悪役令嬢になったのは、ずっと姉の代わりだったから
「ベアトリス・ヴァルディエ。お前との婚約を、ここに破棄する」
王太子アルフォンスの声が、王立学院の卒業夜会が開かれた大広間に響いた。
楽師の手が止まった。最後に鳴った弦の音だけが、高い天井へ吸い込まれていった。
広間の中央に立つベアトリスは、驚かなかった。
王太子の隣にいる伯爵令嬢マリアンヌへ、一度だけ目を向ける。彼女は青ざめ、胸元で指を固く組んでいた。
王太子に選ばれた令嬢の顔ではない。
自分の手で、取り返しのつかない扉を開いてしまった者の顔だった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
アルフォンスは数枚の書類を掲げた。
「マリアンヌに対する数々の嫌がらせだ。亡き母が彼女へ残した手紙の写しを奪い、寮の部屋を捜索させ、王宮への出入りを禁じるよう女官長へ圧力をかけた。国外へ追放すると脅したことも分かっている」
「すべて事実でございます」
あまりにも素直に認めたため、告発しているアルフォンスのほうが一瞬言葉に詰まった。
「では、弁明はないのだな」
「わたくしが行ったことについては、ございません」
「嫉妬に狂い、私と親しくなったマリアンヌを排除しようとした。そういうことだろう」
「いいえ」
「ならば、なぜだ」
「これまで、申し上げるわけにはまいりませんでした」
アルフォンスの右の眉が上がった。
彼は怒ると、右の眉だけが少し高くなる。
ベアトリスはその癖を知っていた。十年前に読んだ、姉の日記に書いてあったからだ。
――アルフォンス殿下は、怒ると右の眉だけが上がるの。ご本人は気づいていらっしゃらないみたい。
一字一句、今でも覚えている。
「昔のお前は、こんな人間ではなかった」
アルフォンスは掲げていた書類を下ろした。
「幼い頃のお前は優しかった。人を傷つけて平然としているような娘ではなかった。いつから変わってしまった」
「十年前からでございましょう」
「落馬事故のあとか」
「ええ。あの日からです」
人が変わったのではない。
人そのものが変わった。
けれど、アルフォンスは知らない。
目の前に立っている女が、自分と婚約した少女ではないことを。
「婚約破棄後、お前には領地の修道院へ入ってもらう」
広間の端に並んだ公爵夫妻は、異を唱えなかった。娘を見ようとさえしない。
十年前と同じだった。
お前一人が黙っていれば、すべてが収まる。
「承知いたしました」
「随分とあっさり認めるのだな」
「ひとつだけ、確認させてくださいませ」
彼女は左手を上げ、薬指の指輪へ触れた。
姉は右利きだった。
だから十年間、人前で左手を使うことを禁じられてきた。食事も筆記も、扇を持つ手も、すべて右へ直された。
けれど、もうよかった。
「これをお返しすれば、わたくしは殿下の婚約者ではなくなるのでございますね」
「当然だ」
「王太子妃教育を受ける義務も、王家と公爵家のために振る舞う義務もない」
「そうだ」
「ベアトリス・ヴァルディエとして生きる義務もない」
アルフォンスの表情が止まった。
父が一歩踏み出す。
「ベアトリス」
低い声だった。
余計なことを言うな。
十年間、何度も聞かされてきた声。
彼女は左手で婚約指輪を抜いた。薬指には白い跡が残っている。
「では、申し上げます」
指輪を掌へ載せ、正面からアルフォンスを見た。
「殿下の婚約者であるベアトリス・ヴァルディエは、十年前に亡くなっております」
姉のベアトリスは、よく笑う少女だった。
妹のセシリアより十七分早く生まれただけなのに、いつも姉らしく振る舞った。知らない客の前で言葉が出なくなったセシリアの手を握り、自分から紹介してくれた。
母に叱られれば一緒に謝り、泣いていると蜂蜜菓子を持って部屋へ来た。
「セシリアは、星の話をしているときだけお喋りになるわね」
十歳の春、二人は屋根裏部屋の窓から夜空を見上げていた。
セシリアは星図を広げ、ベアトリスはその隣で蜂蜜菓子を食べている。
「星は名前を覚えると、見つけやすくなるの」
「名前をつけられる前から、星はそこにあったのでしょう?」
「ええ」
「なら、名前が変わっても、星は星なのかしら」
セシリアは星図から顔を上げた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「今日、アルフォンス殿下との婚約が決まったでしょう」
ベアトリスは、指についた蜂蜜を舐めた。
「お母様が、これから私は公爵家の娘ではなく、未来の王太子妃として見られるのだとおっしゃったの」
「嫌なの?」
「少しだけ怖いわ。でも、王太子妃になっても、私は私でしょう?」
「当たり前よ」
「ベアトリスのまま?」
「ずっとベアトリスよ」
姉は嬉しそうに頷いた。
「セシリアも、ずっとセシリアね」
その三日後、ベアトリスは死んだ。
王家所有の森で行われた、両家だけの小さな乗馬会だった。
婚約を祝うために同行したのは、国王夫妻、公爵夫妻、王太子と双子の姉妹、侍医、そして数名の従者だけだった。
馬が突然暴れ、ベアトリスは振り落とされた。
子供たちと従者の大半は、すぐに現場から遠ざけられた。石造りの柵へ頭を打ちつけたベアトリスの死亡を確認したのは、両家の両親と侍医だけだった。
セシリアは、姉のそばから離れなかった。
何度名前を呼んでも、姉は目を開けない。蜂蜜色の髪に血が絡み、いつも笑っていた唇が少しだけ開いていた。
夜になると、両親がセシリアを執務室へ呼んだ。
父の机には、王家の紋章が押された書状が置かれていた。母の目は赤かったが、涙はもう流していなかった。
「セシリア。よく聞きなさい」
「お姉様は、明日になったら起きる?」
母の指が、娘の肩へ食い込んだ。
「ベアトリスは死にました」
「知ってる。でも」
「死んだ者は戻りません」
セシリアは俯いた。
分かっていた。
分かりたくないだけだった。
父が王家の書状を机へ置いた。
「だが、ベアトリスが死んだことにはできない」
「どういうこと?」
「この婚約は、ただの結婚の約束ではない。十二の諸侯が、ベアトリスを王太子妃とすることを条件に、アルフォンス殿下の王位継承を支持すると誓約している」
「でも、お姉様は死んだのよ」
「誓約の更新は半年後だ。それより前に婚約者が亡くなれば、諸侯の支持は白紙へ戻る。第二王子派は、必ず王位継承の再審議を求めるだろう」
「なら、わたしが新しい婚約者になればいいでしょう?」
父は答えなかった。
代わりに、机の上の書状へ目を落とした。
「誓約書に記されているのは、ベアトリス・ヴァルディエの名だ。妹への婚約変更は、新たな盟約として扱われる。半年以内に全諸侯の同意を取り直すことはできない」
「それでも、お姉様は死んだの」
「分かっている」
「死んだのに、生きていることにするの?」
父はまた黙った。
母が、セシリアの髪へ触れた。
姉と同じ蜂蜜色の髪。姉と同じ青灰色の瞳。双子を見分けられる者は、家族と近しい使用人しかいなかった。
「あなたがお姉様になるの」
「嫌」
「半年だけです。誓約が更新され、殿下のお立場が安定するまで。そこまで済めば、必ず元へ戻してあげるわ」
「わたしはセシリアよ」
「分かっています」
「お母様も、お父様も分かっているでしょう?」
「もちろんだ」
「なら、どうして」
父が机を叩いた。
「家族だけの問題ではないのだ! 王位継承が揺らげば、諸侯が割れる。争いになれば、何人死ぬか分からない!」
セシリアの肩が跳ねた。
「お姉様が死んだのは、わたしのせいじゃない」
「分かっている」
「お姉様のせいでもない」
「分かっているとも」
父は膝をつき、セシリアと目線を合わせた。
「だから頼む。半年だけ、姉の代わりをしてくれ」
母も娘を抱き締めた。
「あなたは賢い子でしょう」
「賢くなくていい」
「お姉様のためでもあるのよ」
その言葉に、セシリアは抵抗をやめた。
姉のため。
国のため。
半年だけ。
十歳の少女を黙らせるには、それで十分だった。
翌朝、王都へ告知が出された。
ヴァルディエ公爵家の次女セシリアは、急な感染症により死亡した。
感染拡大を防ぐため、遺体は棺を閉じたまま埋葬された。
棺の中に入れられたのは、ベアトリスだった。
セシリアは厚いカーテンの隙間から、自分の葬列を見た。神官が棺の前で祈りを捧げている。
「セシリア・ヴァルディエ嬢の魂に、永遠の安らぎを」
違う。
棺の中にいるのは、ベアトリスだ。
自分はここにいる。
セシリアは窓を開けようとした。母が背後から抱き締め、口を塞いだ。
「声を出してはいけません」
「んんっ」
「今日から、あなたはベアトリスなのよ」
遠ざかっていく棺へ手を伸ばしながら、セシリアは自分の名が墓地へ運ばれるのを見ていた。
そのときは、自分だけが死んだのだと思っていた。
違った。
姉もまた、自分の名前で死ぬことを許されなかった。
姉になるための教育は、葬儀の翌日から始まった。
ベアトリスは右利きだった。セシリアは左利きだった。
左手で匙を持つたび、母はその手を叩いた。
「ベアトリスは右手を使います」
「でも、うまくできない」
「できるようになりなさい」
ベアトリスは蜂蜜菓子が好きだった。セシリアは酸味の強い木苺が好きだった。
食卓から木苺は消え、毎日のように蜂蜜菓子が並んだ。
「甘すぎる」
「ベアトリスはそう言いません」
「お姉様だって、毎日は食べなかったわ」
「その呼び方も直しなさい。あなたがお姉様です」
ベアトリスは音楽を好み、セシリアは星を見ることを好んだ。
屋根裏部屋の星図は処分され、姉の楽譜が運び込まれた。
「星図を返して」
「ベアトリスは天文学など学びません」
「でも、わたしは」
「あなたは誰ですか」
母は毎回、同じことを尋ねた。
正しく答えられるまで、食事を与えられない日もあった。
「わたしは、ベアトリスです」
その言葉が自然に出るようになるまで、三か月かかった。
姉の日記を暗記した。
王太子と何を話したのか。どの庭で遊んだのか。何色の花を贈られたのか。アルフォンスが何を言い、姉がどう答えたのか。
事故から半年後、セシリアはベアトリスとして王宮へ戻った。
アルフォンスは彼女を見るなり、駆け寄ってきた。
「ベアトリス!」
セシリアは逃げそうになった。
母に背を押される。
「殿下へご挨拶を」
姉の日記に書かれていた通り、スカートを摘み、少しだけ右へ首を傾けた。
「ご心配をおかけいたしました、殿下」
「もう身体は平気なのか」
「はい」
「よかった」
アルフォンスは安堵したように笑い、小さな包みを差し出した。中には蜂蜜菓子が入っていた。
「君の好きなものだ」
セシリアは吐き気を堪えながら、一つ口へ入れた。
「ありがとうございます」
甘かった。
姉が好きだった味だった。
「少し、変わったな」
心臓が止まりそうになった。
「何がでしょうか」
「前は、もっとよく笑っていた」
母がすぐ後ろから答えた。
「事故の恐怖が残っているのでしょう。時間が必要ですわ」
「そうか」
アルフォンスは素直に納得した。
セシリアは知った。
人は、もっともらしい説明を与えられれば、目の前の違和感を見ないことにできる。
半年後、諸侯の誓約は更新された。
その日の夜、セシリアは父へ尋ねた。
「約束の半年が過ぎました。いつ、わたしへ戻してくださるのですか」
父は書類から顔を上げなかった。
「今、真実を明かせば、誓約そのものが詐欺によって結ばれたことになる」
「でも、殿下のお立場は安定したのでしょう」
「だからこそだ。王家と公爵家が諸侯を欺いたと知られれば、今度こそ王位継承が崩れる」
「半年だけとおっしゃいました」
「状況が変わったのだ」
三年目には、母へ尋ねた。
「わたしは、いつまでベアトリスなのでしょう」
「今さら公表すれば、あなたまで罪に問われるわ」
「わたしが?」
「王家を欺き、亡くなった姉の身分を奪ったと見られるでしょう」
「命じられただけです」
「世間がそう見てくれるとは限りません」
五年目には、もう尋ねなかった。
このままなら、姉の名を一生脱ぐことはできない。
そう理解した。
十四歳で社交界へ出ると、悪評はすぐに広まった。
最初に傷つけたのは、姉の幼なじみだったセリーヌという令嬢だった。
「ベアトリス様」
茶会の帰り、セリーヌは懐かしそうに話しかけてきた。
「昔、東の池へ二人で落ちたことを覚えていらっしゃいますか。わたくし、あのとき母にひどく叱られましたの。でも、ベアトリス様が一緒に謝ってくださって」
周囲にいた令嬢たちも耳を傾けている。
セシリアは知らなかった。
姉の日記にも書かれていない思い出だった。答えを間違えれば、疑われる。
セシリアは微笑んだ。
「セリーヌ様。あなたのお父上が、領民へ配るはずの冬季備蓄を横流ししている件を、ご存じですか」
セリーヌの笑顔が消えた。
それは事実だった。
王太子妃教育の一環で地方の帳簿を読んだとき、セシリアが見つけた不正だった。本来なら、内々に是正させることもできた。
だがセシリアは、その場で口にした。
その日のうちに、保管していた帳簿の写しを監察院へ提出した。
翌月、セリーヌの父は爵位を失い、一家は王都を去った。
不正をした父は裁かれるべきだった。
けれど、セリーヌまで社交界から追われる必要はなかった。
出立の日、セリーヌは馬車へ乗る前に言った。
「昔のあなたは、そんな方ではなかった」
「昔のわたくしなど、存在いたしませんわ」
馬車が見えなくなってから、セシリアは道端で吐いた。
それでも、自分がしたことを取り消さなかった。
あれ以来、姉の過去を知る者は気軽に近づいてこなくなった。
冷酷。
傲慢。
王太子妃の座を守るためなら、誰でも切り捨てる令嬢。
そう呼ばれるほど、秘密は守りやすくなった。
セシリアは、悪役令嬢と誤解されたのではない。
生き残るため、自分で悪役令嬢になった。
事情があったからといって、傷つけた相手の痛みが消えるわけではない。それも分かっていた。
だから、許されたいとは思わなかった。
マリアンヌが学園へ編入してきたのは、卒業まで半年を切った頃だった。
地方伯爵の庶子として育ち、母の死後に認知された娘。華やかな容姿ではなかったが、人をよく見ていた。
初めて廊下ですれ違ったとき、マリアンヌはセシリアの左手を見た。
その視線に気づき、セシリアは手袋の中で指を握った。
翌日、図書館の奥で声をかけられた。
「セシリア様」
身体中の血が凍った。
セシリアはマリアンヌの腕を掴み、誰もいない資料室へ連れ込んだ。
「その名を、どこで知りました」
マリアンヌは震えながら、首元の首飾りを外した。
小さな蓋を開くと、幼い双子の肖像画が入っている。蜂蜜菓子を持って笑うベアトリスと、星図を抱えたセシリア。
裏には、それぞれの名前が記されていた。
「母の遺品です。母は以前、公爵家に仕えていました」
「名前は」
「ルシールです」
覚えていた。
屋敷の廊下で一度だけ、セシリアと呼んだ侍女。
翌日、姿を消した女。
「母は公爵家を解雇され、二度と王都へ戻らないという誓約書へ署名させられました。その後も、毎年口止め料が送られていたそうです」
「お母様は、なぜ亡くなられたのですか」
「病です。母が殺されたとは思っておりません」
マリアンヌは、はっきりと言った。
「ですが、最後まで王都へ戻ることは許されませんでした」
セシリアは唇を噛んだ。
「母は亡くなる前、手紙を残しました。ベアトリス様は十歳で亡くなった。生きているのは妹のセシリア様だと」
「手紙はどこです」
「原本は、母の故郷に住む伯母へ預けてあります」
「なら、あなたが持っているものは」
「写しです」
「渡しなさい」
「嫌です」
セシリアはマリアンヌの頬を打った。
乾いた音が資料室へ響いた。
マリアンヌは頬を押さえながら、それでも目を逸らさなかった。
「そのようなものを持っていれば、あなたも王都から追われます」
「公爵様に?」
「それ以上、口にしてはなりません」
「だから母は追い出されたのですか」
「二度とわたくしへ近づかないでください」
「セシリア様」
「その名で呼ばないで!」
扉の外で物音がした。
アルフォンスが立っていた。
彼の視線は、頬を赤くしたマリアンヌと、その腕を掴むセシリアへ向けられていた。
秘密を隠すには、悪役令嬢でいるしかない。
「殿下へ近づくのはおやめなさい。次に同じことをすれば、王都にも学園にもいられなくして差し上げます」
「ベアトリス!」
アルフォンスがマリアンヌを庇った。
その日から、彼はセシリアを露骨に警戒するようになった。
セシリアはマリアンヌ宛ての手紙を取り上げ、寮の部屋を捜索させ、王宮への出入りを禁じた。国外へ追放するとも脅した。
証拠の存在が両親へ知られれば、マリアンヌは母と同じように王都から追われ、二度と戻れなくなる。
だから遠ざけようとした。
けれど、それが善意だったとは言えない。
セシリアは一度、奪った手紙の写しを燃やそうとした。
原本が別の場所にあると知っていても、目の前から真実を消せば、まだ引き返せるような気がした。
自分は苦しくても、姉の名誉だけは守れると思ったからだ。
紙の端へ火を近づけたところで、マリアンヌが言った。
「あなたが守っているのは、公爵家ではありません」
「黙りなさい」
「王家でもない」
「黙れと言っています」
「お姉様でしょう」
セシリアの手が止まった。
「ベアトリス様が亡くなったと公表すれば、お墓を開かれるかもしれません。遺体を調べられ、新聞に書かれ、十年間の嘘の原因として名前を晒される」
「分かったようなことを」
「だから、あなたは真実を言えなかった」
「違います」
「お姉様を、もう一度傷つけたくなかったのでしょう」
否定できなかった。
真実を明かせば、ベアトリスの死は政治の醜聞になる。死んだ姉まで、王家を欺いた娘と呼ばれるかもしれない。
墓を暴かれ、骨を調べられ、自分の名で眠らされている姉が見世物にされる。
「姉は何も悪くありません」
「知っています」
「姉は、わたくしから何も奪っていない」
「はい」
「死んだだけです」
「はい」
セシリアは火を消した。
「なのに、姉の名を返せば、姉が本当に死んでしまうような気がしました」
十年間、誰にも言えなかった言葉だった。
姉の名で呼ばれている限り、どこかに姉が残っている気がしていた。姉の好物を食べ、姉の癖を真似て、姉の婚約者の隣へ立つ。
苦しかった。
憎かった。
それでも、姉を完全に失わずに済んだ。
「ですが、ベアトリス様はセシリア様の名で埋められています」
セシリアは顔を上げた。
「あのお墓へ捧げられる祈りは、すべてセシリア様のためのものです。棺の中にいるのは、ベアトリス様なのに」
墓碑に刻まれているのはセシリア。
神官も家族も、毎年、違う名へ祈りを捧げる。
「お姉様も、ご自分の名前へ戻れないままです」
セシリアの手から、手紙が落ちた。
自分だけではなかった。
生きているセシリアは、ベアトリスの名に閉じ込められた。
死んだベアトリスは、セシリアの名に閉じ込められた。
二人とも、正しい場所にいなかった。
「わたくしが姉の名を返さなければ」
セシリアは呟いた。
「姉も、わたくしの名を返せない」
マリアンヌは答えなかった。
答える必要がなかった。
その夜、セシリアは手紙の写しをマリアンヌへ返した。
代わりに、自室の床下へ隠していた記録を見せた。
口止めされた使用人たちへ支払われた金の記録。父の執務室で見つけ、書き写しておいた密約書。侍医が正式な診療記録を書き換える前に残した覚書。
すべてを一度に集めたわけではない。
十五歳の頃から、いつか自分が消されたときのために、少しずつ残してきたものだった。
マリアンヌの母が遺した手紙には、当時の侍医と葬儀を担当した神官の名も書かれていた。
二人は中立派の女公爵を介し、侍医と神官へ連絡を取った。
侍医は長く沈黙していたが、死期が近づいていることを理由に証言を承諾した。神官もまた、棺を閉じたまま埋葬するよう王命を受けたことを認めた。
同じ資料を三組用意した。
一組は王国法院へ。
一組は大神殿へ。
最後の一組は、王家にも公爵家にも属さない女公爵へ。
誰か一人を消しても、真実までは消せないように。
資料を封じ終えたとき、セシリアは尋ねた。
「これを出せば、姉の墓は開かれます」
「はい」
「ベアトリスの名も、世間へ晒されます」
「はい」
「わたくしも裁かれるかもしれません」
「はい」
マリアンヌは、何ひとつ誤魔化さなかった。
「それでも、出しますか」
セシリアは自分の左手を見た。
「出します」
初めて、自分で選んだ答えだった。
「殿下の婚約者であるベアトリス・ヴァルディエは、十年前に亡くなっております」
卒業夜会の広間で、父が声を荒らげた。
「娘は混乱している!」
母も早足で近づいてきた。
「ベアトリス。今は屋敷へ戻りましょう」
「その名で呼ばないでくださいませ」
「あなたはベアトリスよ。十年間、そう生きてきたでしょう」
「生きたのではありません」
セシリアは母を見た。
「生かされたのです。あなた方に都合のよい形で」
アルフォンスが首を振った。
「待て。セシリアは感染症で亡くなったはずだ」
「亡くなったことにされたのです」
「なら、お前は」
「双子の妹、セシリア・ヴァルディエです」
広間がどよめいた。
アルフォンスは王族席へ振り返った。
「父上。ご存じだったのですか」
国王は答えなかった。
沈黙が、そのまま答えになった。
「事故のあと、変わったと思っていた」
アルフォンスは呟いた。
「笑わなくなった。昔の話を嫌がった。蜂蜜菓子も、私が見ていないところでは食べていなかった」
「姉ではありませんでしたから」
「なぜ、言わなかった」
セシリアは思わず笑った。
「十歳のわたくしに、何ができたとお思いですか」
アルフォンスは何も言えなかった。
父が怒鳴った。
「証拠もない妄言だ!」
「証拠ならございます」
マリアンヌが前へ出た。
母ルシールの手紙。双子の肖像画。改竄前の診療記録。葬儀を担当した神官の証言。口止めされた使用人たちへの支払い記録。
そして、王家と公爵家が交わした密約書の写し。
招待客の列から、王国法院の長官と大神殿の司祭が進み出た。
二人は事前に資料を受け取り、その真偽を確認するため、卒業夜会へ出席していた。
「同じ資料は、当法院にも届いております」
法院長官が告げた。
「埋葬記録と当時の診療記録にも、不自然な食い違いが確認されました」
司祭も続けた。
「大神殿には、当時の神官が署名した証言書が提出されております。墓所を一時封鎖し、正式な調査を行います」
セシリアの胸が痛んだ。
姉の墓が開かれる。
それでも、今度こそ正しい名で眠らせるためには必要だった。
国王が低い声で言った。
「王家の機密を持ち出した罪は理解しているのか」
「存じております」
「自らも、身分詐称に加担した」
「はい」
父が勢いづいた。
「そうだ。この娘も共犯だ!」
「ええ」
セシリアは認めた。
「わたくしは、命じられた被害者であるだけではございません」
広間の中ほどに、セリーヌがいた。
父の爵位剥奪後、彼女は母方の伯母である伯爵夫人に引き取られ、現在はその身の回りを手伝っている。今夜も伯爵夫人の付き添いとして、卒業夜会へ来ていた。
「秘密を守るため、わたくしは無関係な方々まで傷つけました」
セリーヌの顔が強張った。
「事情があったからといって、わたくしの罪がなくなるとは申しません」
セシリアは彼女へ頭を下げた。
「セリーヌ様。あなたを傷つけたことを、お詫びいたします」
セリーヌは答えなかった。
許してもらえるとは思っていない。
それでよかった。
「わたくしの罪は、わたくしが負います」
セシリアは顔を上げ、父と国王を見た。
「ですが、わたくしが罪を犯したからといって、あなた方の罪が消えるわけではありません」
母が泣きながら手を伸ばした。
「私たちは、あなたを守ろうとしたのよ」
「わたくしを?」
「真実を明かせば、あなたまで裁かれた。公爵家を失えば、将来もなくなる」
「将来」
セシリアはその言葉を繰り返した。
「姉の名前で王太子妃となり、姉の名で子を産み、姉の名で死ぬことが、わたくしの将来だったのでしょうか」
「それでも王妃になれたのよ。誰もが望んでも得られない地位だったのに」
母は本気でそう言っていた。
「お母様は、最後までお分かりにならないのですね」
「何を」
「わたくしは、王妃になりたかったのではありません」
セシリアは二枚の書類を取り出した。
一枚は、セシリア・ヴァルディエの死亡証明書。
もう一枚は、ベアトリス・ヴァルディエと王太子の婚約書。
「ベアトリスという名前は、姉のものです」
婚約書をアルフォンスへ返した。
「わたくしが使い続けてよいものではありませんでした」
次に、自分の死亡証明書を広げた。
「セシリアという名前は、あなた方が十年前に殺しました」
「私たちは、あなたの両親よ」
母が泣き崩れた。
「あなたは私たちの娘でしょう」
セシリアは、十年間聞きたかったことを尋ねた。
「どちらの娘でしょうか」
母の唇が動いた。
声は出なかった。
「姉のベアトリスですか。それとも、死んだことにされたセシリアですか」
「そんな言い方を」
「わたくしがセシリアとして泣けば、ベアトリスになれとおっしゃいました。ベアトリスとして苦しめば、姉の分まで生きろとおっしゃいました」
母は答えられない。
「お母様たちが必要だったのは、どちらの娘でもありません」
セシリアは静かに言った。
「家を守るため、都合よく姉にも妹にもなれる子供です」
アルフォンスが、手の中の指輪を握り締めた。
「セシリア」
初めて、彼がその名を呼んだ。
それでもセシリアは、すぐには振り返らなかった。
十年間、彼は姉の名しか呼ばなかった。今さら一度正しく呼ばれたところで、失われたものは戻らない。
「私は何も知らなかった」
「存じております」
「知っていれば」
「何をなさったのですか」
アルフォンスは答えられなかった。
十歳の彼に何ができたかは分からない。
だが成長した後も、婚約者の変化を傲慢さと決めつけ、確かめようとはしなかった。
「私に、何か償えることはないのか」
セシリアは彼を見た。
「まず、姉とわたくしが別の人間だったと、お認めくださいませ」
「認める」
「姉を愛していたことと、わたくしを十年間見ていたことを、同じものにしないでください」
アルフォンスの唇が震えた。
「そして二度と、わたくしを殿下の婚約者という役割へ戻そうとなさらないでください」
「分かった」
その返事が本心かどうかを、今のセシリアには判断できなかった。
けれど、もう判断する役目もない。
セシリアは指輪を、アルフォンスの手へ落とした。
「わたくしがどのように笑う人間なのか、もう思い出せません」
姉の真似ではない。
王太子妃として教え込まれたものでもない。
誰にも求められていないとき、自分がどんな顔をするのか分からない。
「ですから、これから探します」
墓が開かれたのは、夜会から一か月後だった。
棺の中の遺骨は、当時の診療記録に残されたベアトリスの特徴と一致した。
法院は、セシリア・ヴァルディエの死亡登録を取り消し、埋葬記録を訂正する仮決定を出した。正式な身分回復には、さらに証言と記録の確認が必要だった。
古い墓碑には、こう刻まれていた。
セシリア・ヴァルディエ。
十歳にて永眠。
その下に眠っていたのは、ベアトリスだった。
墓碑を取り替える前日、セシリアは一人で墓地を訪れた。
春先の風が、伸び始めた草を揺らしている。
十年間、毎年この場所へ来ていた。自分の名が刻まれた墓の前で、姉のために祈った。
けれど、口に出して姉の名を呼ぶことは許されなかった。
「お姉様」
初めて、正しい名を呼ぶ。
「ベアトリスお姉様」
返事はない。
それでよかった。
死者は返事をしない。
姉は、死んだのだ。
十年前に。
「ずっと、お名前をお借りしておりました」
墓碑へ手を触れた。刻まれているのは、自分の名前だった。
「苦しかったです」
風が吹いた。
「お姉様のお名前が、嫌いになったこともありました。お姉様が死ななければよかったと思いました」
涙が落ちた。
「どうして、わたくしを置いていったのかと、恨んだこともあります」
姉が悪いわけではない。
分かっていた。
分かっていても、恨まずにはいられない夜があった。
「でも、お姉様も帰れなかったのですね」
ベアトリスは、セシリアの名で埋められた。
自分の死を悼まれず、自分の墓も持てず、生きていることにされ続けた。
「毎年、神官様はセシリアのために祈りました。ここに眠っているのは、お姉様なのに」
姉もまた、間違った名の中で眠らされていた。
「明日、墓碑が替わります」
声が震えた。
「ここには、ベアトリス・ヴァルディエと刻まれます」
姉の名が、姉の身体へ戻る。
セシリアは胸元から、法院が出した死亡登録取消の仮決定書を取り出した。
「ですから、わたくしも、この名前を取り戻します」
セシリア・ヴァルディエ。
死者の名ではない。
ここに生きている、自分の名。
「お姉様のお名前を、お返しします」
墓碑へ額をつけた。
「わたくしの名前も、返していただきます」
姉から奪うのではない。
二人の名前を、正しい場所へ戻すのだ。
「さようなら、ベアトリスお姉様」
十年前の葬儀では言えなかった別れだった。
「今度こそ、安らかにお眠りください」
翌日、新しい墓碑が据えられた。
ベアトリス・ヴァルディエ。
十歳にて永眠。
ここに眠る。
セシリアは墓前へ、蜂蜜菓子を一つ置いた。
姉が好きだったもの。
自分はもう、食べなくてよい。
身分回復の手続きが正式に完了した日、法院の役人は書類を確認しながら尋ねた。
「お名前をお願いいたします」
以前なら、反射的に姉の名を答えていた。
セシリアは左手でペンを持った。
誰も、その手を叩かなかった。
「セシリアです」
自分の名前を書き記した。
「セシリア・ヴァルディエ」
公爵家は取り潰された
家名を残す義務もない。
それでも今は、この名を名乗ることにした。
いつか捨てるとしても、それは両親に奪われるからではない。
自分で選ぶために。
手続きを終え、建物の外へ出た。
マリアンヌが待っていた。
「セシリア様」
呼ばれた。
セシリアは、すぐに振り返った。
墓の下では、ようやくベアトリスが眠っている。
地上では、ようやくセシリアが生きていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
久しぶりの「悪役令嬢になったのは、ずっと……だったから」シリーズです。
今回は、「姉の代わりに生きた妹」だけではなく、「妹の名前で葬られた姉」もまた、正しい場所へ帰れないままだった、という形で書きました。
生きているセシリアは、ベアトリスの名に閉じ込められた。
死んだベアトリスは、セシリアの名に閉じ込められた。
二人とも、自分の名前を奪われた被害者です。
だから最後は、誰かを打ち負かすことよりも、姉へ正しい死を、妹へ正しい生を返す結末にしました。
事情があったとしても、セシリアが人を傷つけた事実は消えません。そこも含めて、「悪役令嬢と誤解された」のではなく、生き残るために本当に悪役令嬢になってしまった少女の話です。
それでも最後には、自分の名前を自分で名乗れるところまで辿り着けました。
ベアトリスは、ようやくベアトリスとして眠る。
セシリアは、ようやくセシリアとして生きる。
そんな姉妹の話でした。




