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「岩肌巖雄・上」

●丸半年ぶりの続編です。続編ですが「夢野三杉」編との繋がりは一切ありません。こちらから先に読んでいただいても何の問題もございません。


●回想等が入り混じりますが、家綱本編最終回後の世界を想定して執筆しているため、なるべく本編を読了いただいた上でお読みくださいますようお願い致します。


●前回に比べると、やや残酷な描写が挿入されるかもしれません。


 空に薄い雲がかかり、少しだけ冷たい空気が鼻孔を優しくくすぐる爽やかな朝。ボク――和登(わと)由乃(ゆの)は、半年ほど前からの日課、早朝ジョギングを終え、七重探偵事務所の前まで戻ってきていた。

 雲と雲の間から、朝日が美しく穏やかな輝きを放って顔を出す。お洗濯日和の心地好い朝だ。意味もなく気持ちが高揚する。

 あの馬鹿はまだ布団の中で高いびきだろうな。相変わらずだらしがない。こんな気持ちのよい日に勿体無いぞ。

 折角だ。簡単に朝御飯でも作って起こしてやろうかな。トーストを焼いて半熟卵のベーコンエッグを乗せて、浅煎りのアメリカンでも淹れてやれば、匂いに釣られて飛び起きて来るだろう。

 あぁ、そんな話をしていたらボクの方がお腹が減ってきた。あいつのものよりも先に自分の朝食かな。あいつの目の前でわざとらしく美味そうに食ってやるのも面白い。

 そんなことを考えながら事務所の前に帰り着くと、扉の前に誰かが立っているのが見えた。

 肩にかかる程度に伸びた艶のあるストレートヘアに、どことなく理知的な雰囲気を漂わせる横顔。そしてそれを強調するぱりっとした黒のダブルのスーツ。兼ねてからお世話になっている超能課の岩肌(いわはだ)成子(なりこ)さんだ。

 ボクが気付いて声を掛けると、彼女は首を傾げて不思議そうな顔をし、ややあってぽんと手を叩いて口を開いた。

「あなた……和登さん、よね? あぁあ、やっぱりそうだ。ちょっと見ない間に男の子っぽくなっちゃって。髪切っちゃったのね。似合ってたのに勿体無い」

「いやぁ、ははは。こっちの方が過ごしやすいものですから」

 どうやら、ボクが誰なのか分からなかったらしい。こっちからしてみれば、今までの格好や言動の方が違和感があったんだけど、そこに違和感を持つ人がいると思うと、イメチェンすべきじゃなかったのかなという気にもなる。

「所で、今日はどうしたんですか? こんな朝っぱらから」

「あぁ、ご免なさいね。仕事の都合で朝方にしか暇がなかったものだから……」

「構いませんよ。時間も時間ですし、一緒に朝食でもどうですか? 簡単なものしか作れませんけど」

 ボクの言葉に、岩肌さんは「折角だけど」と首を横に振った。

「お構い無く。大した用事じゃないの。この事務所の所長、七重家綱。彼に少し用があるだけで」

「家綱に……ですか?」

 岩肌さんの予想外の返答に、ボクの方が戸惑ってしまった。岩肌さんと家綱の間に面識はなかった筈だ。対超能力犯罪のエリートが、七つもの人格を持つ家綱に接触を求めてきた。しかもこんな朝早くに。あの馬鹿、とうとう法に触れるようなことをしたんじゃないかと焦ったが、直ぐ様落ち着いて居住まいを正す。

 いくら馬鹿だろうと、家綱(あいつ)がそれほどの罪を犯すとは、到底考えられなかったからだ。

「ま、まぁ。立ち話も何ですし、中へどうぞ。すぐにお茶を用意しますから」

「ならお言葉に甘えて。あぁでもお茶は要らないわよ。ほんの少し会うだけなんだから」

 面と向かって話して見なきゃどうにもならない。ボクは意を決して事務所の扉を開けて、岩肌さんを中に招き入れた。どうか、物騒なことになりませんように。

「お、おぉ由乃。今日はずいぶんと早かったなぁオイ」

「珍しいね、家綱がこんな時間に起きてるなんて。あ、この人は岩肌成子さん。お前に話があるって朝から……」

 ボクは目を疑った。そして同時に、奴の頭を来客用のスリッパで思いきり叩いていた。蒟蒻を思いきり叩いた時のような快音が周囲に響く。

「由乃、てめェ! 何しやがるんだこの野郎!」

「お前にそれを言う資格はないだろ、お客様が来ているのに、なんだよその格好!」

 いきなり叩いたこっちもそりゃあ悪いけど、今の家綱の格好を見たら誰だってそうすると思う。はち切れんばかりの女の子物の桃色フリフリパジャマを、三十路近い男が身に纏ってお客様を出迎えるとあっちゃあ……。

 恐らく寝ている間に、何かの拍子にロザリー辺りと入れ替わっちゃって、家綱の寝間着の甚平が気に入らなくて今のパジャマに着替え、そのまま寝てまた入れ替わった……って所なんだろうけどさ。間が悪いにも程がある。

「変わった……ご趣味をお持ちなのね。七重さんって……」

 あぁ、もう。岩肌さん滅茶苦茶引いてるよぉ。パジャマの裾からちらりと覗く小汚い脛毛に釘付けだよぉ……。

 このままじゃ埒が明かない。ボクは家綱にとっとと着替えて来いと促し、ドアの前で茫然とする岩肌さんを中に招き入れてソファーに座らせることにした。

「先程はお見苦しい物をお見せしちゃって……」岩肌さんに少し濃い目のコーヒーを差し出して、ボクは言う。「それで、家綱に何の用が?」

 岩肌さんはコーヒーを飲んで溜め息を漏らす。一息着いてようやく冷静になれたようだ。

「別に大したことじゃないのよ」岩肌さんは冷静な口調で言った。「彼に言伝てがあるのよ。こんな朝からでご免なさいね。なるべく早く伝えて欲しいと言うのが『故人』の頼みだったものだから……」

「故人……ですか」

 故人の言伝てねぇ。しかも警察官である岩肌さんが伝えに来るようなものだとなると、内容が全く予想出来ないな。家綱のやつ、ボクの知らない間に何をやったんだ?

 そんなことを考えていると、いつもの黒スーツに着替えた家綱がソファーの前にやって来た。

「悪りィな別嬪さん。いつもはあぁじゃないんだ。さっきのはちょっと……間が悪かったって言うか」

 今更取り繕ったって無駄だと思うぞ。部屋ん中で帽子被って、吸えもしない煙草くわえて、そこまでして美人に格好付けたいのかお前は。

 岩肌さんはさっきとは打って変わった家綱に少し戸惑うも、軽く咳払いをして立ち上がり、握手を求めて手を差し出した。

「先程ご紹介に預かりました、岩肌です。朝早くにすみません、貴方にどうしても欲しいという言伝てがあって」

「言伝だって?」岩肌さんと握手を交わし、不思議そうな顔で家綱は言った。「一体誰から。あんたを通さなくても、そいつが直接ここに出向けばいい話じゃないのか?」

「無理よ」岩肌さんが冷ややかな口調で言った。「彼は既に死んでいるもの」

「死んだ? ってことは言伝てってより遺言だな。誰だ、そんな面倒なものを持ち込んだのは」

 家綱の問いに、岩肌さんはコーヒーを口にし一拍置いた上で答えた。

「岩肌巖雄(いわお)、罷波町警察署・重大犯罪課の警部よ。この名前に聞き覚えはない?」

「巖……雄……」聞き覚えがあったのだろうか、珍しく真面目な顔で考え込んでいる。あんな顔した家綱を見るのは久しぶりだ。それほど重要な人物なのだろうか。

 ボクが目の前で暫く眺めていると、家綱は突然目を見開き、眼前のボクを振り払って岩肌さんの肩を掴んだ。

「何やってんだ」と叫んでは見たが、家綱は気にも留めず、必死そうな顔で岩肌さんに問い掛ける。

「別嬪さん、あんた……”岩肌”っつったよな。あの人との、関係は?」

「娘よ。それよりその反応、貴方……父さんの事を、知っているの?」

 家綱の尋常じゃない狼狽え振りを見た岩肌さんは、努めて冷静に問い掛ける。家族の事だと言うのに流石は刑事だ。

 けれど家綱は、不思議なことに岩肌さんを突き放すことも、話したくないと口を閉ざすこともせず、彼女の肩を抱いて涙ぐんだのだ。

「そうか、あんたが。そうか……無事だったんだな……よかった……」

 その涙の意味はボクにも岩肌さんにも分からなかった。ボクらの疑問などお構い無しに、家綱はただただ彼女の肩を抱いて泣いている。

 何でもいいがこれじゃあ埒が明かない。岩肌さんは「落ち着いて下さい」と家綱を強引に振り払った。

「何なんですか貴方は! 泣いてないで訳を話して下さい」

「そうだよ家綱! 訳が分かんないよ」

「俺だって分かんねぇよ! 一体どういうことなんだ別嬪さん!」

「は、ぁ!? 何でそこで私に振るんですか!」

 なんだこりゃ。これじゃあまるで笑えない三流コントだ。話が進まなくてしょうがないじゃないか。

「とにかくさ、岩肌さんのお父さんの遺言、まずそれを聞いてみようよ。どういうことなのか、分かるかもしれないし」

「それもそうだな」家綱が言った。「別嬪さん、聞かせてくれないか? その遺言って奴をよ」

 家綱の頼みに、岩肌さんは黙って頷いた。

「一昨日の夜のことよ。罷波の駅構内で、身元不明の不審者が『私の名前』をしきりに呼んで、ここに来るようにと警察に連絡があったの。馬鹿馬鹿しいと思ったけれど、警察官として放っておく訳にはいかなかったし、仕事も終わった所だったから、行かない理由がなかった。

 それが一年前に行方不明になった父さんだったなんて、あの時は想像もしてなかったわ。髭は伸び放題で頬は痩け、虚ろな顔で遠くを見つめている姿を見たら尚更ね。父さんは私が来たと分かると、残った元気を振り絞って私の肩を抱いてくれた。抱くと言うより、力なくもたれ掛かるその感触が『もう長くない』ということを分からせてくれた。とっても辛かったわ。

 でも、それも父さんの言伝てを聞くまでだった。父さんは七重家綱という男の名を挙げてこう言ったの。『お前を相棒に選んで、本当に良かった』って」

「それから……どうなったんだ?」悲しそうな表情を浮かべて家綱が言った。

「力なく微笑むと、それ以上は何も言わなかったわ。もう思い残すことはないって言いたげな、晴れやかな顔してね。救急車を呼んで、すぐに病院に搬送したけど、回復することなく息を引き取ったわ。結局、それが父さんの最期の言葉になってしまった……」

 岩肌さんの言葉に、家綱は人差し指に顎を乗せて暫く考えると、彼女に向かい「言っとくがな」とぶっきらぼうに言った。

「俺が(ガン)さんと行動を共にしたのはたったの二日間だけ。この一年間、あの人がどこで何をしていたのかは分からんぜ」

「話してくれる気になったのね」岩肌さんが声を上げる。「それでもいいわ。話して」

「血生臭く、後味の悪い話になるかも知れないぜ。いいのか?」

「そのためにここに来たのよ。血生臭かろうが何だろうが、包み隠さず全部話して頂戴」

「君のお父さんを侮辱するようなこともあるかも知れない。それに君にとって……」

「あぁ、もう! つべこべ言ってないでとっとと話す! 覚悟は出来てると何度も言ってるでしょうが!」

 業を煮やした岩肌さんに当たり散らされ、困り顔で済まんと謝る家綱。岩肌さんじゃないが、何故こうも引っ張るのだろう。そこまで聞かせたくない話なのだろうか。岩肌さんのお父さん。家綱と組んで一体何をしたって言うんだ?

「由乃」そんなことを考えていたボクに、険しい顔付きの家綱が声をかける。「悪いが俺にもコーヒーをくれ。長い話になる」

 いつになく真面目な顔だ。妙な勿体振りといい、さっきの涙といい、今日の家綱は何かがおかしい。一体どんな話をしようと言うんだ。

 と言うわけで、キッチンに入ってコーヒーを淹れる。インスタントの粉をカップに入れて少量のお湯で十分に溶かし、そこに適量のお湯を加えて締める。インスタントでもそれなりに美味く飲めるやり方だとインターネットで載っていた。

 朝一番でコーヒーだけでは物足りないだろうと思い、トーストを焼いてベーコンエッグを乗せて二人に出した。この時『卵から作られたもんにゃ、同じ卵で出来たマヨネーズをかけるのが道理だろ』、『卵料理にかけるならケチャップでしょ。異論は認めない』などと激しい議論が交わされたが、ウスターソース派のボクには関係ないし、どうでもいい話なので触れないでおく。

 それなりに熱い議論の後、双方が双方の味を認めて和解し、ベーコンエッグトーストを胃の腑に落とし込んだ所で、家綱は漸く本題を話し始めた。


「あれはそう……、俺が”C”の野郎の所に行く数日前、ってところか。依頼をこなしてコツコツ貯めたなけなしの金を握り締め、意気揚々と罷波の競馬場に行った日だ。今日は大穴、どでかいのが来るぞと噂になってて、実際に周りでちょくちょく当たりが出てたんだが、俺には掠りもしない酷い有り様でよ。流石に諦めて帰ろうと思ったんだが……」

 どの口が『地道にコツコツ』だなんて言うんだよ。ボクに前借り頼んでまで競馬や宝くじに精を出し、挙げ句返済のアテまでギャンブルの賞金だって中毒者(ジャンキー)のくせに。

 あぁ、もう。突っ込む気も起きやしない。ここは一つ、最後まで話を聞いてやるか。どうこうするのはそれからだって遅くはないだろう。


◆◆◆


「がァーッ、ちくしょう! 一着ジュンケツコータロー、二着グリグリグラグラ、三着チョーカイアブダクションかよォ……。二着と三着が逆なら、逆であったならッ!」

 その日の俺は、人生最悪と言っていいほどの不調だった。大勝ちどころか、小さい当たりすら掠りもしない。六千円もあった軍資金も、残りはたったの二百円。どうしてこうなった、どうしてこうなった!?

 嗚呼もし時が戻せたなら、四時間前の自分をぶん殴りたい。金を溝に捨てる気か、その金で何が出来ると思う。スロットもルーレットも麻雀も出来るんだぞと説教してやりたい。まぁ、現代の科学技術じゃ、タイムマシンの製造なんて無理な話なのは分かっているのだが。

 金がない以上、こんなところにいても鬱になるだけ。とっとと立ち去ろう。由乃にどうやって言い訳すっかなぁ。あいつに借りた金も全部注ぎ込んじまったしなあ。

 俺が口うるさい同居人への言い訳を必死に考えている中、その男はやって来た。

「よォ兄ちゃん。シケた面してんなあ。折角の男前が台無しだぜ」

 俺の肩を叩いて声をかけて来たのは、地肌がうっすら見える程の薄毛で、顔の至る所に深い皺が刻まれた、しゃがれた声のオッサンだった。腿辺りまで伸びた暑そうな鼠色のコートを身に纏い、使い込まれて底の薄そうな茶色の革靴を履いている。

「悪かったね。負けが込んでんのに笑えるかよ」

「いけねェなそいつはよ。勝ちってのは最後までふてぶてしく笑ってる奴の所に来るもんだ。そんなに沈んだ顔してちゃあ、勝利の女神様がそっぽ向いちまうぜ」

「何だそいつは。格言か何かかい」

「いいや、おじさんの経験則さ。ここぞって時に笑えない奴は何だって落とすぜ。金も、命も」

 命も、ねぇ。物騒なこと言いやがる。しっかしなんでこうもお節介なんだ。負けに負けた俺を笑いに来たってのか?

「悪いがもう帰るんだ。うっとおしいから関わらないでくれよ」

 面倒だと別れを告げて踵を返す。とっとと事務所に帰ろうと思ったのだが、オッサンは俺の肩をむんずと掴んでこう言った。

「まァそう焦んなよ。おじさんの言う通りにすりゃあ必ず稼げるぜ。ただし、一勝負限りだがな」

「はぁ? 何を馬鹿なことを。イカサマか八百長でもやろうっての? あんたそっちの筋の人なのか」

「違う違う、おじさんはただの見物人だ。別に何もしねぇよ。ただ、次のレースで勝つ馬が解るってだけさ」

 ぺてん師や八百長興行人でもないってのに、次のレースの勝ち馬が解るという。自称見物人のオッサンがだ。これを怪しいと言わずして何とする。

「会ったばかりのオッサンなんか信用出来るか。こちとら残り二百円しかねぇんだぞ、俺は帰る」

「二百円もありゃあ十分だ。万札に替えて帰れるぜ。おじさんの言う通りにすればだが」

 オッサンも意固地だ。一歩も退きやしねぇ。一体何なんだこのオヤジは。それでも尚難色を示す俺に、オッサンは財布の中から千円札数枚をちらつかせて言った。

「じゃあこうしよう。アンタがおじさんの言う通りに馬券を買って外れたら、外れの分は俺が持つ。勝っても負けても損はないってこった。どうだ?」

「どうだ……って」

 訳のわからないオッサンだ。見ず知らずの男に、勝負のアフターケアまでするか? 普通。何が目的なのか、どんな裏があるんだか、さっぱり分からん。

 しかし、好条件なのは確かだ。負けて損することはないし、何より金がない。だったら受けて見るのも悪くはないか。

「わーったよ。乗ったよ乗った。んで、俺に何をしろってんだ? 勝ち馬の騎手(ジョッキー)に嫌がらせでもしてこいってか?」

「だから、おじさんの言う通りに馬券を買えって言ってるんだよ。次のレース、五番に有り金全部注ぎ込んで来い」

「ごばン? 『シクルチャンチョーハッピー』って……んなのほほんとした名前の馬が一着取れるのかよ」

「そうだ、五番だ。名前や見てくれなんざどうだっていい。さっさと買ってきな」

 腑に落ちないが、乗った以上は仕方あるまい。俺は五番の馬に全財産を注ぎ込んで、オッサンと一緒に観客席に座り込んだ。

「周りの奴らに聞いたぜ。五番の馬、弱すぎて誰も券を買わないせいか、オッズが最高額らしいじゃねぇか。どうすんだよ」

「そいつぁいい。勝ちゃあ賞金一人占めだぜ。物は考え様だ」

「そりゃそうだけどよ……」

 そういう問題かよと文句をつける前に、賭けは締め切られ、馬たちは出走してしまう。後はもう、神のみぞ知るというやつだ。


 ――――さぁ始まりました注目の第十七レース。トラック十周の長距離走を征するのは果たしてどの馬か!?

 ――――一番『パツキンボイン』、大方の予想通り首位を独走。二位以下を突き放して一気に進みます。一番から遅れること二馬身、三番の『マミサンモグモグ』と二番の『ブルブルレットブル』が続きます。更にその背後で火花を散らす四番の『サージェントエチゼン』と六番の『ヤルッシュキアイダー』。まだ一周目だというのに気合いは十分。勝負はまだ分かりません。

― ―――そして、トップ集団から遅れること六馬身半。五番の『シクルチャンチョーハッピー』。先程のにわか雨でぬかるんだ地面に大苦戦。思うように走れない模様です。五番には気の毒ですが、勝負はあの五頭の中から決まるでしょう。


「あぁあ、もう目も当てられん。俺の二百円をどうしてくれんだこの野郎!」

「結果を急ぎ過ぎだぜ、若けぇもんの悪い癖だな。まぁ、最後まで見物してな」

 引き離されて先頭集団に入れない五番の馬を見ても尚、オッサンはにたにた顔を崩さない。半分も過ぎたってのに、なんでそうも呑気でいられるんだ。最初から勝負を投げてるんじゃないだろうな。冗談じゃねぇぞ。

 苛立ちに任せオッサンに騙したな! と叫ばんとしたその時、レースは思わぬ方向へ向かい始めた。


 ――――おぉっ、とぉ!? これはどうしたことだぁ? 熾烈な四位争いを続けていたサージェントエチゼンとヤルッシュキアイダー、慣れない泥濘(ぬかるみ)での走りが足に来たか、六週目半ばにしてまさかのペースダウン、ダウン、ダウン! 最下位のシクルチャンチョーハッピー、一気に四位に順位を伸ばします。

 ――――二頭を抑えて調子づいたか、二位三位を刺しにかかるシクルチャン、途中までの不調が嘘のように軽快な走りを見せています。

 ――――調子付いたシクルチャンがマミサンモグモグとブルブルレットブルに追い付きました。強豪の二頭相手に、足並みどころか呼吸すら乱さないシクルチャンチョーハッピー。彼が今、二頭を抜いて一気に二位に躍り出ました! これはひょっとしたら、ひょっとするかもしれません!

 ――――さぁいよいよ九周目、ラストラップです。二週半の距離と強靭なスタミナで首位・パツキンボインを射程に捉えたシクルチャン。その差は約半馬身、十分に首位を狙える位置です。しかし相手は二馬身以上他の馬を寄せ付けず、十五回連続首位のパツキンボイン。シクルチャン奇跡の快進撃も、さすがにここでストップしてしまうのでしょうか?

 ――――おぉ、おぉッとぉ? これは一体どうしたんだぁ!? シクルチャンと並び立ち、熾烈なトップ争いを続ける王者パツキンボイン、ここでまさかの失速、失速ですッ! 今まで圧倒的な勝利しか経験していなかったことが仇となったか、追い(すが)るシクルチャンの気迫に気圧され、足並みを大きく乱しています! シクルチャンチョーハッピー、ここぞとばかりに必死の追い上げーッ!

 ――――残り数十メートルの所でパツキンボインを抜き、今ゴォォォオル! シクルチャンチョーハッピー、まさかまさかの番狂わせ、大勝利ですッ! シクルチャン早い! シクルチャン強い!


 予想外のレース結果に会場が大ブーイングの中、俺は四百倍に膨れ上がった二口の馬券を握り締め、開いた口が塞がらず途方に暮れていた。見た限りイカサマがおこなわれた形跡はない。五番の馬は自分の力で首位を取っている。だが、そんなことがあり得るのか? そもそもこのオッサンは何故この結果を予測できたのか。分からないことだらけだ。

 途方に暮れる俺の背中を、オッサンは景気良く叩いて言った。

「な、言った通りだろう。おじさんに任せときゃあ何の問題もねぇってよ」

「そいつは悪かったがよ」俺は叩かれた背を擦りながら言い返す。「あんた、どんな魔法使ったんだよ。騎手と裏取引でもしたか? コースに何か仕掛けたってのか」

「だから、何もしてねぇと言っているだろう。まぁ何かしたとすりゃあ……、コースの状況と馬の状態を見てきたってだけだ」

「……それだけ?」

「それだけ」

 コースと馬の様子を見ただけ? それであんな予測が出来たって言うのか? あり得ないと言うか、そんな予想、誰だってやっている筈だ。

「答えになってないぞ。それでどうして予測出来る」

「なぁに、簡単な推理だ。まず四番と六番の馬は蹄鉄に泥がついていなかった。さっきどしゃ降りの通り雨があったろ。あの二頭は路面が一番酷い時に走っていない。いくら若い馬だろうが、路面の状況を省みず全力で走っちゃ、最後までスタミナが持つはずがない。こいつは騎手の力量不足によるミスだな。下調べがなっちゃいねぇ。

 んで、次は二番と三番だ。奴らの脚の筋肉は細くしなやか。短距離にゃあ滅法強いが、長距離となるとその細さが仇になっちまう。途中でへばっちまうのは容易に想像出来る。

 そして一番人気のパツキンボイン。このコースを走り慣れてて短・長距離もこなせるとなりゃあ、勝ちはこいつで決まり……と、誰もが思うだろう。だが今日は違った。脚周りが毛羽立ってて息遣いも荒い。常勝を期待されてのストレスなのかね、騎手だけでなく馬の方も気が立ってた。そんな中で然程強くない奴が肉薄してきたらもう、まともじゃあいられねぇだろう」

「馬見ただけでそこまで分かるって……、あんた、一体何者なんだよ。ただのオッサンである筈がねぇ」

「いいや、ただのオッサンだよ。この街の警察署で働いているだけのな。あんた、七重家綱だな? 探偵の」

「何で俺の名前を……。って言うか、そこまで知ってるってことは、つまり」

「あぁ、そうだ。あんたに仕事を頼みたい。受けて……くれるな?」

 急に真面目な顔をして仕事を依頼するオッサンに対し、俺は特に考えもなしに頷いた。今思うと、受けない方が俺にとっても彼にとっても幸せだったんじゃないかと思う。

 それが――俺と巖さんとの最初の出会いだった。


 馬の名前は酔った勢いで適当に決めました。

 ベーコンエッグにかけるものはウスターソース派です。

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