芽生えたものは(side:アレス)
初めてナサニエルを見た時、私は彼女を少年だと思った。
王族である婚約者との初対面にも関わらず、ナサニエルが纏っていたのはドレスではなく、子ども用の騎士服だったから。
その当時は理由が分からなかったが、婚約を邪魔する襲撃を恐れて、ドレー家当主が敢えてそうさせたのだろう。まだ6歳であるナサニエルは、その頃には既に対人戦の訓練を受けていた。何があっても自分で対処できるように、見た目よりも動きやすさを優先したのだ。
婚約者が来ると聞いていたのに、護衛騎士の間違いだったのだろうか? そんなことを思いながらも、私の目は吸い寄せられるかのように、ナサニエルから反らせなかった。
栄養状態の行き届いた艶やかな黒髪に、同年代の少年少女に比べても高い背丈。しなやかな手足。
整った顔に浮かべられる笑みは快活で、生命力に満ちあふれて、美しかった。
ーーああ、それに比べて、当時の私の、何とみすぼらしかったこと!
数時間前に慌てた使用人に丸洗いされて、王子らしい服を着せられたが、少し前までは何日も風呂に入れず垢まみれで、襤褸を纏っていた。
どれだけ洗ってもなお、皮脂の汚れは体に染み付いて、自分でもわかるくらいの異臭が残っている。
ガリガリに痩せた手足は、骨のようで。栄養の足りないパサパサの金髪は、藁のよう。背丈だって、同じ年齢のはずのナサニエルより頭二つ分小さい。
その頃の私は動物のような生活を送っていたが、一時期は「子どもが優れていれば、陛下は戻ってくるのでは」と思った母によって教育を施され、一般常識程度の知識は与えられていた。
だからこそ、わかってしまった。気づいてしまった。自分とナサニエルのあまりの差に。
ーーああ、何と惨めなことか!
すっかり忘れていたはずの感情が、マグマのように腹の底から湧き上がる。惨めで、妬ましくて消えてしまいたいと。死を覚悟していた時には思わなかった澱んだ感情を、私はナサニエルを前にしてようやく取り戻した。
私は王子なのに、何故一介の伯爵令息……正式に婚約者であると紹介されてなお、当時の私はナサニエルを少年としか認識できなかった……より、惨めな姿をしている?
何故、私がこいつではなかった!
泣き喚いて叫びだしたい気持ちだったが、封じていた感情はそう簡単には表に出せない。
私が辛うじて、口にできた言葉はこれだけだった。
『わたしと婚やくしても、何もいいことはないぞ』
『母は死んだ。父はわたしにきょうみがない。母の生家は、役にたたない』
『王位をねらいかねないじゃまものだと、いずれ排じょされる』
『婚やくなぞしたら、おまえの家までまきこまれるぞ』
この快活で美しい少年の顔が、陰れば良いと思った。
こんな疫病神の婚約者を押し付けられた、我が身の不幸を嘆けば良いと。
私という存在が、少しでもこの少年を苦しめることを、私は切望した。
ナサニエルを貶めたかった。太陽のような彼を、地に落としたかった。
ーーああ、なのに!
『わたしは騎士の家系で、かぞくもわたしも、自分のみは自分でまもれます』
『だから、わたしをあなたのこんやく者にしてください』
『あなたをまもりたいのです』
ナサニエルは私の前に膝を折って、そんなことを抜かしたのだ!
どこまでも高潔に、美しく!
何の迷いもない、澄んだ黒曜石の瞳で私を見つめながら!!!
(これほど惨めな私を前にして、何故そのようなことが言える?)
(どうせ口先だけの誓いだ。現実を知ればすぐに離れていくに違いない)
(だって私には、お前にそんな風に言われるような価値はないのだから)
必死にそうやって自分に言い聞かせる一方で、相反する気持ちもまた止められなかった。
(本当に、守ってくれるのか)
(何の価値もない私をそれでも構わないと、そう言って)
(私の傍に、いてくれるのか)
それから。ドレー家の庇護を得たことで、使用人は私の世話をおざなりにすることはなくなったし。一年後には成人したフェルドリート兄上が私の前に現れて、王城に私の居場所を作ると約束してくれた。
栄養状態も格段に回復し、王族として相応しい教育も受けられるようになり。私は兄上の恩情に応えるべく、必死で執務について学んだ。
その間も、ナサニエルは変わらない太陽のような姿で私に会いに来てくれた。
(ほら、やっぱり。ナサニエルは変わらない。裏切らない)
(本当にそうなのか? 今だけ取り繕っているだけじゃないか)
(ナサニエルはこれからも傍にいてくれる。私に愛情を向けてくれる)
(何故そう信じられる。私にそんな価値はないのに)
(そもそも……こんな無価値な私に、ナサニエルを縛りつけて良いのか?)
相反する想いは年齢を重ねるごとに、一層ごちゃごちゃと複雑になり、やがて自分でも制御ができなくなった。
それでも必死に抑え込んでいた感情は、学園に入学してナサニエルの存在を身近に感じるようになったことで噴出した。
『ナサニエル・ドレー! お前がサーシャ・ウッド嬢を虐げたことはわかっている! お前は第三王子である私の婚約者として、相応しくない。今度こそ婚約破棄だっ』
(ああ、何と言う、難癖だ。何と言う愚かで醜い言いがかりだ)
(でもナサニエルなら、許してくれる。仕方がない御方だと、いつものように優しく笑って。きっとまた、受け止めてくれる)
(ああ、これだけ貶めてなお、お前は凛として美しい。妬ましい、憎らしい。私はこんなにも醜いのに)
(こんな醜い私から、ナサニエルを解放しなければ)
(許してくれ、ナサニエル。こんな醜い私を受け入れてくれ)
(妬ましいから、視界から排除したい。ナサニエルに申し訳ないから、婚約破棄してナサニエルを解放しなければいけない。でも許して欲しい。無価値な私を、それでも愛して欲しい。受け入れて欲しい)
(ーーお前がいなくなった未来なんて、想像もできないんだ……!)
みっともないと理解してなお、試し行為がやめられない。
いつものように受け入れてくれたナサニエルの姿に安堵しながら、婚約破棄を告げても傷つく様子がないことに唇を噛み、愚かで醜い自分自身に絶望する。
他のことでは第三王子として恥じないように……フェルドリート兄上を失望させないように取り繕うことができるのに、ナサニエルに関してだけはそれができない。もしナサニエルがそれ相応の対応をしていれば、現状だけでも十分に私を破滅させることができるとわかっているのに。
(ナサニエルが、伝説の剣の主に選ばれた。これでナサニエルの価値が国中に広まってしまう)
(無価値な私では、ナサニエルに相応しくないと、誰もがそう思うようになるだろう)
(終わりだ……今度こそ、私はナサニエルを手放さなければ)
(ナサニエルの輝かしい未来の為に)
「……んか、アレス殿下っ、お目覚めになってくださーい……」
泣きそうなリンゲルの声で、目を覚ました。
縛られた状態のまま、床に転がされた体が痛い。
「そうか……私は離宮に戻る途中で襲撃にあって……ここは、どこだ?」
「わかりませーん……馬車でここまで運ばれてきたことしか。ゴードンはその前に怪我して、倒れちゃいましたし」
鼻水を垂らしてぐずぐずと半べそ状態のリンゲルを慰めようとして、その後ろで縛られていた人物を見て唖然とする。
「それで……何故君がここにいるんだ。ウィルソン・ハルバード」




