姫抱っこと膝枕
「……お、降ろせ……ナサニエル」
「おや、殿下。美しい青い瞳が元通りにおなりですね。白目を剥かれた殿下も、あれはあれで愛らしかったのですが」
「そんなことはどうでもいい……! この恥ずかしい体勢を何とかしろ!」
正気を取り戻された殿下が私の腕の中で叫ぶけれど、こんなことは想定内だ。
「……私の勘違いかもしれませんが。アレス殿下は、今日の昼の件を、私に謝罪なさるおつもりだったのではないですか?」
「う……」
「ならこれも謝罪のうちと言うことで、受け入れてください。私と殿下が仲直りをしたことを、周囲に知らしめる必要がありますし」
何も言い返せないまま殿下がお黙りになられたので、そのまま跳ねるように中庭を目指す。それとこれとは関係ないと言えない辺り、殿下も大概私に毒されている。
……ふふふふ、これで昼の婚約破棄騒動の噂は、完全にこの校内お姫様だっこ話に塗り替えられてしまうはず。殿下の可愛らし過ぎる御姿を周囲に知らしめるのは少し焼けるけれど、殿下の悪い噂が広まるよりはずっといい。
下手に悪い噂が定着したら、殿下を疎ましく思っている輩に利用されてしまうかもしれないし。それよりはくだらない痴話喧嘩だと思われてしまった方が、ずっとましだ。
これはこれで頭が足りないだの、風紀を乱すだの、別方面から悪い噂を立てられそうではあるけれど。それくらいの噂ならば、私も殿下も自身の能力で黙らせることができるだろう。私さえ関わらなければ、殿下は本当は有能な御方なのだから。
「ほら、殿下。中庭に到着しましたよー」
学園の庭師が整備する中庭は、美しい花が咲き乱れている憩いの場所ではあるけれど、芝生がある辺りはあまり人が寄り付かない穴場スポットだ。
屋根と椅子がある東屋の中から中庭を眺めるのならともかく、直接芝生に寝転がったり、座ったりする貴族の子女は少ない。
私は躊躇うことなく芝生の上に座り込み、自分の膝の上に殿下の頭を乗せた。
「……おい。何でさらに恥ずかしい体勢にさせるんだ」
「殿下が謝罪を言葉にするのが躊躇われるようなので、私の好きなようにさせて頂くことを謝罪代わりと受け止めようと思いまして。昔はよくこうやって、王宮の庭園で膝枕をさせて頂いたではないですか」
「私が嫌がっても嫌がっても、お前が無理やり膝の上に抱え込んだんだろう」
「殿下があまりお眠りになれてないようなので。私が傍にいる間だけでも、ゆっくり昼寝をして頂ければと思ったのですよ」
妾妃だった母を亡くし、後ろ盾もなかったアレス殿下は、後宮で虐げられていて。王子という立場からは想像もできない粗末な食事をさせられていたようだったし、暗殺を恐れて安心して眠れないからか、目の下には幼い体には似合わない、くっきりとした青い隈が刻まれていた。
そんな殿下が心配で。でも幼い当時の私には何もできなくて。せめてお会いする時くらいはゆっくりと眠らせてあげたいと、メイドから伝え聞いた膝枕というものを試したのが一番初め。
最初は人に慣れない子猫のように嫌がっていた殿下が、初めて膝の上で寝息を立ててくれた時の感動は、今でもまだ覚えている。
「また睡眠時間を削って、無理をなさっているのではないですか? 目の下に隈ができていますよ」
「……無理をしなければ、私は王宮での立場を維持できない」
後ろ盾を持たないアレス殿下は、王太子である第一王子の庇護を得て、今の立場を確立させた。
王位簒奪を目論む第二王子陣営からはもちろん、王太子の母である正妃からも、卑しい泥棒猫から生まれた王子だと疎まれていたアレス殿下が、王太子の庇護を得るためには、必死に勉強して自分が有用であることを示すしかなかった。
「卒業すれば、私は正式に王政補佐官に任命される。その時点で即戦力になれねば、私に官職を与えてくださった兄上の顔を潰すことになる。だから今のうちに、仕事を覚えなければならないのだ」
ただでさえ官僚育成科は課題が多いのに、アレス殿下はそれに加えて、放課後は王政補佐官見習いとして王太子や宰相の下で公務に勤しんでいる。
正式な役職ではなく、給金も出ない代わりに、時間は本人の希望と都合に任せると言われているはずなのに、アレス殿下は自らの睡眠時間を削ってまで必死に公務を行っているのだ。
……無理はしないでくださいとは、私からは言えないな。
自分の基盤を安定させるのに必死なアレス殿下の邪魔はできないし、何よりも第二王子の問題がある。
病床の国王陛下に代わって、摂政として国をまとめている王太子殿下は、理知的でありながらも、穏やかで優しい御方だ。母である正妃様の介入もあってアレス殿下が幼い頃は手助けができなかったからと、殿下のために何かと心を砕いてくださっている。
だがしかし、軍務卿を務めている第二王子は、王位簒奪の最大の障害である王太子殿下はもちろん、王位継承権を持つアレス殿下に対しても明確な敵意を抱いている。もし王政補佐官になった殿下の仕事が不完全であれば、それを利用して殿下を追い落とそうとするだろう。
ちなみに第二王子の敵意の対象は殿下だけには留まらず、殿下の婚約者である私に加えて、私の叔父であるパウエル騎士団長にまで及んでいるらしい。
軍務卿と言えば、軍の財政などを取りまとめる立場であり、組織図で言うならば騎士団長であるパウエル叔父上の直属の上司にあたる。さぞいづらいだろうと申し訳ない気持ちになるが、元々叔父上は国王陛下のお気に入りだし、現在は第二王子のさらに上の責任者である王太子殿下からも慕われている為、存外不便はないとカラカラと笑っていた。
国のトップとNo.2から好かれていると、躊躇いなく公言できるあたり、さすがの豪胆さと人誑しっぷりと言う所だろうか。
「無理をなさらないでとは言えませんが、たまには休息も取られてくださいね。休息を取るのと取らないのとでは、作業効率が全然違って来ると聞いたことがありますよ」
柔らかい殿下の金色の髪を、そっと撫でる。
「ちゃんと半刻後には起こしますから、少しお眠りになってはいかがですか? 眠れなくても目をつぶるだけで大分違うらしいですよ」
「…………」
少し迷うように眉間に皺を寄せた殿下だったが、手のひらで目元を覆い隠すと、諦めたように目を閉じた。
「……10年も経てば、お前が膝枕なぞできないくらいの立派な体格になると思っていたのだがな」
「殿下は10年前に比べたら、ずいぶんと大きくなられましたよ」
「それでも……お前よりも大分背が低い」
「私の成長はもう止まりましたが、殿下の身長はまだ伸びてらっしゃるじゃないですか。殿下は幼少期の食生活の影響で成長が遅れているだけで、あと二年もすればきっと私より大きくなられますよ」
「……だと良いのだけどな……」
やっぱり疲れてらっしゃるのか、殿下の声が少しずつ間延びしてきて、徐々に眠りの縁を彷徨いだした。
殿下が速やかに入眠出来るように、殿下の髪を一定速度で、ゆっくりゆっくり撫であげる。
「……ナサニ、エル……」
「はい。殿下」
「……本当に、お前が他の令嬢を虐げたと思ったわけではないんだ……」
「存じてますよ」
「…………すまな、かった…………」
眠りに落ちる寸前に、掠れた声で謝罪を口にする殿下に、苦笑いが漏れる。
「存じてますよ。アレス殿下。ナサニエルは、全部存じております」
アレス殿下がただ、婚約破棄を宣言する為の口実が欲しかっただけということは。