第7章 未来へ
川下りの所要時間は約二十分間。
短いながらも濃縮された二十分だったと思う。
送迎バスを降りてタープへと向かう。船上での思いがけない出来事の余韻に浸りながら手を繋いで歩く私と結翔。このまま二人きりの時間がすっと続くような気さえする。
キャンプサイトに戻ると、布製の椅子に座る舞花が見えた。日除けのタープの下で微風が巻き髪を揺らす。その様は下界で寛ぐ女神さながらで、彼女の周りだけ清涼な風が吹くようだった。
「おかえりなさ~い。楽しかった?」
彼女は私達に気づくと手を振り迎えてくれた。舞花と目が合った瞬間に船上での出来事が私の脳裏に蘇る。
自分はいったい何をしていたのか。浅瀬で溺れる、流されるとパニックを起こして騒ぎ、挙句人前でいちゃついていたのだ。気まずさが胸にこみ上げ、頬が熱を持ったように熱い。私は咄嗟に繋いだ手を放してしまった。そんな私を結翔が気まずそうにチラ見している。
「あら~☆ 船で何かあった~?」
「いっ、いえ! 楽しかったです! とっ、とっても!!」
「ふ~ん? そうなのね? 楽しかったのならよかったわ~」
好奇心をやわらかく包んだ瞳で私を見つめる舞花。後で何があったのかと報告させられそうだ。
「未来と紬ちゃんは水遊び場へいっているの。ふたりもどう? せっかく来たんだから……私はここで涼んでいるわ」
「おし! そうしよう!」
結翔が再び私の手を取る。
「いってきます!」
結翔に手を引かれて水遊び場へと続く小道を足早に歩く。今日は存分に楽しむのだ。一刻も早く目的地へいきたかった。
更衣室に入るとバッグから水着を取り出す。付属のアクセサリーは、今回は登場させずにおこう。着替え後は入念にチェック。日焼け止めを塗って、パーカーを羽織るとフードを目深に被った。
水遊び場は浅瀬で流れも緩やかだった。紬と未来を探すと、水場で遊ぶふたりと目が合う。
「沙羅さん!」
「しゃらしゃん!」
「紬ちゃん! 未来君!」
逸る気持ちを抑えつつ川に足を浸す。
「冷た~い!」
外気からは想像もつかないほどの冷たさに、自然の中にいることを実感させられる。
解放感に浸った私はパーカーのフードを外す。照り付ける日差しがじりじりと肌を刺すが、少しの間なら大丈夫。日焼けをしても秋風の季節には冷めるだろう。せっかくのアウトドアを存分に楽しみたい。
「素敵な水着ですね!」
「しゅれきれしゅ!!!」
大絶賛をする紬と未来。背後を振り返ると結翔と目が合う。
「………………」
沈黙がとても長く感じられる。また未来を羨んでいるのだろうか。
船上での熱い誓いは何だったのか。老婦人の熱気に押されたのか、乗客の空気に流されたか。彼の気持ちに嘘はないのは分かるものの少し残念だ。
でも、そんな結翔も大らかな気持ちで見守ることが出来る。
「未来君! お姉さんも仲間に入れてね!」
掌で水をすくって飛沫を上げると、
「ちゅめらいれしゅ~!!!」
声を立ててはしゃぐ未来。天真爛漫な笑顔に私の心も弾んでいく。
「お~し!! じゃ、俺も!」
「わっわわ!! 冷たい!」
いきなり水をかけられ怯むも、
「私だって!!」
容赦なく応戦する。
「……つっ、冷たい! おいっ! 俺は着替えがもうないんだぞ?」
結翔は午前中に未来を遊ばせた後、一度着替えている。
「大丈夫ですよ! 沙羅さん。今頃乾いてますから!」
「らいじょうぶれしゅ!」
「おい! 紬? それに未来。お前まで!!」
紬と未来が加勢して、激しい水攻撃で結翔を攻める。
ふと、未来に視線を向けるとじっと私を見つめている。はしゃぐ未来も可愛いが、黙していると人形のようだと思う。
「未来君? 疲れたのかな? 休憩にしようか……」
小さな手をとり幼児に話しかける。未来は小さな子供なのだから、もっと気を使うべきだった。今日はもう外遊びは止めたほうがいいかもしれない。
「……ちれいれしゅ……にじのよーしぇいみらいれしゅ……」
未来が焦点の合わない目でぼんやりと呟いた。
虹?
妖精?
空を見上げても虹は見えない。この天候で虹が発生するはずがないのだ。妖精ならいっそうだ。天候にかかわらず荒川にいるはずがないのだから。きっと未来は幻覚を見ているのだ。
熱中症かもしれない。早々に撤収しなくては。まずは携帯した水を飲ませようと、急ぎ岸辺へと駆けると、
「沙羅さん……凄くきれいです。水着が飛沫を弾いてきらきらして……虹みたい……」
と、紬が呟く。まるでやっとの思いで言葉を口にした。そんな感じだった。
「水場で映えるデザインです」
店員の言葉を思い起こす。水滴で光る素材だったのだ。自分の姿を見ることは出来ないものの、紬や未来の表情でそれがわかった。
だが、肝心なのは……。
反射的に結翔を見るも、
「……」
肝心の結翔は黙したまま。だが彼の瞳からは熱のようなものが感じられて、密かに心満たされていく。
「結翔さん!!」
返答を待たずに素早く膝を折り、掌いっぱいに水をすくって勢いよく放つ。
「スキだらけですよ?!」
「おい! いい加減にしろ!」
結翔の悲鳴、紬、未来の笑い声が高く響く夏の水辺。
こうして長瀞での一日が過ぎていくのだった。
日帰りキャンプの利用者は午後四時までに撤収しなくてはならない。つい水遊びに夢中になり過ぎたと、一行は慌てて後片付けを始める。
私と結翔はタープを外して、紬と舞花が炊事場でフライパンや網、飯盒に鉄板を洗う。ゴミも持ち帰らなくてはならない。
「楽しかった~! キャンプに連れてきてくれてありがとうございました!」
タープをたたみながら伝える。結翔が誘ってくれなければこれほど充実した一日にはならなかった。
「喜んでくれてよかった………その……ごめん」
「え?」
この状況で結翔は何を謝罪しているのか。また何か責任を抱え込んでいるのか。
「その……最近会えてなくて……」
「……」
結翔は六月に運転免許を取得したが、それは七月にアルベルゲ経営の下見で渡欧するためだった。
免許の講習を受ける間、スペイン旅行の滞在中、アルバイトに通学。彼が多忙なために会う機会が激減していたのだ。
結翔の夢を応援したいものの、寂しくないと言えば嘘になる。バレエがなければもっと落ち込んでいたかもしれない。
舞花の結翔への当たりがきつかったのは、私を長期間放置した所為だろう。きっと彼女は私の心情を思い遣り、代弁しようとしたのだ
「普通なら夏休みを楽しむんだろ? そばにいてやれなくてごめん……沙羅ちゃんが聞き分けいいからって……俺は甘えてたんだ」
「……寂しかったです……でも、結翔さんだけの責任じゃありません!」
そう。私自身も進路の問題が浮上していて、九月には大きな一歩を踏み出そうとしている。
「今日は結翔さんのお陰で楽しい一日になりました! ……それにいつも私を助けてくれます!」
私は結翔に笑いかける。
自分に出来る精一杯の笑顔で。
「励ましてくれたり……勉強を見てくれているし、さっきだって……」
船から零れ落ちそうになったとき、結翔は咄嗟に私をかばってくれた。あの瞬間の手のぬくもりと安堵感を、私は一生忘れない。
小さな出来事が思い出となって、心を支え励ましてくれる。
いつでも、どこへ行こうとも。
結翔はいつだって私を守ってくれる。
たとえ離れていても。
この気持ちがあれば、私は未来へ進むことが出来る。
「……あのさ………」
「なんでしょう?」
「その……水着……似合ってた。髪色にも目にも合ってたし……」
「ありがとう……あ、あの……」
「……おし!」
私が結翔に向かい頭を傾けると、結翔がわしゃわしゃと髪を梳いてくれた。
ふみゅ~~。
指先の感触がくすぐったいけど、彼の温かさを感じていたい。
これは私にとって大切なご褒美。
八月下旬、暦の上では秋の午後。
夏の思い出を胸に、私達は帰路を辿るのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




