第6話 川下り
長瀞渓谷は、山間を流れる荒川によって形成された地域だ。風光明媚な土地として有名で、埼玉県立長瀞玉淀自然公園の一部でもある。
私と結翔の二人が川下りをすることになり、まずは送迎バスで船着き場へ向かう。船着き場は、岩畳と呼ばれる岩が畳のように並んだ場所にあった。
船着き場に到着すると人影はまばらだった。キャンプサイトと同様家族連れは見当たらず、中高年の観光客の間に若い男女の二人連れがいた。
結翔のいうとおりに予約しなくてもチケットを買うことが出来た。日焼け止めを塗り直してパーカーのフードを深くかぶる。やはり日焼けは避けたい。乗船者用のライフジャケットを着れば準備万端だ。
「足元に気を付けて」
結翔に手を引かれて船頭が竿を繰る小さな和船に乗り込む。乗客は合わせて十人足らずで、私達の向かいに座ったのは高齢の夫婦らしき男女だった。
風でフードが外れると、老婦人は私の髪色を見て息をのんだ後、すぐに柔和な笑顔に戻った。私は彼女に微笑み返すとフードを再びかぶり直す。
船の縁にビニールシートが設置されていて、急流に差し掛かったときにはこれで水飛沫を防ぐのだと船頭が説明をした。
「スマホやカメラは鞄に入れておいた方がいい……かなぁ?」
笑顔の船頭が提案をする。これは規則ではなく推奨だが、私と結翔は速やかにスマホを鞄に収めた。
水面を進む船に漣が音を立てて打ち寄せる。流れは澄んで穏やかな姿を見せていた。
ビニールシートが活躍する機会があるのかと疑ってしまうほど、川は静かだった。
要塞のような岩壁が連なる渓谷の地。珍しい形状の岩肌。初めて見る光景はまるで異世界に迷い込んだようだった。
隣では結翔もまた景色に見惚れていた。彼は自然に触れるといつも生き生きとした表情を見せる。
結翔は渓谷の風景から視線を戻すと私に言った。
「どう? 川下り?」
「来てよかったです!」
「そか! よかった!」
顔を輝かせる結翔。
川下りを決行して正解だったと、心の底から実感したときだった。
――カタン
船体が岩に触れて鈍い音を立てた。船は岩にすれすれまで接近しながら進み続ける。
サラサラとした水音が次第に強くなる。流れは白い波となり、船に押し寄せては跳ね上がってきた。
乗客はいっせいにビニールシートで防御するも、水飛沫からは逃れられず、水を浴びた乗船客の声が聞こえてきた。
「冷た~い!!」
「おうっ! 冷たいな!」
悲鳴を上げながらも、今日の最高気温は32℃。川の上とはいえこの暑さでは、
水の冷たさが心地よい。結翔も私も、他の乗客たちも、誰もが子供に戻ったように嬌声を発していた。
「お客さん! しっかり座っててください!」
張りのある声が水音にかき消されていく。船は急流に入ろうとしていた。
波が高く上がり急流が生まれては泡となって消えていく。船体は流れに巻き込まれていった。
日焼けした肌に汗を滲ませ竿を操る船頭。気が付くと、私は結翔の腕に抱き着いていた。
掌は汗ばみ、風でフードが外れたことさえ気づかずにいた。
急流に突入したのは僅か数分のことだった。川が静かな流れに戻ると、私は景観を楽しむゆとりを取り戻す。
川べりの岩の上から船に向かって手を振る観光客。カヤックという一人用のボートを漕ぐ若者、岩からダイビングする青年達。
人々は川辺の休暇を堪能していた。
ふと、私は自分が水に手を浸していないことを思い出す。キャンプサイトに到着してからすぐに料理を作って、食べては後片付けをしていたのだ。
水に触れたい、足先が無理なら手の指だけでも。強い衝動が湧いてきて、指先で川に触れようとした瞬間だった。
――カタン
船体が思い出したように揺れた瞬間、私はバランスを崩しかけた。
ふっ、ふみゅー!!
(どっ、どうしよう!)
このまま船から零れ落ちてしまうのか。ライフジャケットを装着しているとはいえ、川に落ちたらどうなってしまうのか。
「余程……じゃなければ大丈夫」
結翔が言いたかったのは、きっと油断しなければ大丈夫ということだったのだ。
それなのに、私は急流から逃れた安心感から気を抜いてしまったのだ。
流されてしまうのか。
溺れてしまうのか。
様々な思考が一瞬で脳内を駆け巡った。
(……どうしよう……)
川は表面が穏やかに見えても危険だと聞く。
このまま船から落ちてしまったらどうしよう。
頭が混乱してパニックを起こしかけたときだ。
「大丈夫?!」
肩にふわりとした感触が当たる。
結翔の手だった。
「……は、はい……」
不思議な感覚だった。
身体の安全が守られたと同時に、心まで優しく包まれるような温かな結翔の掌。
何も怖くない。
結翔が守ってくれるから。
「……怖かった? もう大丈……」
「……」
深い安堵感と共に結翔の腰に腕を回すと、彼は優しく肩を抱いてくれた。
結翔の胸に当てた額を正面に戻したとき、上品な老婦人と目が合う。
ふっ、ふみゅー!
彼女は掌を頬に当てながら、口をアルファベットのOのようして、目を見開いたまま私達を凝視していた。
彼女の姿を私はどこかで見た記憶がある。美術図鑑だっただろうか。絵画の人物は、叫びたいのに声が出ない。そんな表情をしていた。
流されてしまう恐れと助けられた安堵感から、つい我を忘れてしまった。結翔も照れくさそうに顔を赤らめ私の肩を抱いている。
品の良い老婦人を驚かせてしまった。はしたない娘と呆れているのだろう。そうだ。絶対そうに違いない。自分は彼女の行楽を台無しにしてしまったのだ。
だが老婦人の表情はすぐにほのぼのと緩んでいき、
「……素敵……」
と、少女のように頬を染めた
「貴女は外国のお姫様みたいだから王子様が助けに来てくれたのね……」
私と結翔を交互に見る老女を連れの男性が優しくたしなめる。
「あまり人を見つめてはいけないよ」と、まるで子供を諭しているようだった。
「素敵な髪ね? お日様に照らされてきらきらしてる。瞳は宝石みたい。琥珀? シトリンかしら?……あ、あの……」
老婦人は何か言いづらそうにもじもじとしているが、その様がとても可愛らしい。
「あ、あの……」
「なんでしょう?」
「お願いがあるの……髪を……髪を触ってもいいかしら?」
子供のようなお願いが微笑ましい。
「どうぞ!」
快諾して頭を傾けると、おずおずと手が伸びてきた。
「……どうですか?」
髪を梳く指がくすぐったくて笑うのを必死で堪える私。
「柔らかくて……絹糸みたい……」
ミルクティ色の髪を珍しがられることは度々あるが、実際に触ってくることは滅多にない。だが彼女になら許せる気がした。
「ありがとう……私は貴女のような髪色にずっと憧れていたの……お姫様みたいだもの……」
「……ありがとうございます……」
ストレートな誉め言葉は普段なら恥ずかしいが、彼女の言葉は素直に受け取ることが出来た。
次いで彼女は前のめりになると、結翔の手を握りしめながら言い切った。
「王子様はお姫様を守らないとね!」
ほんわりとした雰囲気に合わない力強い口調だった。
「わかりました! 任せてください!」
老婦人の熱意に押されたせいか、負けずに結翔の返答も力強い。
その時だ、パチリと手を打つ小さな音がどこからかして、それは次第に増えていき、船上を拍手が満たしていった。
「しっかり守れよ!」
「頑張ってね! 王子様☆ いいわぁ~。初々しくて!」
声の主は船着き場で見かけた男女だった。二人は共に社会人で、夏季休暇で長瀞を訪れたという。
ふっ、ふみゅ~!
いつの間にか船上で見世物になっていた。慌てて結翔の手を振りほどこうとすると、
「危ない!」
また落ちてしまうと再び抱き寄せられる。結翔の腕の中で安らぎながら船内を見渡す。私達に温かい視線が向けられていて、祝福ムード満点だった。
「ありがとうございます!」
自分に出来る精一杯の笑顔で。祝福は素直に受けるべきなのだ。
「ありがとうございます!」
結翔もまた乗船者達に返礼をする。
瀞とは川の流れの穏やかな部分で、それが長く続くから長瀞という。その名の通り、緩やかな川面を船は進む。
祝福の嵐の中、私と結翔は並んで寄り添うのだった。
こうして無事に船の旅が終って下船しようとしたとき、
「あのさ?……あそこではすぐに立てば大丈夫だった……けどな? 浅瀬だったし……」
精悍な顔を緩ませながら、船頭が小声で囁くのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回が最終話となります。




