18
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部屋には薄明かりが灯されていた。小さなオルゴールの音色が、そこに、せめてもの慰めを与えている。それ以外の音を忘れようとする空間に、細い息遣いが紛れていた。
冷え切ったベッドに横たわるホリーは、腹の膨らみを力無く擦ると、鼻歌を、声になり切れない息で歌っていた。
サイドテーブルのランプが、黒い長髪で半端に閉ざす顔に、いっそう影を落としている。艶を失い、通すにも手が閊えそうな髪は、今日も涙で凝固していた。
遮光カーテンではノイズまで防げなかった。窓には段ボールを貼り、隙間という隙間に布を詰めた。
玄関に独自で設置した宅配ボックスは、そろそろ注文の品が溢れているかもしれない。防音対策グッズを購入したものの、取り付けられないまま、どのくらい時が過ぎたのだろう。
数日おきに身内が訪問していたサイクルが崩壊した。幸い常備品は潤っているが、取りに行こうにも立ち上がる気力が損なわれ、今日は数える程しか歩いていない。
両親から贈られた毛布を、そっと腹にかけ直した。息子のためのそれを肌身離さず持ち、2人だけの時間を、とにかく楽しもうとしてきた。
寝室の照明は、いつからか点けなくなった。強すぎる灯は外に漏れてしまうだけでなく、この場の無惨な光景をさらしてしまうからだ。
ただ視界から遠ざけるために壁に寄せられた大量の紙は、プリンターから出て落ちたままのものや、丸めて捨てられたものもある。休職願の返答、滞った仕事を仲間に引き継ぐためのリスト、心配するメッセージが、山を成している。
しかし、それらを大幅に埋め尽くすのは、いたずらや揶揄いの言葉が綴られた、心無い、焼いても焼ききれない悪魔の囁きが詰まった箱だ。処分しようにもできないのは、外に出た途端、荊に満ちた敷地内を無防備に進む様な、そんな激痛を負わされるのが目に見えているからだ。
外壁を見るのも、玄関を解錠する音を立てるのも、考えただけで震え上がる。庭の植物はもう、枯れてしまっただろう。恐れと罪悪感に満ちた涙は、一向に止まなかった。
壁のカレンダーは、夫が帰らなくなった日から、赤のバツ印で埋め尽くされている。途中にある丸印にこそ、濃く、太く刻まれていた。
出産予定日が、遥か遠いところに置いてけぼりになってしまった。
少々息を吹けば、埃が舞った。棚や書籍、紙類の全てが、埃の膜で存在を消し始めている。壁に飾っていた家族や夫婦の思い出、仕事での思い出が、デスクや床、棚の裏側にも落ち、ピンと共に散らばっていた。
パソコンを含む機械類は冷え切っている。それらの点滅すらも目障りで、根元から引き抜いた。電源を入れようものなら、家中がコールで犇めくに違いない。液晶をつけようものならば、何を見せつけられるのか。
モニター周辺に散らばる破片に、ずっと目を瞑っている。気にしたくないのに気にしてしまうのは、指先の傷のせいだ。しかし、身体は鉛の様で、なかなか起きられない。
絨毯の仄暗い影が、置き去りになった数枚のエコー写真に重なる。
妊娠をして2年目に入った。妊娠しているのかどうかを疑うほど、腹が出てこなかった。息子は、成長が極めて遅いという特徴があった。診断結果は常に安定しており、ただのんびりと大きくなっているだけだと宥められてきた。それもまた個性であり、それが我が子なのだと受け入れ、腹越しにずっと、息子を撫でてきた。
ところが、ある日を境に、息子は成長を思い出した様に大きくなった。今や、いつ産気づいても不思議ではない。だが、その兆しは全くない。人工分娩を勧められても、母体に異常がない以上は、自然分娩をすると決めていた。
涙や不安が押し寄せた時に、息子の動きを感じる。当然の様に起こるそれは、何としてでも生きようという気力をくれた。
「坊や……パパは……生きてたわ……」
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サスペンスダークファンタジー
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