燻る想いを煙に巻き
煙草が好きだ。
煙が立ち上るから。煙を、体内に目一杯取り込むことができるから。
銘柄だとかは、よくわからない。煙が出るなら、何だってよかった。
ただ、空から怒られているような気がして、せめてもと、有害物質が少ないと謳うものを買っている。
――すまない。ごめんよ。
雲を見つめるのも、好きだ。血が通っていないはずのそれは、自然の悪戯によって、鴎やら海豚やらとして命を吹き込まれる。
ああ、いや。彼女は、雲を美味しそうだと言ったかな。
「綿菓子、唐揚げ、目玉焼き!」
頭には、そう聞こえた気がした。その声の輪郭は白色の絵の具で描かれていて、はっきりしない。
――早い。早すぎる。
しかし、理論以外を考えられない私の脳では到底浮かばない、彼女の突飛な発言であるのは、疑いようがなかった。
どれも無作為に凹凸の付いた形状という点で、雲とは共通している。ただ、目玉焼きというのはおもしろい。三次元の雲を見て、その陰影を全く無視し、平面的なものへと発想を飛ばせる柔軟さに、感心する。
――こんなことしてばかりだから、愛想を尽かしたのかな。
それで、煙草を吸うようにしてから、雲を久しく見ていないのを思い出した。
私は、天井に描かれたその絵を見ようと、無意識に面を上げた。
今日のキャンバスは、ブルーの絵の具で、斑もなく塗りつぶされていた。
* * *
彼女は、天賦の才と慈悲を持って生まれた。
私は、天賦の美形と狂病を持って生まれた。
私は、狂人と呼ばれ続けた。
物事が覚えられない。人と関わるのを嫌う。殆どに興味を向けないくせして、好む物には熱中する。気づけば思案に耽り、誰かが体を揺するまで、一切の動きを止める。突拍子もなく行動するうえ、行動の事由は理解できない。
私が"贄"とも"死産"ともならなかったのは、彼女が私を欲したからだ。
私の意思などどうでもよいが、私が消えることで、彼女の方がおかしくなってもらっては困る、というのが村の総意だった。
村は困窮していた。だから、能力のある娘をお役所か良い所の嫁に出して、取り計らいを得ようと画策していた。
その目論見は、幼いとき、彼女が私の美貌に惹かれてしまったせいで破綻した。興味のあることにのみ無駄な思考力を発揮し、生を享けて暫く共に過ごしても、彼女の名前すら碌に覚えていなかった私に、彼女はどうしてか好意を感じてしまった。勘違いしてしまった。
――あれほど小さくとも、人は美しさに惹かれるものなのか。
彼女の完全無欠を否定する唯一の、そして最大の論拠が、これである。
それからというもの、私はその美しさで、どこかの良家の女を引っ掛けることを期待された。そして、彼女から離れるようにと。
その期待を逆手に取り、私は交流を増やすという名目のもと、帝国大学へ進み、哲学を専攻した。
その頃、彼女はというと、私の思考を理解したいと入った女学校を出た後、女流詩人として名を馳せていた。私と彼女の関係を知らないはずの師からも、「この詩は優れているから、君にも読んでみてほしい」と薦められるほどに。
文学と近しいものを学んでいた私には、彼女はひどく遠くへといった、私を越えた存在のように感ぜられた。
――文通の一つもないから、漸く飽きたのかと思ったのだが。
しかし、盆に私が村へ赴くと、彼女は変わらぬ屈託のない笑みで、私に問いかけるのだ。
「ねえ、麗次郎さん。わたくし、頑張っていますのよ? ご存知ですか?」
と、細君ぶって、冗談めかして。
見合いはしたのかと問えば、全て断った、と。
想う人は居らぬのかと問えば、あなたです、と。
詩詠の調子はどうかと問えば、あなたを養うことすらできます、と。
私は出来が悪いと言えば、全部がそうではないでしょう、と。
――どうして、君は、私にそれほど都合の良いことを……
甘言ばかりを口にする彼女に、私も村の皆も折れた。
彼女は努力を認められ、私との婚姻が許された。ここでもまた、彼女の精神が第一の決定であった。
問題は続く。彼女は、嫁入りがしたいと言った。
しかし、私の家は、村の中でも随一の貧困だった。
私の名からも分かるように、私には兄がいた。もっとも、私の首が据わる前に死んだが。
やはり兄もまた、たいそうな美人だったらしい。
――君が兄に恋していれば、と呟いたとき、君は一食作ってくれなかったね。
兄は、日本語が話せるようになる頃、流行病に罹った。両親はどうにか生かしたいと、その治癒に多額を費やすも、敢え無く病は身体を侵し、無一文の家のみが残った。
では、私がどう育ったかといえば、彼女の家が乳母のように援助を施したことで、何とか生き存らえた。
それを知らぬのか、はたまた忘れたのか。彼女は我儘を言った。私の家の姓が名乗りたい、世間ではそれが常だろうと両家を詰り、彼女は私の嫁となった。私が大学を出た頃の事だ。
――実を言うなら、歓喜していた部分もあったよ。なにせ、唯一の理解者であったのは、間違いなかったから。
事実、それでも生活は困らなかった。彼女の刊行物の利益に与れば、私は食っていけた。
私は、痛むことは覚えていた良心を活かし、職を得ようと、地方政治を別に学び始めた。
――数字をどう動かすか。それは一種の遊戯のようで、嫌いではなかった。
その後、戦が訪れた。村の属する県に、内陸の隣県が、海の幸を狙って攻め込んできた。
狂っている私は、徴兵対象外となった。女に養われ、男の戦う義務も果たせない、全くの能無しは、恥どころではなかった。
――私は、とっくに何も感じなくなっていたけれど。
それでも彼女は、私を庇った。朝、新聞には彼女の詩が掲載されていた。
…………
何故戰フ
何ヲ目指シテ
何故嗤フ
戰ハズヲシテ
女幼子 不能ノ者
彼等価値無キ 誠ナリヤ
…………
平常の彼女の詩よりも、直接的で、訴えかける内容であった。
一見すると、流行りの女性の社会進出を訴求するものに聞こえたが、村の人間は即座に「不能の者」に私が含まれていると考えたらしい。
彼女が見捨てれば、村は取り付く島もない。彼女が客を呼ぶために、皆が食い繋げる程度には、村は儲かっていた。
そんな彼女を慮って、私への直接の侮辱は減った。
――代わりに、私の方には、君への陰口が目立って聞こえたけれど。
私は、政治を粗方学ぶと、適当な役所へ入れられた。彼女には到底及ばぬが、給金は得られるようになった。
尤も、私の、人を数値に換算するやり方を受け入れられた者は極少数であり、持ち前の狂病と合わせて、蛇蝎のごとく嫌われ、各地を転々とする羽目となった。
――やはりこれにも、大した感情は湧かなかった。
空っぽの池がある。振り続ける慈雨がある。
池には水が溜まり、溜まり、溜まり続ける。池底がそれを糧にせんと、じっくりゆっくり吸収する。その速度を上回って、雨滴は水面を揺らす。
いずれ、耐えられなくなった池は、涙を湛える。慈悲は、気にも留めずに降り注ぐ。そうして、池は決壊する。
池は泣く。天の憐憫を、恩情を、受け止め切れないのが慚愧に堪えず、貯水を溢れさせてしまう。最早それが、慈悲かどうかも、分からないまま。
しかしある時、雨雲は一挙に押し除けられた。忽然とそれは抹消されて、消え失せた。
池は、白日のもとに曝される。遮るものは何もなく、慈悲を受けることもない。
水は、只管飛び続ける。それまでの慈悲は、幾ら貯めようと蒸発し、無に帰す。
空っぽの池が、ある。ただ、それだけがある。
彼女の施しは、私には合わなかった。
――それでも、彼女の想いは。彼女への想いは。
在りし日、彼女は、幾つも書いた詩を纏め、詩集として出版するのだと息巻いて、雨の降る中、朝、街の方へと発った。
私は、昼に役所を移るための手続きを、先方でする手筈だった。彼女を見送り、家を出ようと傘を取ったが、丁度良いことに日が出始めた。
役所は、騒然という言葉がよく似合う有様であった。何やら、浪人の末裔が現れたらしい。斬り付けられた女は、脈が止まったのを確認したという報せも入った。裏口から、士族が続々と飛び出していくのが見えた。
立ち尽くしていた私は、また後日に書簡を出すとだけ言われ、村に蜻蛉返りすることとなった。
帰った村までもが、五月蝿かった。私を指さす者が居たが、気にせず家まで戻った。
彼女の雇った下女に、何があったと問うて、私はこの時、初めて絶句というのを体験した。
「お、奥様が、あ、が……」
「落ち着きなさい。慌てることはありませんよ」
「……奥様が、天へと昇られた、と……」
「……何?」
「首を、斬られて……見るも無惨にと……!」
――私は、猛烈に後を追いたかった。下女にせがまれ、命は繋いだが。君は、褒めてくれるかい。
翌日、新聞には、高名な若き詩人の死が一面に取り上げられた。
翌々日後、私のもとには、彼女が世話になっていた出版社のお偉いさんが来て、彼女の遺作となった詩集の原稿について相談があった。私は、最後に見た彼女の吊り上がった口角を思い出し、それの刊行を快諾した。
その三日後、火葬があった。私が、それ程惨い死に方なら、見れたものじゃない、と断ったため、遺体は目にしていない。
棺が運ばれ、人が飛び入るはずがない烈火に包まれる。
あの中に、彼女がいる。そう思った途端、信仰の類いに興味のなかった私でも、火に向かって、祈りを捧げなければ気が済まなかった。天国地獄がどうではない。
どうか、彼女が、今までの人生を、楽しめていますように。
私が生きている時点で、叶う筈もない願いが、もし叶っていればと、そう祈った。
目を開け、何となく上を向いた。今日の雲はどうかな、と思い出して。
空は、真っ青な雲のない快晴だった。
しかし、何もないわけではなかった。
煙が。火葬の煙が、燻っていた。
彼女が、天に昇っている証左だ。煙が、彼女なのだ。
憐れみと、蔑み或いは嘲笑を受けた後、何とも言わず、私は街へ出た。
道草食わずに煙管を買って、帰宅した。
下女は、彼女の遺産で雇い続けられた。私は、何も出来ないから。彼女がいないのなら、より一層。下女の方も、それを望んだし、世間に言われるほど腐っていないと、私のことを評した。
幸い、その下女は、まだ葬儀場で泣き喘いでいるだろう。
私は、窓も戸も全て閉じ、いそいそと煙管を咥えた。
私は、彼女の遺体を見なかった。私にとって、彼女は煙となった。
生前、狂った子を産ませるわけにはいかないと思い、彼女と媾うことはなかった。彼女は、何も言わなかった。
しかし、私は、生殖器までもが狂っているわけではなかった。無論、彼女もだ。
帰宅すると、妙に火照った顔の彼女が出迎えたり、夜中に嬌声が聞こえたり。逆もまた然りだ。
しかし今、私の手には、彼女がある。無抵抗の、何をしようと、怒られも蔑まれも悲しませもしない、私だけの彼女が。
彼女を、体内に取り込む。出来るだけ多く、己の限界まで。
それを、何とか嚥下する。しかし、鼻から息が漏れ、同時に激しく咳き込んだ。
そして、部屋に煙が立ち込めた。
彼女は、傍にいる。彼女は、いつでも、私の近くにいる。
――私は、君に誑かされたようだ。君が欲しい。君が居なければ、私は、私ではない。君のために、この命を生かすのだ。
うっとりとしていると、瞼が重くなった。
――君がどこか、私のわくわくする所へ、連れていってくれるのかな。
そこで、肌を刺す北風が吹き込み、煙が逃げた。戻った下女が私を呼んでいたのに、気づいていなかったらしい。
――君との時間を、邪魔されたようだ。まあ、いいさ。だって、君は、どこにでも居るんだから。この煙管さえあれば。
* * *
それからというもの、私は煙草を吸い続けた。彼女が居れば、大概のことは耐えられた。
そして今日――彼女の一周忌――、見上げた空は、あの日と同じ、全くの快晴であった。
私は仕事が安定し始め、下女に頼まれ、再婚した。
私としては、手慰みのようになってしまうと思ったが、下女はそれでもいいらしかった。
結局、未婚の女性と、二人きりで同じ宿、というのも外聞が悪く、彼女の遺産を使わなくてもよくなるため、私は諾した。生活も、会話が増え、閨を共にした以外は、特に大きな変化はなかった。
私は、空を見て、君に何も返せていないのを思い出した。煙草を吸って、頭がおかしくなったのか、忘れてしまっていた。
ゆっくりと、煙を吹き出し、君を思い出す。
そうだ。君に倣って、詩でも詠もう。
決して、上手くはないだろう。君に教わっておけばよかったかな。
しかし、君には一番、想いが伝わるような気がするから。君だけに、私の最も素直な感情を。
けさは寒さが 落ち着いた
むらさき色の すみれを探そう
りんとした声 君の声
でしたら私が ご一緒します
なかなかどうして 上手くいかない
いやいやまったく よくやっています
あなたを頼りに しています
なかなかどうして それが嬉しい
たなびく雲を 共に見上げ
がらくたしかない そう思ったが
こどものように 燥ぐ君
いたい程の拍 胸に響いた
しずかに慈雨が 当たった背
いまだ息を続ける 君に祈り、何も為せずとも
下女が、私の肩を叩いた。叩いた逆の手には、菫があった。
墓に菫を供え、線香を焚き、煙が上った。
私は瞑目し、彼女に詩を贈った。




