ナサニエルが望むもの
私に関わると途端に残念になるアレス殿下だが、基本的には聡明な御方だ。裏取りもろくに行わずに虐めを行ったと決めつけて、公衆の面前で責め立てるような真似は、普段ならば絶対に行わない。
にも関わらず、殿下が定期的に醜態を晒してしまうのは、押し殺して来た幼児性の発露でもあり、ある種の自傷行為であり、私に対する試し行為でもある。
10年経ってなお、アレス殿下の心の奥には、自分には何も価値がないと言った、6歳の幼い殿下が住み着いている。
自分に価値がないと思うから、女生徒に人気があって価値があるように見える私に、嫉妬する。
自分に価値がないと思うから、そんな自分の婚約者という立場から私を解放せねばと思う。
だから些細なことを口実に、婚約破棄の宣言をするけれど、その癖私が婚約破棄を受け入れることには怯えているのだ。ひどい理由で婚約破棄を宣言したのにも関わらず、笑って受け止めて、断る私を見て安堵している。
「……本当、難儀な御方だ」
そして殿下はきっと、こんな茶番ができるのは学生のうちだけだと言うこともわかっている。
この貴族学園では、身分は関係なく生徒は皆平等。その建前を盾に、生徒は束の間家名の重さを忘れて、子どもでいられる。
このような子ども社会での多少のやらかしくらいならば、軍務卿という偉い立場にいる第二王子は、足を掬う材料にはできないだろうからこそ、殿下もこんなことができるのだ。
子どもの失敗を鷹揚に受け止めることがなく、鬼の首を取ったかのように責め立てる大人は、それだけで評価が下がるから。少なくともプライドの高い第二王子は、そんなみっともない真似はできないだろう。
「うちの弟が学園でこんな失態をしでかしてね。いやはや困ったものだ」
と、良識のある兄のふりをして、殿下の悪評を広めようとしたところで。
「でも婚約者であるナサニエル様がお許しになっているようですし」
「公務は立派にこなされていると聞きますし、学園にいる間だけ羽目を外されているだけなのでは? 卒業したら、きっとそのようなこともなくなりますよ」
と、返されるのが関の山だ。学園の規則に反する行為をしたならともかく、公の場で婚約破棄宣言をしてはいけないなんて馬鹿な規則はないしね。
事実アレス殿下の奇行は、学園の生徒にはある種の娯楽、ショーのようなものとして受け入れられている。私がそういう空気になるように誘導したと言うのも、大いにあるけれども。誰も本当に殿下が婚約破棄を望んでいるだなんて、思っていない。
そして卒業して魑魅魍魎蔓延る王宮で本格的に働くようになれば、殿下はきっぱりとおかしな行動を取るのを辞めるのだろう。人目がある場所では私に対しても、模範的な第三王子として、婚約者に向ける態度を取るようになるはずだ。
だが、そうなったら、殿下の中の幼い殿下はどこに行く?
消えることもできないまま、殿下の心の奥底で押しつぶされて、決して来ることがない助けを求めて一人悲鳴をあげることになるのではないか。
「だから私はそうなる前に、殿下を過去から解放してさしあげたいのですよ」
その為に殿下を肯定し、殿下の全てを受け入れて、殿下を褒めそやし、殿下には価値があるのだとずっと刷り込んできた。それなのに殿下は、ちっとも変わってくれない。自分の価値を信じてはくれない。
「……そんな頑なな殿下も、愛らしくはあるのですけれどね」
幼いあの日と変わらない表情で寝息を立てる殿下の頬に、そっと手を当てる。
手に頬を擦り寄せて、眠りながら微笑んだ殿下の姿に、胸がきゅっと締め付けられた。
私が殿下に向ける感情には、大いに恋情が含まれているけれど、殿下から恋情を返してもらいたいとは思わない。
私はアレス殿下の婚約者となる前に、騎士になることが定められていたから。殿下の足枷になるというのなら、切り捨てられるくらいがちょうどいい。
私が殿下に望む感情は、ただ一つ。
「……アレス殿下。ナサニエルは、殿下のことを裏切りません。ずっとずっと殿下のおそばにおります。だからどうか、どうかナサニエルを信じてください」
望むものは、ただ一つ。
アレス殿下の、心からの信頼。
殿下が、私が傍にいるから淋しくないと、孤独感から解放されて。
何があっても私が守ってくれると、安心感を抱くことができて。
過去から解放されて、前に進むことができるのなら、私の恋は一生片思いでも構わない。
公私共にアレス殿下を支えて守ることが許されるのなら、殿下の御心は別の女性にあったとしても、殿下に害を与える相手でなければ、それはそれで別にいい。
初めて出会った時に、誓ったのだ。
この御方を主と仰ぎ、剣を捧げようと。
この御方を一生守り、支えようと。
その気持ちは、今も変わらず私の胸にある。
「だからアレス殿下も、いい加減私を突き放すことを諦めてください」
起きている殿下には語るつもりのない本音を口にしながら、ちょっとした意地悪心で、殿下の形の良い鼻を軽く摘む。
眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をしながらも、起きる様子がないアレス殿下が愛らしくて、私は空を仰いで一人笑った。
たまらなく、幸福な時間だった。
「ーー起きてください。殿下。お約束のお時間ですよ」
「……ん」
きっちり半刻を待って、アレス殿下を揺り起こすと、殿下は烟るような金のまつげを瞬かせて、目を覚まされた。
「……少し、頭が軽くなった気がする」
「なら、ようございました。夕方の公務も、がんばられてください」
「ん……」
あどけない子どものような仕草で目をこするアレス殿下にほんわりしながら、そのお姿を心の日記帳に焼きつけていると、何故か殿下が突然口をへの字にして苦々しい表情を浮かべた。
「……どうなさいました? 殿下」
「そう言えば、お前。来週は野外演習があるのだろう」
「はい。それがどうなさいました」
「その……これを」
顔をこちらに向けないまま、殿下が差し出すのは謎の包み。一体何だろうと思いつつ、中を開くと、テントの周りに設置する結界の魔道具が現れた。
「これを……私に?」
「その……お前も一応女だからな。他の男と共に寝泊まりをするなら、こういったものがあった方が良いだろう」
「あ、ありがとうございます!」
ええー……う、嬉しい!
アレス殿下が私の為に、わざわざこれを用意してくださったなんて!
自分で自由にできるお金があまりない殿下が用意されただけあって、正直私が手配しようとしたものよりずっと性能が劣る品だけど、次の演習では絶対これを使う! 魔力量が異常に高いサイコパスグリズリーならその気になれば突破できそうな性能だけれど、その時はあいつを半殺しにしてでも、殿下がくださった魔道具のおかげで安全に夜を過ごせましたという体を保つ!
だって殿下が私の為にプレゼントしてくださったのだもの!!
「ふふふ……殿下が私の誕生日以外でプレゼントをくださるのは初めてですね」
「プレゼントって……そんな大層なものではないだろう」
「殿下が毎年くださるプレゼント、私は全て大切に保管しております。6歳の時にくださった花も、押し花にして栞に加工致しました。今も本に挟んで毎日持ち歩いておりますよ。殿下はいかがですか? 私が先日プレゼントした腕輪は、身に着けてくださっていますか?」
「……たまにな」
そんなこと、おっしゃって。
服の下の見えない所に、肌見放さず毎日身に着けてくださっているのを、ナサニエルは存じておりますよ。
殿下はきっと恥ずかしがられるだろうから、敢えて口には出しませんけれども。
実はその腕輪はペアのアクセサリーで、同じデザインのものが服に隠れた私の二の腕にはまっていることも、ね。