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氷の橋が溶けたので、王都で“夏じたく”を始めます。雪国の羊飼い、半年のスローライフ

作者: 苦痛禍無理
掲載日:2026/06/04

 氷橋が崩れていた。

 大河の中央に黒い水面がのぞいている。岸辺近くにはまだ厚い氷が残っていたが、その先はもう駄目だった。流れに削られた氷塊が、ゆっくりと下流へ流れていく。

 夏なら珍しくもない光景だ。

 だが今は春の半ばだった。

 早すぎる。

 私はしばらく川を眺めていたが、どう見ても結果は変わらないので諦めた。

 渡れないものは渡れない。

 振り返る。

 羊たちは川岸の草を食べていた。

 こちらは帰り道が消えたというのに、連中は草の味の方が大事らしい。

 だが、その姿を見ているうちに別のことが気になった。

 毛だ。

 冬の間に伸びた厚い毛が身体をひと回り大きく見せている。

 雪国では頼もしい。

 だが王都の春は違う。

 数頭が口を開けていた。

 呼吸も少し荒い。

 暑がっている。

 私は空を見上げた。

 薄い雲。

 強い日差し。

 今年は雪解けも早かった。

 これからもっと気温は上がる。

 帰れないことより、そちらの方が問題だった。

「参ったな」

 思わず声が出た。

 羊たちは聞いていない。

 一頭だけが顔を上げ、口いっぱいの草を咀嚼しながらこちらを見た。

「王都へ戻るぞ」

 返事はない。すぐに足元の草をまた口に詰め込み始めた。

 代わりに牧羊犬のロウが耳を立てた。

「まず毛刈りだな」

 三十七頭。

 一頭も落とすわけにはいかない。

「今日から餌を少し減らすぞ」

 毛刈りの前に腹を軽くしておいた方がいい。

 長く座らせることになる。

 腹が張っていると苦しい。

 群れの端にいた古株の雌羊が顔を上げた。

「メェェ」

 不満そうな声だった。

「文句は聞かん」

 頭を撫でる。

「おまえたちのためだ」

 羊は鼻を鳴らした。

 納得していないらしい。

 私は苦笑した。

 やることは決まっている。

 王都へ戻る。

 毛を刈る。

 涼しい寝床を探す。

 冬まで羊を守る。

 氷橋は消えたが、仕事はむしろ増えている。

 王都へ戻る道は暑かった。

「おかしいな。この王都は冬のある街だろうに」

 春の半ばだというのに、まとわりつくような湿気がひどい。

 何頭かの羊が口を開けて歩いている。

「街なら水売りも居るだろ。ここじゃ何もできねぇからな」

 そう言いながら歩く。

 羊たちは相変わらず返事をしない。

 だが群れは崩れなかった。

 ロウも時々振り返りながら最後尾を確認している。

 王都の城壁が見えた時には、私も少しほっとしていた。

城門をくぐる。

 白い石畳が陽光を跳ね返した。

 雪原とは違う眩しさだった。

 思わず立ち止まる。

 背中に冷たい感触が当たった。

 振り返る。

 一頭の羊が濡れた鼻先を押し付けていた。

「ああ、悪い」

 私も少しぼーっとしていたらしい。

「先に用事を済ませる」

 羊は興味を失ったように顔を逸らした。

 まず向かったのは商人ギルドだった。

 毎年羊毛を売っている。

 顔見知りもいる。

 建物の裏の日陰へ羊たちを待たせ、私は受付へ向かった。

「帰ったんじゃなかったのか」

 顔馴染みの職員が言った。

「そのつもりだった」

「何があった」

「氷橋が消えた」

「ああ……」

 男は汗を拭い、納得したように頷いた。

「今年は確かに溶けててもおかしくないな」

「異常だ」

 私は荷車を指差した。

「それと追加だ」

 積まれた羊毛を見る。

 王都へ戻る途中、休憩のたびに数頭ずつ刈った毛だ。

「もう毛刈り始めたのか?」

「ああ」

男は追加の羊毛を見た。

「短いな?」

「伸ばしてる途中のはずだったからな」

 窓の外を見る。

 日陰で休む羊たちはまだ冬毛のままだ。

 暑そうだった。

「刈らなきゃ、あと一月もしたら弱る」

 男は荷車へ近付いた。

 羊毛を手に取る。

 少し考える顔になる。

「もったいないな」

「だろうな」

 私もそう思う。

 毛足が短い。

 本来ならもっと伸ばしたかった。

 あと二月も育てれば値段はかなり違っただろう。

 だがそんな話ではない。

 羊は生きていなければ毛を生やせない。

「全部刈るのか」

「全部だ」

「赤字になるんじゃないか」

「なるな」

 男は笑った。

「お前らしい」

「それより聞きたい」

「なんだ」

「羊を置ける場所だ」

 その日の午後には市場広場の一角を借りて毛刈りを始めた。

 地面は平ら。

 水場も近い。

 悪くない。

 私は最初の一頭を座らせた。

 首の下へ腕を入れ、重心を崩す。

 押し倒さない。

 立ち上がれない角度へ導く。

 羊は尻を地面につけた。

 私は鋏を開く。

 まず腹。

 毛ではなく皮膚を見る。

 左手で皺を伸ばしながら刃を入れる。

 しゃっ。

 毛が剥がれる。

 もう一度。

 しゃっ。

 同じ長さ。

 同じ角度。

 同じ速さ。

 急がない。

 急いだ鋏は羊を傷付ける。

 腹、胸、首、肩……

 順番を変えない。

 何年もそうしてきた。

 しゃっ。

 しゃっ。

 鋏の音だけが続く。

あまり毛を伸ばせていないとはいえ元が長毛だ。

 やがて大きな一枚になって垂れ下がった。

 最後の一刈りを終える。

「終わりだ」

 羊を立たせる。

 羊は身体を震わせた。

 細かな毛が舞う。

 そして小走りで群れへ戻っていった。

 足取りが軽い。

 それを見て少し安心した。

 毛刈りには三日かかった。

 三十七頭。

 簡単な仕事ではない。

 市場へ来る人々も足を止めた。

「器用だな。魔法は使わないのか?」

「使わない」

「そっちの方が楽だろう」

「羊にはこっちの方が楽だ」

 そう答える。

 皮膚を見る。

 傷を見る。

 虫を見る。

 湿疹を見る。

 毛の下を確かめる。

 鋏を使う理由はそれだけで十分だった。

 最終日。

 最後の一頭を送り出した時には、羊たちの様子は見違えていた。

 呼吸は落ち着いている。

 口を開ける羊も減った。

 この分なら羊たちも少しの間なら平気だろう。もともと丈夫な奴らだ。

 これでひとまず暑さは凌げる。

 次に必要なのは寝床だった。

 王都の建物は羊を飼うようにはできていない。

 だが商人ギルドの紹介で、東倉庫街に空き倉庫を見つけた。

 古い穀物倉庫だった。

 壁は厚い。

 天井も高い。

 窓を開けると空気が流れる。

 何より広い。

 三十七頭が寝転んでも余裕があった。

「ここなら大丈夫だな」

 羊たちを中へ入れる。

 しばらく歩き回った後、それぞれ好きな場所へ落ち着いた。

 ロウも入口の近くへ寝転がる。

 どうやら気に入ったらしい。

 王都の夏は長かった。

 倉庫を借りてからの日々は、思ったより忙しかった。

 朝は日の出前に起きる。

 最初の仕事は掃除だ。

 寝藁を集める。

 夜の間に溜まった糞を拾う。

 三十七頭分ともなると馬鹿にならない量だった。

 糞と汚れた藁は荷車へ積む。

 捨てるわけではない。

 週に一度、農業ギルドへ持っていく。

 羊が食べた草は、また草になる。

 雪国なら暖炉替わりに家で発酵させていたのだが、炎天下の倉庫でやることではない。

 掃除が終われば水桶を洗う。

 夏の水はすぐ悪くなる。

 井戸まで往復し、何度も水を運ぶ。

 その頃になると羊たちも起き始める。

 私は群れを見回す。

 食欲。

 歩き方。

 呼吸。

 耳の動き。

 毎日同じことを見る。

 だが同じ日は一日もない。

 それが仕事だった。

 ようやく私は思った。

 帰れなくなったのではない。

 半年だけ、ここで暮らすのだと。


王都の夏は長かった。

 雪国では昼でも涼しい風が吹く。

 だが王都は違った。

 朝から石畳が熱を持ち、夕方になってもなかなか冷めない。

 それでも羊たちは元気だった。

 毛を刈り、寝床を確保し。

 そして毎日様子を見ていた甲斐があった。

 週に一度、私は農業ギルドへ行った。

 荷車には糞と汚れた寝藁が積まれている。

 最初は奇妙な目で見られた。

「何を運んでるんだ?」

「羊糞だ」

「捨てるのか?」

「売る」

 そう答えると大抵同じ顔をされた。

 冗談を聞いたような顔だ。

 だが農業ギルドへ着くと話は違う。

「来たか」

 職員が荷車を見る。

「今週分だ」

「助かる」

 慣れた様子で受け取る。

 春野菜を育てる畑や、城壁の外の農地へ回されるらしい。

 私は詳しく知らない。

 羊を育てるのが仕事だからだ。

 だが少しばかりの金にはなった。

 干し草代くらいにはなる。

「羊ってのは便利だな」

 職員が言う。

「毛も売れる。糞も売れる」

「本人たちは草を食ってるだけだがな」

 職員は笑った。

夏の盛りになると、倉庫へ来る人が増えた。

 最初は毛刈りを見ていた子供たちだった。

 そのうち商人も来るようになった。

 荷運び人も来る。

 何をするでもなく入口から羊を眺めて帰る。

「何が面白いんだ」

 私には分からない。

「落ち着くんだよ」

 荷運び人はそう言った。

「草食ってるだけだろ」

「それがいいんだ」

 そう言われてもよく分からなかった。

 羊は草を食べる。

 反芻する。

 寝る。

 また草を食べる。

 毎日見ている私には当たり前の光景だった。

 だが人は見に来る。

 暑い日ほど多かった。

 倉庫の中が少し涼しいからかもしれない。


 夏の終わり頃。

 荷運び人が倉庫へやって来た。

 その荷運び人は時々手伝いもした。

 井戸で顔を合わせれば、水桶を一つ持ってくれる。

 農業ギルドへ糞を運ぶ時、荷車を押してくれることもあった。

 礼を言えば、

「ついでだ」

 と返される。

 本当にそうなのかもしれない。

 荷運び人は忙しい。

 長話をすることもなかった。

 ただ気付くと倉庫にいて、羊を眺めて帰っていく。

 そんな男だった。

 いつものように入口へ腰を下ろす。

 羊たちは反芻している。

 ロウは昼寝をしている。

「静かだな」

「いつもだ」

「そうだった」

 男は笑った。

 しばらく二人で羊を見ていた。

 会話はなかった。

 だが不思議と気まずくもなかった。

「ねえ、この羊さん名前はないの?」

 子供に聞かれた。

「ない」

「え?」

「ない」

「一頭ずつつけないの?」

「三十七頭だぞ」

私が言うと、子供たちは顔を見合わせた。

 確かに無理だと気付いたらしい。

「ああ、あいつにはあるが。」

そういってロウを指差してみたが、子どもたちは羊たちに興味深々なようだ。

「羊さんの見分けつくの?」

「つく」

 私は群れの端を指差した。

「あれは左耳が欠けてる」

 次を指差す。

「あれは一番食う」

 また別を指差す。

「あれは歩くのが遅い」

 子供たちは目を丸くした。

 だが毎日見ていれば分かる。

 名前がなくても分かる。

 それは羊飼いなら当たり前のことだった。

 やがて子供たちは勝手に呼び始めた。

「大食い!」

「左耳!」

「のろま!」

 羊たちは少し耳を子供達の方へ向けたが、そのまま口を動かし続けていた。

 生活は少しずつ形になっていった。

 朝は掃除。

 水替え。

 群れの確認。

 昼は休む。

 羊も休む。

 ロウも休む。

 倉庫の中では反芻の音しかしない。

 外では市場の喧騒が続いている。

 商人の声。

 荷車の音。

 鍛冶屋の槌音。

 だが倉庫の中だけは別の時間が流れていた。

 私はその時間が嫌いではなかった。

 夏の終わり頃だった。

 朝、水桶へ手を入れた時に違和感を覚えた。

 冷たい。

 ほんの少しだが、夏とは違う。

 私は空を見上げた。

 雲が高い。

 空も深い。

 羊たちを見る。

 食欲が戻っている。

 夏の間は残していた干し草を綺麗に食べていた。

 毛も少しずつ伸びている。

「来るな」

 思わず呟く。

 ロウが顔を上げた。

 尻尾を一度振る。

 秋だった。

 王都の人々はまだ暑いと言っていたが、私には懐かしい気配が感じられた。

 水。

 草。

 毛。

 呼吸。

 群れ。

 そういうところに先に現れる。

 私は少しずつ帰り支度を始めた。

 倉庫を掃除する。

 道具を整える。

 干し草を減らす。

 冬は遠くない。

 氷橋が再び凍ったという知らせが来たのは、それから一月ほど後だった。

 商人ギルドの職員が倉庫へやって来た。

「帰れるぞ」

 その一言だった。

 私は頷く。

「そうか」

「驚かないな」

「そろそろだと思ってた」

 羊たちを見る。

 冬毛が伸び始めている。

 今年も冬が来る。

 それだけのことだった。

 王都の門へ向かう前。

 荷運び人が人混みをかき分けてやって来た。

「帰るんだってな」

「ああ」

「寂しくなるな」

 私は羊たちを見た。

「羊がか?」

「倉庫がだ」

 男は肩をすくめた。

「静かで良かったんだよ」

 そう言って、小さな箱を差し出してきた。

「餞別だ」

「なんだこれ」

「火種の魔道具」

 手のひらに収まる金属箱だった。

「高いだろ」

「王都じゃみんな持ってる」

 男は笑った。

 私は箱を見た。

 火打石なら持っている。

 本来なら必要ない。

 だが返す理由も思いつかなかった。

「使わないかもしれんぞ」

「好きにしろ」

「そうか」

 それだけ言って荷袋へしまう。

 男もそれ以上は何も言わなかった。

 羊たちが歩き始める。

 ロウが前へ出る。

 私も続く。

「じゃあな」

 振り返らずに言った。

「ああ」

 返事はそれだけだった。


 出発の日。

 思ったより多くの人が集まっていた。

 農業ギルドの職員。

 荷運び人。

 商人。

 子供たち。

「もう帰るのか」

「帰る」

「左耳、元気でな!」

 よく訪ねてきた子供の1人が叫んだ。

「来年も来るのか」

「羊毛は売るからな」

 そう言うと皆が笑った。

 それで十分だった。

 大袈裟な別れはいらない。

 半年暮らしただけだ。

 だが半年も暮らした。

 それだけの重さはあった。

 王都を出る。

 羊たちが歩く。

 ロウが先頭へ出る。

 私も続く。

 見慣れた街道を進む。

 冷たい風が吹いていた。

 半年ぶりに感じる故郷の匂いだった。

 氷橋は戻っていた。

 白く。

 厚く。

 静かに。

 春に見た黒い川面はどこにもない。

 私は足元を確かめる。

 問題ない。

 羊たちも迷わず進んでいく。

 雪国で生まれた羊だ。

 この景色を知っている。

 ロウも先を歩く。

 氷の上で振り返り、群れを確認した。

 その姿を見て少し笑った。

 半年経ってもやることは変わらないらしい。

 私は小屋の扉を閉めた。吹雪の音が少し遠くなる。

 荷物を降ろし、薪を組む。

 やっと帰ってきた。

 火打ち石を探そうとして、手が止まった。

 荷袋の奥に、小さな金属箱が入っている。

 王都で貰った火種の魔道具だった。

「使わないかもしれんぞ」

 そう言った私に、

『好きにしろ』

 荷運び人はそう答えていた。

 私は箱を手に取る。

「せっかくだ」

 小さく呟く。

 魔力を流す。

 かちり、と音がした。

 次の瞬間、小さな火が灯る。

 それを火口へ移す。

 乾いた草が赤くなり、細い煙を上げる。

 やがて薪へ火が移った。

 ぱちり、と音が鳴る。

「へえ、楽なもんだ」

 その音を聞いているうちに、不思議と王都のことを思い出した。

 市場の喧騒。

 農業ギルドの職員。

 倉庫へ遊びに来た子供たち。

 羊を眺めていた荷運び人。

 「長い半年だったな」

 私は暖炉の前へ腰を下ろした。

 外では雪が降っている。

 囲いからは羊たちの気配が聞こえる。

 ロウが近寄ってきて、当然のように膝へ頭を乗せた。

 重い。

 だが慣れた重さだった。

 私はその頭を撫でる。

 暖炉の火は静かに燃えている。

 王都でもらった火だ。

 そう思った。

 もちろん本当は違う。

 火はただの火だ。

 だが、あの街でもらったものが燃えている気がした。

「あそこも悪くなかったが」

 思わず声が出る。

 ロウの耳が少し動いた。

「やっぱりここが一番だな」

 返事はない。

 外では雪が降り続いている。

 暖炉の火が揺れる。

 私はその火を眺めながら、長い冬の始まりを迎えた。


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