▼第四話「王女ユノ」
長い道のりを経て、ユピテルはついに王都オリンポスに到着した。巨大な城壁に囲まれた王都は、焼け落ちた村とは対照的に、活気に満ち溢れていた。人々が行き交い、市場では様々な品物が売られている。
ユピテルは、その賑わいを複雑な思いで見つめた。この平和も、ティターンたちが襲ってくるまでの束の間の平和に過ぎないのだ。
そのとき、騒がしい声が聞こえてきた。見ると、数人の衛兵が一人の女を追いかけている。
女は、十六歳くらいであり、ユピテルよりも少し年上であるように見えた。
ユピテルが強化された視覚でその顔を見たとき、心臓に矢が撃ち抜かれたのかと錯覚するほどの痛痒を覚えた。
艶やかな黒髪を振り乱し、少年のような格好で屋根の上を飛び回っているその女は、美の女神かと見まごうばかりであった。
「捕まえろ! ユノ姫を逃がすな!」
衛兵たちの叫び声で、どっちに味方するか、瞬時にユピテルの心が決まった。ユピテルが右手を高く掲げると、兵士たちが念動力によって地面に叩き伏せられた。そして目に見えぬ精神の鎖でその場から動けぬようにすると、瞬速の歩法で、屋根の上をひた走る、ユノと呼ばれた女にすぐさま追いついた。
「待ってくれ!! なぜ追われている? 助けになれないだろうか!?」
「チッ!! あんたも父の追手!?」
ユノはいきなりユピテルに殴りかかった。それは一介の女人の水準を遥かに上回る、鋭い突きであった。が、ユピテルは瞬間的に意識を集中し、その拳を念動力で制止した。
「追っ手なもんか。俺がその気なら、もうとっくに捕えてるだろ?」
「そのようね」とユノは固まった拳を見て、苦笑いした。そして、屋根の上から、衛兵たちも同じ力で地面に転がっているのを見た。「あんた、ティターンの人間なの?」
「ああ、半分な。母がティターンなだけで、俺はヒト族さ」
ユノは目の前の少年をじっと見た。この若さにして、身長百八十センチちかくもあり、堂々とした上背である。それでいて、顔はヒト族のそれであり、恐ろしさなど少しも感じられない。彫像のように完成された美しい顔であり、肌は抜けるほど白かった。目には勇気と知性、そしてなぜか悲しみが感じられるのだった。そして、いまは恋の情熱がありありと浮かんでいる。
ヒトの身体に、巨人の身体能力とサイキック能力を併せ持つ、目の前の少年は、まるで一個の芸術品のようだった。
「誰の差し金でここまで来たの?」
ユノの疑り深い目も、ユピテルには愛くるしくてたまらない。
「たまたま通りがかったんだ。あんたのような人が追われてたら、助けたくもなる」ユピテルは頬を赤らめた。
「ふん、かわいい顔してるのに、口は一人前なのね」
風が、吹き抜けた。ユノの黒髪が風になびき、白く美しい首筋を彩った。十五歳のユピテルは、はじめて恋というものを知った。
「まあいいわ。助けてくれたのは事実だものね。ありがとう」ユノは頭を下げて礼を言った。「じゃあ、私は行くわ」
「行くって、どこに?」ユピテルは焦った。この機会を逃せば、二度と会えないかもしれないのだから、その狼狽え振りも無理はない。
「行く当てはないわ。でも、行かなきゃ。捕まったら父に殺されるもの」
「なんで親に殺されるんだよ!! とりあえず、詳しい事情を教えてくれないか? 何か、助けになれるかもしれない——」
サートゥルヌスは、盲目の預言者ティレシアスの言葉に打ちのめされていた『汝の子が汝を滅ぼす』その簡潔で冷酷な予言は、彼の心を深く蝕んでいた。
唯一の愛娘、ユノ。彼女が自分の命を奪うなど、考えたくもなかった。しかし、ティレシアスは神々の言葉を伝える者だと信じていたサートゥルヌスにとって、その言葉は、絶対だった。
苦悩の末、サートゥルヌスは狂気に駆られた。
娘を殺せば、予言は回避できる——王は兵に娘を捕らえることを命じた。
が、それを事前に察知したユノは、侍女の助けを借りて王城を抜け出した。
「というわけなのよ」
王都オリンポスのスラム街の広場で、露店で買った、木の器に入ったベリーのジュースを葦のストローで飲みながら、ユノが事情を語った。
ユピテルは、ユノが王女だったことに驚いたが、同時に運命も感じた。
王に会い、兵を借りることが、ユピテルの目的だったのだから。
「しかし、その預言者ってやつ、随分と胡散臭いな」
「ほんとよね。お父さまも、そんなやつの言うこと信じるなんて、馬鹿みたい」
ユノは寂しそうに笑った。父にとって、私はそのようにして簡単に始末できる程度の存在なんだ、という思いが、胸を締め付ける。
ユピテルは少し迷ったが、ユノの手を握った。心の闇には、温かさこそが救いとなるということを、ユピテルは知っていた。
ユノの手は冷え切っていて、氷のように冷たかった。それは悲しみの温度である。
ユノはその手を振り払うこともなく、彼の体温を感じていた。
「その預言者が食わせ者だって、お父さんに分かってもらおう。だって、君はお父さんを殺す気なんてさらさらないんだろ? な、インチキだってわかれば、君の生活が取り戻せる。俺と一緒に、城へ帰ろう。君の安全は保障する」
「でも……」とユノは言い淀んだ。「たとえ父が思い直したとしても、私は捨てられたってこと忘れられないから。元の関係には戻れない」
ユピテルは、ユノの目をじっと見た。ユピテルの瞳は、ユノがいままでに見知ったもののなかで、最も美しいものだった。
「それでも、このまま命を狙われ続けるより、マシさ。それに、俺は両親が二人とも死んでるんだ。仲違いしたくても、もう出来やしない」
ユノは、ユピテルの瞳のなかの悲しみがそこから来ているのだと気付き、はっと息を呑んだ。そして、握られていた手をひっくり返し、両手でユピテルの手を包んだ。
「わかったわ。あなたの言う通りよ。城に行きましょう」
「それがいい! ニセ預言者の鼻を明かしてやろう」
ユノはようやく明るさを取り戻した。未来の希望や計画が、いつだって人に明るさをもたらす。
「そうだ、あなたはどこの人なの?」とユノはユピテルの身の上に興味を示した。
そして、ユピテルは、この数日の間に起きた出来事を、すべて包み隠さず喋った。
ユノは、涙を流しながらユピテルの話を親身に聞いた。ユピテルは、ユノの涙に誘われ、涙を流した。そして、自分の心の奥深く、復讐心の裏にしまいこんだ悲しみを、ようやく自覚した。俺は、悲しかったのだ、とユピテルは心の内で認めた。
二人は見つめ合った。お互いに、とても他人とは思えぬのだった。心が、魂が、強く惹きあっていた。
そして二人は城門に堂々と姿を現した。衛兵たちはユノを見つけ、一斉に駆け寄ってきたが、ユピテルが手をさっと振ると、軒並みばたばたと倒れていった。
数十人分のネアンデルタール人のサイキックを吸収したユピテルの力は、もはや常人を遥かに凌駕する力を持っていた。衛兵程度に抵抗できる者など一人もおらず、二人はそのまま悠々と城内に入っていった。
「この時間なら、いまごろ謁見の間でティレシアスと話しているはずよ」とユノが言った。
謁見の間に行くまでに、さらに数十人の兵士を追加で失神させた。数十人もの兵士が、人形のように折り重なって倒れている。ユピテルのサイキックが、音もなく、確実に彼らの意識を刈り取っていったのだ。それはユピテルにとって他愛もないことであった。
そして、二人は重厚な扉の前に立った。
ユピテルが軽く手をかざすと、扉は無音でゆっくりと開いた。
謁見の間では、サートゥルヌス王と預言者ティレシアスが何事かを話し込んでいたが、扉の開く音と、そこに現れたユノの姿に、王は鋭い視線を向け、警戒の色を露わにした。そして、低い声で衛兵を呼んだ。
「誰も来ないわよ。全員気絶してるもの」とユノが言った。
「な、なんだと!!」とサートゥルヌスは怒りで目を剥いた。「わしを殺しに来たのか!!」
「自分が私を殺そうとしたからって、私まで同類にしないでよね!! さ、ユピテル! やっちゃって!!」
ユピテルは頷き、意識を集中した。精神回路に接続するまで、わずか一秒。
「ウルカヌス、本当のことを喋らせろ」
『かしこまりました、マスター』
ティレシアスの目は虚ろに宙を彷徨い、口元には泡が浮かび始めた。そして、絞り出すような声で、彼は語り始めた。
「……私はマケドニア人だ。……王に取り入り、この国の弱体化を……マケドニア王から命じられた」
サートゥルヌスは盲目のティレシアスが何を言っているのか信じられないようだったが、その意図はすぐに理解できた。後継者のいない国は、内乱の火種を抱えることになる。さすれば、この国の領土を切り取ることも訳はない。
「なんてことだ!! マケドニアだと!!」王の声は怒りと困惑に震えていた。
「王よ、これではっきりしたでしょう。ユノの処刑命令をすぐに取り消してください」
「貴様、邪術を使って余を謀るつもりか!!」王は、自分の決断が間違いだったと認めたくはなかった。
「何をおっしゃいますやら。それならば、偉大なる王にこの術を使うことも出来たでしょう」
サートゥルヌスは大きく首を振り、顔を歪めた。
自身の不明を痛烈に恥じたのだ。
「わかった。ユノの命は保証しよう」
「お父さま、私はお父様に捨てられたこと、絶対に忘れないから。命令を取り消しても、なかったことにはならない」
ユノの声は震えていた。瞳には大粒の涙が溜まっている。
「わかっておる、わかっておる……。すまなかった」
サートゥルヌスは頭を下げた。ユノは顔を背け、涙を流した。謝罪は受け入れるが、許すことはできない。
「そこの者、お前は一体何者なのだ」サートゥルヌスはユノの隣にいる男に尋ねた。
「ここより西の地、狼の村からやってきた、マールスの子、ユピテルと申します」
「ああ、マールスといえば、あのデメテールを娶った勇敢な男ではないか。とすると、お前はティターンとのハーフか」
ユピテルは首肯した。
「この地に何用があって来たのだ」
「村にティターンのやつらが攻め入ってきて、父は死に、妹は攫われました。王よ、私に兵を貸してください。このままでは、オリンポスにもティターンの兵が押し寄せてくるでしょう。私にティターン討伐をお命じください」
「なんと、ティターンが!」
サートゥルヌスは驚きのあまり、玉座から立ち上がった。
「マールスとデメテールが結婚し、両種族が平和に暮らしていた時代は、もう終わったのだな。……戦乱の時代が来る」
「お父さま、この方に協力して差し上げて」ユノは身を乗り出して、懇願した。「私の命を救ってくださったのよ。それくらいしなきゃ罰が当たるわ」
「よかろう」
サートゥルヌスは重々しく頷いた。
「だが、兵を貸す前に、その力、しかと見極めさせてもらう。兵を借り受けたいのであれば、貴様の資質を、余に示すのだ」
(つづく)




