氷の橋が溶けたので、王都で“夏じたく”を始めます。雪国の羊飼い、半年のスローライフ
氷橋が崩れていた。
大河の中央に黒い水面がのぞいている。岸辺近くにはまだ厚い氷が残っていたが、その先はもう駄目だった。流れに削られた氷塊が、ゆっくりと下流へ流れていく。
夏なら珍しくもない光景だ。
だが今は春の半ばだった。
早すぎる。
私はしばらく川を眺めていたが、どう見ても結果は変わらないので諦めた。
渡れないものは渡れない。
振り返る。
羊たちは川岸の草を食べていた。
こちらは帰り道が消えたというのに、連中は草の味の方が大事らしい。
だが、その姿を見ているうちに別のことが気になった。
毛だ。
冬の間に伸びた厚い毛が身体をひと回り大きく見せている。
雪国では頼もしい。
だが王都の春は違う。
数頭が口を開けていた。
呼吸も少し荒い。
暑がっている。
私は空を見上げた。
薄い雲。
強い日差し。
今年は雪解けも早かった。
これからもっと気温は上がる。
帰れないことより、そちらの方が問題だった。
「参ったな」
思わず声が出た。
羊たちは聞いていない。
一頭だけが顔を上げ、口いっぱいの草を咀嚼しながらこちらを見た。
「王都へ戻るぞ」
返事はない。すぐに足元の草をまた口に詰め込み始めた。
代わりに牧羊犬のロウが耳を立てた。
「まず毛刈りだな」
三十七頭。
一頭も落とすわけにはいかない。
「今日から餌を少し減らすぞ」
毛刈りの前に腹を軽くしておいた方がいい。
長く座らせることになる。
腹が張っていると苦しい。
群れの端にいた古株の雌羊が顔を上げた。
「メェェ」
不満そうな声だった。
「文句は聞かん」
頭を撫でる。
「おまえたちのためだ」
羊は鼻を鳴らした。
納得していないらしい。
私は苦笑した。
やることは決まっている。
王都へ戻る。
毛を刈る。
涼しい寝床を探す。
冬まで羊を守る。
氷橋は消えたが、仕事はむしろ増えている。
◇
王都へ戻る道は暑かった。
「おかしいな。この王都は冬のある街だろうに」
春の半ばだというのに、まとわりつくような湿気がひどい。
何頭かの羊が口を開けて歩いている。
「街なら水売りも居るだろ。ここじゃ何もできねぇからな」
そう言いながら歩く。
羊たちは相変わらず返事をしない。
だが群れは崩れなかった。
ロウも時々振り返りながら最後尾を確認している。
王都の城壁が見えた時には、私も少しほっとしていた。
城門をくぐる。
白い石畳が陽光を跳ね返した。
雪原とは違う眩しさだった。
思わず立ち止まる。
背中に冷たい感触が当たった。
振り返る。
一頭の羊が濡れた鼻先を押し付けていた。
「ああ、悪い」
私も少しぼーっとしていたらしい。
「先に用事を済ませる」
羊は興味を失ったように顔を逸らした。
◇
まず向かったのは商人ギルドだった。
毎年羊毛を売っている。
顔見知りもいる。
建物の裏の日陰へ羊たちを待たせ、私は受付へ向かった。
「帰ったんじゃなかったのか」
顔馴染みの職員が言った。
「そのつもりだった」
「何があった」
「氷橋が消えた」
「ああ……」
男は汗を拭い、納得したように頷いた。
「今年は確かに溶けててもおかしくないな」
「異常だ」
私は荷車を指差した。
「それと追加だ」
積まれた羊毛を見る。
王都へ戻る途中、休憩のたびに数頭ずつ刈った毛だ。
「もう毛刈り始めたのか?」
「ああ」
男は追加の羊毛を見た。
「短いな?」
「伸ばしてる途中のはずだったからな」
窓の外を見る。
日陰で休む羊たちはまだ冬毛のままだ。
暑そうだった。
「刈らなきゃ、あと一月もしたら弱る」
男は荷車へ近付いた。
羊毛を手に取る。
少し考える顔になる。
「もったいないな」
「だろうな」
私もそう思う。
毛足が短い。
本来ならもっと伸ばしたかった。
あと二月も育てれば値段はかなり違っただろう。
だがそんな話ではない。
羊は生きていなければ毛を生やせない。
「全部刈るのか」
「全部だ」
「赤字になるんじゃないか」
「なるな」
男は笑った。
「お前らしい」
「それより聞きたい」
「なんだ」
「羊を置ける場所だ」
◇
その日の午後には市場広場の一角を借りて毛刈りを始めた。
地面は平ら。
水場も近い。
悪くない。
私は最初の一頭を座らせた。
首の下へ腕を入れ、重心を崩す。
押し倒さない。
立ち上がれない角度へ導く。
羊は尻を地面につけた。
私は鋏を開く。
まず腹。
毛ではなく皮膚を見る。
左手で皺を伸ばしながら刃を入れる。
しゃっ。
毛が剥がれる。
もう一度。
しゃっ。
同じ長さ。
同じ角度。
同じ速さ。
急がない。
急いだ鋏は羊を傷付ける。
腹、胸、首、肩……
順番を変えない。
何年もそうしてきた。
しゃっ。
しゃっ。
鋏の音だけが続く。
あまり毛を伸ばせていないとはいえ元が長毛だ。
やがて大きな一枚になって垂れ下がった。
最後の一刈りを終える。
「終わりだ」
羊を立たせる。
羊は身体を震わせた。
細かな毛が舞う。
そして小走りで群れへ戻っていった。
足取りが軽い。
それを見て少し安心した。
◇
毛刈りには三日かかった。
三十七頭。
簡単な仕事ではない。
市場へ来る人々も足を止めた。
「器用だな。魔法は使わないのか?」
「使わない」
「そっちの方が楽だろう」
「羊にはこっちの方が楽だ」
そう答える。
皮膚を見る。
傷を見る。
虫を見る。
湿疹を見る。
毛の下を確かめる。
鋏を使う理由はそれだけで十分だった。
最終日。
最後の一頭を送り出した時には、羊たちの様子は見違えていた。
呼吸は落ち着いている。
口を開ける羊も減った。
この分なら羊たちも少しの間なら平気だろう。もともと丈夫な奴らだ。
これでひとまず暑さは凌げる。
◇
次に必要なのは寝床だった。
王都の建物は羊を飼うようにはできていない。
だが商人ギルドの紹介で、東倉庫街に空き倉庫を見つけた。
古い穀物倉庫だった。
壁は厚い。
天井も高い。
窓を開けると空気が流れる。
何より広い。
三十七頭が寝転んでも余裕があった。
「ここなら大丈夫だな」
羊たちを中へ入れる。
しばらく歩き回った後、それぞれ好きな場所へ落ち着いた。
ロウも入口の近くへ寝転がる。
どうやら気に入ったらしい。
◇
王都の夏は長かった。
倉庫を借りてからの日々は、思ったより忙しかった。
朝は日の出前に起きる。
最初の仕事は掃除だ。
寝藁を集める。
夜の間に溜まった糞を拾う。
三十七頭分ともなると馬鹿にならない量だった。
糞と汚れた藁は荷車へ積む。
捨てるわけではない。
週に一度、農業ギルドへ持っていく。
羊が食べた草は、また草になる。
雪国なら暖炉替わりに家で発酵させていたのだが、炎天下の倉庫でやることではない。
掃除が終われば水桶を洗う。
夏の水はすぐ悪くなる。
井戸まで往復し、何度も水を運ぶ。
その頃になると羊たちも起き始める。
私は群れを見回す。
食欲。
歩き方。
呼吸。
耳の動き。
毎日同じことを見る。
だが同じ日は一日もない。
それが仕事だった。
ようやく私は思った。
帰れなくなったのではない。
半年だけ、ここで暮らすのだと。
王都の夏は長かった。
雪国では昼でも涼しい風が吹く。
だが王都は違った。
朝から石畳が熱を持ち、夕方になってもなかなか冷めない。
それでも羊たちは元気だった。
毛を刈り、寝床を確保し。
そして毎日様子を見ていた甲斐があった。
◇
週に一度、私は農業ギルドへ行った。
荷車には糞と汚れた寝藁が積まれている。
最初は奇妙な目で見られた。
「何を運んでるんだ?」
「羊糞だ」
「捨てるのか?」
「売る」
そう答えると大抵同じ顔をされた。
冗談を聞いたような顔だ。
だが農業ギルドへ着くと話は違う。
「来たか」
職員が荷車を見る。
「今週分だ」
「助かる」
慣れた様子で受け取る。
春野菜を育てる畑や、城壁の外の農地へ回されるらしい。
私は詳しく知らない。
羊を育てるのが仕事だからだ。
だが少しばかりの金にはなった。
干し草代くらいにはなる。
「羊ってのは便利だな」
職員が言う。
「毛も売れる。糞も売れる」
「本人たちは草を食ってるだけだがな」
職員は笑った。
◇
夏の盛りになると、倉庫へ来る人が増えた。
最初は毛刈りを見ていた子供たちだった。
そのうち商人も来るようになった。
荷運び人も来る。
何をするでもなく入口から羊を眺めて帰る。
「何が面白いんだ」
私には分からない。
「落ち着くんだよ」
荷運び人はそう言った。
「草食ってるだけだろ」
「それがいいんだ」
そう言われてもよく分からなかった。
羊は草を食べる。
反芻する。
寝る。
また草を食べる。
毎日見ている私には当たり前の光景だった。
だが人は見に来る。
暑い日ほど多かった。
倉庫の中が少し涼しいからかもしれない。
◇
夏の終わり頃。
荷運び人が倉庫へやって来た。
その荷運び人は時々手伝いもした。
井戸で顔を合わせれば、水桶を一つ持ってくれる。
農業ギルドへ糞を運ぶ時、荷車を押してくれることもあった。
礼を言えば、
「ついでだ」
と返される。
本当にそうなのかもしれない。
荷運び人は忙しい。
長話をすることもなかった。
ただ気付くと倉庫にいて、羊を眺めて帰っていく。
そんな男だった。
いつものように入口へ腰を下ろす。
羊たちは反芻している。
ロウは昼寝をしている。
「静かだな」
「いつもだ」
「そうだった」
男は笑った。
しばらく二人で羊を見ていた。
会話はなかった。
だが不思議と気まずくもなかった。
◇
「ねえ、この羊さん名前はないの?」
子供に聞かれた。
「ない」
「え?」
「ない」
「一頭ずつつけないの?」
「三十七頭だぞ」
私が言うと、子供たちは顔を見合わせた。
確かに無理だと気付いたらしい。
「ああ、あいつにはあるが。」
そういってロウを指差してみたが、子どもたちは羊たちに興味深々なようだ。
「羊さんの見分けつくの?」
「つく」
私は群れの端を指差した。
「あれは左耳が欠けてる」
次を指差す。
「あれは一番食う」
また別を指差す。
「あれは歩くのが遅い」
子供たちは目を丸くした。
だが毎日見ていれば分かる。
名前がなくても分かる。
それは羊飼いなら当たり前のことだった。
やがて子供たちは勝手に呼び始めた。
「大食い!」
「左耳!」
「のろま!」
羊たちは少し耳を子供達の方へ向けたが、そのまま口を動かし続けていた。
◇
生活は少しずつ形になっていった。
朝は掃除。
水替え。
群れの確認。
昼は休む。
羊も休む。
ロウも休む。
倉庫の中では反芻の音しかしない。
外では市場の喧騒が続いている。
商人の声。
荷車の音。
鍛冶屋の槌音。
だが倉庫の中だけは別の時間が流れていた。
私はその時間が嫌いではなかった。
◇
夏の終わり頃だった。
朝、水桶へ手を入れた時に違和感を覚えた。
冷たい。
ほんの少しだが、夏とは違う。
私は空を見上げた。
雲が高い。
空も深い。
羊たちを見る。
食欲が戻っている。
夏の間は残していた干し草を綺麗に食べていた。
毛も少しずつ伸びている。
「来るな」
思わず呟く。
ロウが顔を上げた。
尻尾を一度振る。
秋だった。
◇
王都の人々はまだ暑いと言っていたが、私には懐かしい気配が感じられた。
水。
草。
毛。
呼吸。
群れ。
そういうところに先に現れる。
私は少しずつ帰り支度を始めた。
倉庫を掃除する。
道具を整える。
干し草を減らす。
冬は遠くない。
◇
氷橋が再び凍ったという知らせが来たのは、それから一月ほど後だった。
商人ギルドの職員が倉庫へやって来た。
「帰れるぞ」
その一言だった。
私は頷く。
「そうか」
「驚かないな」
「そろそろだと思ってた」
羊たちを見る。
冬毛が伸び始めている。
今年も冬が来る。
それだけのことだった。
◇
王都の門へ向かう前。
荷運び人が人混みをかき分けてやって来た。
「帰るんだってな」
「ああ」
「寂しくなるな」
私は羊たちを見た。
「羊がか?」
「倉庫がだ」
男は肩をすくめた。
「静かで良かったんだよ」
そう言って、小さな箱を差し出してきた。
「餞別だ」
「なんだこれ」
「火種の魔道具」
手のひらに収まる金属箱だった。
「高いだろ」
「王都じゃみんな持ってる」
男は笑った。
私は箱を見た。
火打石なら持っている。
本来なら必要ない。
だが返す理由も思いつかなかった。
「使わないかもしれんぞ」
「好きにしろ」
「そうか」
それだけ言って荷袋へしまう。
男もそれ以上は何も言わなかった。
羊たちが歩き始める。
ロウが前へ出る。
私も続く。
「じゃあな」
振り返らずに言った。
「ああ」
返事はそれだけだった。
出発の日。
思ったより多くの人が集まっていた。
農業ギルドの職員。
荷運び人。
商人。
子供たち。
「もう帰るのか」
「帰る」
「左耳、元気でな!」
よく訪ねてきた子供の1人が叫んだ。
「来年も来るのか」
「羊毛は売るからな」
そう言うと皆が笑った。
それで十分だった。
大袈裟な別れはいらない。
半年暮らしただけだ。
だが半年も暮らした。
それだけの重さはあった。
◇
王都を出る。
羊たちが歩く。
ロウが先頭へ出る。
私も続く。
見慣れた街道を進む。
冷たい風が吹いていた。
半年ぶりに感じる故郷の匂いだった。
◇
氷橋は戻っていた。
白く。
厚く。
静かに。
春に見た黒い川面はどこにもない。
私は足元を確かめる。
問題ない。
羊たちも迷わず進んでいく。
雪国で生まれた羊だ。
この景色を知っている。
ロウも先を歩く。
氷の上で振り返り、群れを確認した。
その姿を見て少し笑った。
半年経ってもやることは変わらないらしい。
◇
私は小屋の扉を閉めた。吹雪の音が少し遠くなる。
荷物を降ろし、薪を組む。
やっと帰ってきた。
火打ち石を探そうとして、手が止まった。
荷袋の奥に、小さな金属箱が入っている。
王都で貰った火種の魔道具だった。
「使わないかもしれんぞ」
そう言った私に、
『好きにしろ』
荷運び人はそう答えていた。
私は箱を手に取る。
「せっかくだ」
小さく呟く。
魔力を流す。
かちり、と音がした。
次の瞬間、小さな火が灯る。
それを火口へ移す。
乾いた草が赤くなり、細い煙を上げる。
やがて薪へ火が移った。
ぱちり、と音が鳴る。
「へえ、楽なもんだ」
その音を聞いているうちに、不思議と王都のことを思い出した。
市場の喧騒。
農業ギルドの職員。
倉庫へ遊びに来た子供たち。
羊を眺めていた荷運び人。
「長い半年だったな」
私は暖炉の前へ腰を下ろした。
外では雪が降っている。
囲いからは羊たちの気配が聞こえる。
ロウが近寄ってきて、当然のように膝へ頭を乗せた。
重い。
だが慣れた重さだった。
私はその頭を撫でる。
暖炉の火は静かに燃えている。
王都でもらった火だ。
そう思った。
もちろん本当は違う。
火はただの火だ。
だが、あの街でもらったものが燃えている気がした。
「あそこも悪くなかったが」
思わず声が出る。
ロウの耳が少し動いた。
「やっぱりここが一番だな」
返事はない。
外では雪が降り続いている。
暖炉の火が揺れる。
私はその火を眺めながら、長い冬の始まりを迎えた。
面白かったら評価、感想など頂けると励みになります。




