レジー博士の研究日誌 〜『魔性は満月を好む』という説について〜
「うわ。見ろよ、レジー」
不意に弾けた声に、レジーはハッとして傍らへ視線をやった。
アンブロシウスが、苦い表情で夜空を見上げているのが、視界に映る。
用事のために宿舎も兼ねる研究所を出た、その道中でのことだった。
「お前はいつも唐突だな。アンブロシウス」
アンブロシウスは、騎士学校でレジーと同期だった男だ。当時、女の身で騎士を志すレジーを快く思わない者も多かったが、アンブロシウスはレジーを仲間ともライバルとも認めてくれていた。
その記憶は、騎士ではなく研究者として身を立てるようになった今も、レジーの胸にあたたかな灯を燈している。
「そうか? いやだって、月がさあ……」
「ああ。今日は『魔物の月』の日だな」
零して、レジーも、濃紺の空に浮かぶ丸い月を見た。
煌々と、月は迫るように光っている。
欠けるところのない月を、コラン王国では、『魔物の月』と呼んで忌み嫌う。
満月の夜には、あちらこちらに人の理を外れたモノが現れて、人々を惑わすからだ。
「やだよなあ、ほんと。気味が悪くってさ」
「そうか。私は、嫌いじゃないが」
「へ? そうなの?」
月から隣の相手へと眼差しを移せば、アンブロシウスは、きょとりと目を丸くしていた。兎角、表情豊かな男である。
レジーは仄かに笑むと、アンブロシウスへと、のんびりと声を投げた。
「特異に聞こえるかもしれんな。だが、コランの民にとっては魔性を惹きつける不吉の象徴でしかないあの丸い月を、東方の国では、愛でる習慣すらあるそうだ」
「マジかー。ええと、それは邪教の類ではなく……ってことで合ってる?」
「合ってるぞ。貴人から民草まで、あの月の下、酒や甘味を味わったりするらしい」
「へーっ」
アンブロシウスが、感心したような声を漏らす。それから、
「じゃあ、その国じゃ、満月の晩に魔物が増えたりもしないのか?」
と、尋ねた。
「良い質問だな。答えは『しない』だ」
「何故?」
「これはまだ仮説の域を出ないが……人の想いが、事物事象に力を与えるのではないかという研究がある」
つまり、レジーたちの国の人々が満月を忌み嫌っているが故に、満月は魔性を喚ぶ力を帯びる。また、東方の人々が満月を愛し親しんでいるからこそ、彼の国では満月の光は祝福となるのだと、そういう説が昨今は有力になりつつあるのだ。
その旨を、レジーはかいつまんで説明した。
「へええ……」
「何だ、その情けない声は」
「いや、何かさ。世界って広いんだな。俺の知らないことが、まだまだ、いくらでもある」
大真面目な顔で、アンブロシウスが零す。
頭上の月を見遣る深緑の瞳をそっと目に映せば、レジーの口元は、また、ふっと緩んだ。
「満月に抱く感情が変わったか?」
「うーん。みんながアレを好きになったら、この国でも、満月の夜、魔物に困らされることもなくなるんだろうけど。でも、知識が増えても、そう簡単に気持ちはついてこないなあ」
腕を組んで考え込むアンブロシウスへと、レジーは、
「お前はそれでいい」
と、笑みを向けた。
そうして、アンブロシウスの腕をぐいと引き――近づいた彼の頬に、口付けを落とす。
アンブロシウスの双眸が、大きく見開かれた。
その唇が、何か音を紡ごうと動きかける。
しかしそれを成す前に、彼の姿は、夜闇に溶けて儚く消えた。
後に残ったのは、レジーと、レジーを見下ろす満月だけ。
「……それでいいんだ。お前はそのまま、満月の下は魔物の蠢く世界だと信じていてくれ。何年でも、何十年でも」
そうであれば、レジーは、遙か過去に失った恋人と、何度だって言葉を交わすことができる。わざわざ供もなしに、不吉の夜に出歩く甲斐もあるというものだ。
「……しかし、魔物の頬というのは嫌に冷たいものなんだな。新発見だ」
レジーはひんやりとした感触が残る唇を指で拭ると、愉快になって、淡く喉を鳴らした。
そしてそれきり身を翻すと、今来たばかりの、研究所へと繋がる道を、緩やかになぞり始めた。




