」
「ンなもんどうだっていいだろう。どうせ見限られて死ぬ定めにあるんだ、義理立てする必要は無いだろ? だからよ、一つ答えちゃあくれないかね」
――厳騎雄一を殺ったのは、誰だ?
それまで穏やかだったおっさんの口調が冷徹なものに変わった。
おっさんの勢いに気圧されたか、男は俯いて暫し考えて、仕方がないかと呟いた上で言葉を紡ぐ。
「……俺はそのゲンキって奴を知らない。だが、『エージェントQ』が数日前に”邪魔な警官を始末した”と言っていた。あんたの言うゲンキってのは、そいつなんじゃないか?」
その話を聞いて、今度はおっさんの表情が変わった。おっさんは銃口を力強く擦り付ける。
「そのQって野郎はどこにいる。奴らより先に俺に始末されたくなかったら、さっさと居場所を吐いて貰おうか」
「知らねえ、本当に知らねぇよ。各エージェントの所在はトップシークレット、ボス以外は必要な時にしか連絡が付かないんだ。俺の携帯を弄ったんなら分かるだろう!?」
俺とおっさんは互いに顔を見合わせた。この男の言っていることは正しい。奴が目覚める前に携帯を調べてみたが、組織とやらに繋がる情報は何一つ入っていなかった。恐らく、この携帯自体組織から支給された『使い捨て』なんだろう。相当な財力を持つに違いない。
だが、それだけでは犯人の特定など出来る訳がない。ここまで来て手詰まりか、と俺たちが二人して肩を落とす中、スキンヘッドは「そう言えば」と更に言葉を続けた。
「明日の深夜四時、罷波町の工場跡地にエージェントたちが集まって、ボスに販売実績の報告をする。Qもその時来るはずだ、間違いない」
「お前らみたいな秘密組織が、雁首揃えて報告に来るわけ無いだろう。つくならもっとマシな嘘にしな」
「殺されそうになってる人間が嘘言って何になる。少しは俺を信用したらどうだ」
確かにそうだ。ここまで来て嘘をつく理由は無い。怪しいが、他に手がかりも無い今、奴を信じるしかないだろう。
「……分かった、そういうことにしておいてやる。疑って悪かったな」
「あぁ、礼には及ばない。だから早くこのうざってぇ鎖を外してくれよ、頼むから」
漸く手掛かりを掴んだ。ここからが本番だ。おっさんは突き付けた銃口を離し、窓を開け放して右足を掛けた。
「おい、ちょっと待てよ。俺を助けてくれるんだろう、何処へ行く」
「勿論助けるとも」おっさんは背中越しに答えた。「お前の携帯で警察に通報しておいた。身の安全は警察が保障するから安心しろ。ついでに洗いざらい組織のことを吐いちまえ」
「おのれ……、騙したな! おい待て、待ちやがれェ!」
奴の叫びに背を向けて、おっさんは窓を抜け、パイプを伝って壁伝いに降りて行く。
「おい、何やってんだ若造。そいつと一緒にパクられる気か?」棒立ちの俺に、おっさんは呆れ顔で言う。
「いや、だからって窓から出るのは……」
「何て言って出るんだ? 正当防衛で大男に拳銃で怪我を負わせましたと、馬鹿正直に告白するつもりか? 俺たちゃ追われている身だぜ。自分たちから捕まりに行ってどうするんだよ」
「そりゃあ……、そうだけどよ」あんた、一応警官だろう。辞める予定だとは言え、ホイホイ法に触れるような真似していいのかよ。
まぁ、今ここで言い争っていてもしょうがないか。信頼関係が必要な探偵家業で、看板に傷がついちゃあ事だ。
「もしも俺が疑われたら、あんたに脅されてやりましたって言うからな」
「上等」
喚き散らすスキンヘッドを後目にし、俺もおっさんに続いてホテルを後にする。
俺たちは音を立てず茂みの中に降り立つ。遠方からパトカーの耳障りなサイレンが聞こえる。奴のことは警察に任せて大丈夫だろう。
「それで、これからどうするんだよ」
「罠か本音か知らんがよ、誘いに乗ってやろうじゃねぇか。明日の深夜四時、会合に乗り込んで一人残らずしょっぴいてやる」
「そう言うと思ったよ。んで? それまでどうすんだ」
「時間まではお役御免だ。体を休めて明日に備えろ。今度は遅れるなよ」
言って茂みを抜け、おっさんは闇夜の中へ消えて行く。後に続こうとしたが、人目を避けるためだと断られ、別々に逃げることと相成った。
『カード』を売り付け私欲を肥やす悪党共。反撃の糸口は見えてきた。
だが不安もある。俺たちが部屋を出る時のスキンヘッドのあの表情。俺たちに対する怒りはあった。けれどそれだけではない気がするんだ。一体何なのだろう、奴が最後に見せた、嘲り笑うような表情は――
◆◆◆
家綱たちが窓から去って暫くし、男が拘束された部屋に、看護士姿の女性が入って来る。岩肌たちを出迎えた受付の女性だ。
女は部屋の中を隅々まで見回すと、スキンヘッドの顔の前でしゃがみ込んだ。
「ずいぶんとやられましたね『エージェントB』。貴方程の手練れが情けない」
「エージェントQ。面目無い、まさかあんな奴らに遅れを取ってしまうとは夢にも……。いや、それよりも木の破片と足首の鎖を解いてくれ」
「いいでしょう」『Q』は満面の笑みを浮かべて言う。「ですがその前に。彼らの”誘導”は、上手く行きましたか?」
「それなら心配ない。奴はあなたが来ている事すら知らなかった。そこに隠された意図を探り出す等、不可能だ」
「成る程」彼女は男の禿げ上がった頭を優しく撫でて、言葉を続ける。「お手柄です、エージェントB。よく頑張ってくれました。彼らにやられた傷が痛むでしょう、今癒して差し上げます」
「あぁ、いや。癒すよりも前に、抜いてくれればそれで済むのだが……」
『Q』は男の言葉を無視し、今だシャワーの出続けるバスルームへと入っていく。暫くして戻ってきた彼女は、青々とした薬品が溜まった注射器を片手に不気味な笑みを浮かべていた。
「きゅ、Q……。何なんだその液体は。俺に何をしようって言うんだ」
「動かないで下さい」Qは注射器を構え、男の上で馬乗りになった。「貴方は立派にお勤めを果たされました。ボスもお喜びです。勤勉な貴方にお暇を、と言うのがボスの御命令でしたので……、失礼致します」
「まま、待ってくれ。俺は何も漏らしちゃいない、ボスの不利益になるような事は何一つしていない! 本当なんだ、信じてくれ、見逃してくれ、エージェントQ!」
Qは表情一つ変えず、涼やかな声で言った。「申し訳ありません。御命令ですので」
体を振って必死に抵抗する男を押さえ付け、彼の首筋に注射針を刺し入れる。
注ぎ込まれた液体は一瞬で男の体を満たし、彼の体から色味を奪って行く。男が泡を噴いて事切れるまで、さほど時間は掛からなかった。
Qは差込口にハンカチを当てて針を引き抜くと、任務完了だと言わんばかりに看護士の制服を脱ぎ捨てた。
「――イワハダ・イワヲ、ナナエ・イエツナ……。覚えましたし」
うわ言のようにそう呟いたQは、男が落とした拳銃を拾い上げると、隣の部屋の男女を撃ち殺し、悠々と部屋を出て行った。