おかえり桜
「ただいまー!」
「……」
久しぶりだ……。
妻のただいまを聞いたのはいつぶりだろう……
俺と妻─桜の夫婦生活はただの形だけのものとなっていた。
部屋も別々だし、会話だってほぼない。
結婚当初は互いにおかえりとただいまは欠かさなかったが、俺が彼女のただいまに返さなくなり、次第に妻もそれに呆れたのか自然と帰りのただいまが無くなっていた。
「明!」
「なんだよ……」
『ただいま!』
「さっき言ってただろ」
「だって返事してくれなかったんだもん……」
「いつもの事じゃないか」
桜はじっと見つめてくる。
「……わかったよ。……おかえり。」
久しぶりにその言葉を口にした。
照れくさい。こんなにも言い慣れない言葉になっていたのか。
「ところでなんだけど、話があるの……」
「───実は、今の私は未来からきたの」
は……?何言ってんだ?
妻の言葉を聞いた瞬間、眉をひそめた。
「はぁ……嘘をつくんだったらもっとマシな嘘をつけよ」
「嘘じゃない。そしてあと、もうひとつ言うことがあるの」
「……現在の私はもうすぐ死ぬよ」
考えるよりも先に、言葉が出た。
「は……?さっきから何言ってんだよ。本当のことだとしても医者にはかかったのか?治療の選択肢は?数字は?根拠があるのか?」
妻はかすかに笑った。その表情はまるで、こうなることを分かっていたかのようだった。
「あなたはいつも理屈を求めるよね…。でも、この話は本当なんだよ……?」
「理屈じゃない?だったら、ただの思い込みか?」
苛立ちを抑えつつも、冷静に妻を見つめた。彼は感情よりも事実を重視する人間だった。だからこそ、こうして妻の突然の言葉にも、まず情報を求めてしまう。
「そう思いたいならそれでもいい。でも私は、あと少ししか生きられない。それが事実。」
夫は深く息を吐いた。にわかには信じられないが、妻が冗談を言うとも思えない。
「そんなに証拠が欲しいならそのゴミ箱の中にある丸めてある紙を探してみて」
桜の言う通りに探すと彼女の言うとおり丸めてあった紙を見つけた。
ゴミ箱から取り出した紙をゆっくり広げた。
その紙はしわだらけで、診断書と書かれた文字が目に飛び込んできた瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。
「そこに書いてあるとおり私は死ぬんだよ……」
「なんだよ、これ……。うっ、うそなんだろ!?あー、ドッキリかなんかか?ほら、俺をだまそうとしてるんだろ……?」
頭が真っ白になった。
そこには、病名と余命の数字が並んでいた。疑いようのない現実が、今、手の中にあった。
「ドッキリじゃないよ……。これは現実。ねぇ……あのねゆっくり聞いてね」
妻の目には涙が溜まっていた。
「私が、過去に来た理由は3つあるんだ。」
「……」
診断書を握りしめながら、妻の言葉をただ聞いていた。心が追いつかない。まだこの現実に対して、納得ができていないのかもしれない。
「1つ目は、私は未来であなたに伝えられなかったことがたくさんあったから。」
「なにを……?」
「それはね……私がもっとあなたとちゃんと向き合えばよかったと思っていること。でも、それは私だけじゃない。あなたにも、同じことが言えるでしょう?」
俺は言葉を失った。確かに桜との会話は減り、互いに無関心に近い生活を送っていた。でも、夫婦生活は続くと思っていた。しかし、永遠なんてものは存在しない。そんな当たり前のことを、今になって突きつけられていた。
「3つ目はね……」
妻は少しだけ微笑んだ。
言おうとしたと同時に家のドアが開き、ドンッと大きな音がした。
物音の方に振り向くと、後ろにいる桜が『……私のことは気にせず、いってあげて』と消えそうな声で言った。
「桜……!!」
物音がした玄関に向かうとそこには桜が倒れ込んでいた。彼女の顔色は明らかに悪く、息も浅い。
「桜!おい、大丈夫か!」
明は駆け寄り、彼女の肩を揺らした。
目はうっすら開いている。意識があるのかないのか、曖昧だった。
「……明」
桜は掠れた声で呼んだ。
その後、桜は病院に運ばれ俺は待合室で彼女の診断を待った。
「ね。言った通りでしょう……?」
下を向いていると、目の前に未来から来た桜が立っていた。
「そうだな……」
「……桜、さっき言いかけた3つ目の理由を教えてくれ」
聞かないといけない、そう感じた。
「教えない」
桜は真剣な顔つきでそう言う。
え……
「自分で思い出して欲しいの。告白してくれた時の約束を」
───3年前
夜の公園。桜が満開で、春の香りが風に乗って広がっていた。
明は緊張しながらポケットの中で手を握りしめる。鼓動が速い。自分でも驚くほどに。
桜はベンチに座り、静かに夜空を見つめていた。まるでこの瞬間を待っていたかのように。
「桜……」
彼女がゆっくりと顔を向ける。
「ん?」
深く息を吸い込んで、言葉を絞り出す。
「俺は……桜のことが好きだ」
その瞬間、空気が変わった。
桜の目が少しだけ見開かれる。何か
「……ずっと、言おうと思ってた。でも、怖くて……桜との関係が壊れたらどうしようって。」
「俺は、お前とずっと一緒にいたい。」
その言葉に桜はゆっくりと微笑んだ。
「……馬鹿だなぁ、明は。」
鼓動がさらに速くなる。
「なんだよ……?」
「ずっと待ってたんだよ……?その言葉を」
桜は涙を瞳に貯めながら嬉しそうにそう言った。
「これからも、ずっと一緒にいてくれる?」
桜は小さく頷いて、優しく微笑んだ。
「……うん。私も、ずっと一緒にいたい。」
「私……ずっと夢だったの。好きな人と結婚して、おかえりとただいまを言い合うの。だからね明、これからの人生、毎日私におかえり、ただいまって言ってください!」
「…なんだよそれ」
「もー私真剣なんだからねっ私の小さい頃からの夢だったんだから」
「大丈夫。分かってるよ」
「これからずっとただいまとおかえりって言い合おう」
「うん!」
───
俺は、馬鹿だ……!どうして忘れていたんだろう……。
桜との大切な約束を。
「思い出してくれた?私とあなたの約束を。」
「……うん。桜……ごめん。約束を破ってごめん。おかえりを言えなくて、ごめん。」
彼女を強く抱きしめながら謝った。
桜は、優しく俺の頭を撫でながら言った。
「明、あなたにはまだ、その約束を果たせる人がいるでしょう……?」
その後俺は急いで待合室を飛び出した。
『この世界の私は、間に合ってよかったな……。約束……果たしてあげてね。』
────────
桜の顔を見つめながら、明は未来の桜の言葉を思い返していた。
「自分で思い出してほしいの。告白してくれた時の約束を。」
───何があっても、ずっと一緒にいる。
あの日、桜の手を握りながら交わした約束。
それはただの言葉じゃなく、ふたりで歩んでいく未来への誓いだったはずなのに──。
「俺は……ちゃんと、桜に向き合えていた?」
問いかけたところで、答えはもう分かっている。
未来の桜がここへ来た理由。
その「3つ目の理由」は──
約束を果たせず、別れを迎えた未来を変えるため
そんな未来があるなんて想像しただけでもすごく怖い。
桜はずっと願っていた。愛する人と「ただいま」と「おかえり」を言い合う未来を。
そして、その未来が続いていくことを。
明は静かに桜の手を握った。
「これからも、桜に『ただいま』って言い続けるよ。」
その時、桜の指がわずかに動いた。
「あきら……おかえり。」
それは、かすかだけど確かに聞こえた声だった。
「ただいま……!」
明は微笑みながら、彼女の手をそっと包み込んだ。