いざ、愛の逃避行へ
クラスメイト全員が一斉に内股になって、尻を押さえだしたのがとても面白い。子爵以下とはいえ、基本的には傅かれるのが当たり前の貴族のお坊ちゃま達には、刺激が強い話だったようだ。
いや、全員じゃないな。グレゴリーだけは平然としてるな。そりゃあ、そうか。他の皆と違ってグレゴリーは辺境伯嫡男、卒業後は辺境伯の私設騎士団のトップになることが決められている。尻を狙って襲い掛かるような、馬鹿はいない。……そうでなくても、巨漢のグリズリーに性欲を抱く特殊性癖の持ち主が、どれくらいいるかって話だけれども。
セルティス先生は生徒たちに危機意識を抱かせるため言及していないが、パウエル叔父や現役騎士の次兄に聞いた限り、実際被害に遭う大部分は平民出身の騎士らしい。実家の報復を考えれば、当然と言えば当然だけど。
……でも正直、セルティス先生くらいの美人だったら、貴族だとわかっていても凶行に及ぶ愚か者はいそうだな。たしかセルティス先生のご実家は、子爵家だったかな。同じ子爵家出身で、セルティス先生のご実家より裕福な家の出だったら、家柄を盾にもできないだろうし。
「パウエル騎士団長は規律を重んじる方ですから、当然そのような事実が露見すれば厳しく処罰をされますが、加害者が処罰されたところで尻に被害があった事実は揺らぎません。自分は男だからと言って油断せず、自分の身は自分で守りなさい。あと変な想像をされたら嫌なので先に言っておきますが、僕は自分に襲い掛かってきた輩は全て、その場で不能にしましたので。だから人の尻を心配そうに眺めるのはやめなさい。ナサニエル」
「……はい、先生。申し訳ありません」
……どうして、ばれたんだろう。
「ともかく。自分の身は自分で守ること。どれほど討伐難易度が低い魔物相手であっても、調子には乗らず、常に危機意識を持つこと。これが最初の野外演習で、君達に学んで欲しいことです。逆に言えば、最低限これさえ学んで頂ければ、僕は君達を正当に評価します。そのことを頭にとめたうえで、演習に挑んでください」
セルティス先生はそう言って、クラスメイトの一人一人の顔を見た後、試合結果に基づいた班分けを発表し始めた。
……いや、先生。ひりひり痛むだけだから、全然緊急性はないのですが。グレゴリーのせいで顔に軽い火傷を負った私に、ポーションを渡すのを忘れていませんか?
「ひどいよね。セルティス先生。変な所では私を女性扱いするのに、講義が終わるまでポーションを渡すのをすっかり忘れているんだから」
「……お前が全く気にしてなさそうだから、つい忘れたんだろ。というかお前もさすがに顔の火傷は気にするんだな」
「だって顔に火傷を負っているのを見たら、アレス殿下が気になさるじゃないか! ただでさえ、今日の放課後はアレス殿下とお会いする予定が入っているのに!」
「……別に予定が入っているわけではないけどな。十中八九、謝罪に来るだろうとはいえ」
講義が終わるなり、護衛の職務を果たすべくアレス殿下のもとへ向かっていたゴードンが、げんなりとした表情でため息を吐く。
「……で、何でお前は俺と一緒に、アレス殿下のもとへ向かってるんだ? お前のことだから、殿下が謝罪に来るのを今か今かと待つのだと思ったが」
「そのつもりだったんだけどね。次の演習の班を、サイコパスグリズリーと、うるさい駄犬と一緒にされて心がささくれ立っているから。一刻も早く、可愛らしい殿下の姿に癒されたくて。どうせお会いするなら、私から会いに行ってもいいだろう?」
「……正直俺からすれば、殿下も似たようなものだと思うが」
「全然違うよ! そう思うなら、ゴードン。私と班を交換してくれ」
「だが断る」
ゴードンと並んで歩いている間も、すれ違った女生徒達は可愛くきゃあきゃあ騒いでくれている。
こげ茶色の短い髪と、同色の切れ長な目。怜悧ながらも整った顔立ちをしていて、背丈が私より高いゴードンも、女生徒からそれなりに人気が高い。子爵家の四男だけど、第三王子の側近候補で、まだ許嫁もいないから、数少ない許嫁のいない女生徒達からは、わりと本気でアピールされている。
本人は、アレス殿下の基盤が固まる前に婚約者を決めて、他家に縛られて身動きができなくなると困るという理由で、来る縁談来る縁談は全て断っているのだけれど。
冷めているように見えて、ゴードンのアレス殿下への忠義は本物だ。だから私は、ゴードンが好きなのだ。侍従のリンゲルも、同じ理由で。
「……ほらほら、アレス殿下! いい加減覚悟を決められてください。ナサニエル様に謝罪に行くのでしょう?」
「だ……だが……」
「もう。勢いで婚約破棄宣言はできるのに、謝ることはできないって、どういうことですか。同じ勢いで謝っちゃいましょうよー」
官僚育成科の教室の近くで聞こえてきたやり取りに、思わず吹き出してしまう。
本当に、想像した通りの反応で、とても愛らしい。
「あ、明日にしよう! きっとナサニエルも、今日は帰宅しているはず。明日の朝一番に会いに行って謝るから……」
「お噂中のナサニエルが、帰宅前にアレス殿下のもとに参りましたよ」
「ぎゃっ!」
そっと後ろから近づいて耳元で囁くと、アレス殿下は変な声をあげて小動物のようにぴょんと飛び跳ねた。驚愕の表情で振り向いた殿下の顔は、私を見るなり、真っ赤に染まり、すぐに青く色が変わった。
……そうそう、これこれ。この反応が見たかったんだ。ああ、もう、ぷるぷる震えてらっしゃって。頭の上に倒れた動物のお耳が幻視で見えるようだ。
ささくれ立った心が、瞬時に癒されていくの感じながら、殿下に向かってにっこり笑いかける。
「お昼ぶりですね。アレス殿下」
「ナ、ナ、ナサニエル……」
「何やら私にお話しがあるようでしたけど、どのようなご用件ですか」
ああ、アレス殿下が空気を求める金魚のように、お口をパクパクしていらっしゃる……!
開口一番に、何と言えばよいのか、おわかりにならないのですね。考えていた台詞が全部、一瞬で頭からお抜けになられたのですね。
本当、頭から全て齧りつくしたくなるくらい、可愛らしい御方だ!
「……ナサニエル。気持ち悪い笑みを浮かべてないで、アレス殿下をフォローしてやってくれないか。話がちっとも進まない」
「気持ち悪いって失礼だな。すれ違う女の子たちは、みんな私を見て顔を赤く染めてくれているのに」
「俺にはお前の考えが透けて見えているから、気持ち悪いと言っているんだ」
……まあ、確かにこのままじゃ話は進まないのが目に見えている。
アレス殿下はあうあう言いながら固まっているし、周囲にはゴードンやリンゲルだけではなく、同学年の生徒がたくさんいる。この状態で謝罪をしろというのは、照れ屋な殿下には酷だろう。
「……ゴードン。今日の乱取り稽古の結果を鑑みると、私の方が君より強いよね」
「今日の稽古を鑑みるまでもなく、お前の方が強いだろう」
「なら、私がお傍にいる間なら、護衛の君は必要ないね。安全な学園の敷地内なら特に」
「は?」
「それでは、殿下、失礼致しますね」
「は?」
固まったままの殿下の膝をすくい上げて、ひょいと抱え上げる。俗に言う、お姫様だっこだ。
出会った時は同年代に比べても非常に小柄だった殿下は、昔よりはご立派に成長されたけど、騎士科で鍛えた二の腕からすれば、殿下の体重くらい羽のように軽い。
「ゴードン。リンゲル。半刻だけ、アレス殿下を借りていくよ。半刻後にまた、校門で会おう!」
「ちょ、待て、ナサニエル!」
「ナサニエル様―! 殿下が衝撃のあまり白目剥いてるので、降ろしてあげてくださーい!」
うるさいゴードンとリンゲルを残し、軽やかにその場を駆け抜ける。
まあ、愛の逃避行というものかな。これも、ある種の。