17
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ステファンは、大木の枝の上に身を預け、遠くの夜空を眺めていた。
冷ややかな風が運ぶ静寂が、昂りを忘れさせてくれる。今の自分は、また別の生き物のようで、不思議な感覚に呆然とさせられると、眼が閉じかかる。その時――身体から力が抜けていくのを感じた。
傾いた途端、肩が跳ねた。枝を掴みきれずバランスを崩し、蔓が垂れる様に滑り、転落した。
激しく撃った全身よりも、心の痛みの方が上回っていた。何かで直に打たれた様な疼き。或いは、まるで、今日まで身体を雁字搦めに縛り付けていたやり場の無い感情や、癒えずに蓄積した痛みが、爆ぜた様な心地だ。
手や肩を動かしてみると、随分軽かった。これまでに無い解放感を得た気がする。何かに突き落されたのかと、灯の様に揺れる銀の眼で、頭上を仰いだ。しかし、コヨーテや他の動物の気配はなかった。
薄気味悪い静寂に、しばし緊張の鼓動が響く。眠りの邪魔をされた焦燥感が、沸々と込み上げてきた。ところが、鼻を擽る仄かな甘い香りが、身体の熱を拭っていく。
秋風に絡むそれは、今にも破れそうな程に薄く、棚引く様だ。そのまま、身体を染めつくす銀の光までもが、吹き払われていく。
ステファンは、その香りを追おうと、ほんの1歩、恐れていた街の方に踏み出した。すると、匂いの濃さが僅かに増した。思わず、手繰り寄せる様にそこら中を嗅ぎ回る。足は、みるみる森の外へ向かっていった。
* * *
森を出るなり、不思議な感覚がした。恐れや怒りを抱いていたあらゆる対象物を、一切感じない。季節外れの冷た過ぎる風に、色とりどりの木の葉が夜を飾り、込み上げる焦燥は穏やかになっていく。
そのずっと先に、眼を凝らした。広がる芝生に、誰かが背を向けて佇んでいるのが見える。黒い一筋の影は、凛々しく咲く一輪の華の様で
――綺麗……
匂いの出所に気づくと、ステファンの足は、求める様に動いた。だが、1歩を踏みしめかける手前、慌てて立ち止まった。
そこにいるのは猟師ではない。それが分かると、今の自分の行いに、困惑のあまり首を振る。するとまた、冷め切っていた熱い感情が沸き起こり、胸の奥から末端まで、血流が一気に巡るのを感じた。
その香りに、爪を立てる訳にはいかない。そう察した、次の瞬間――華の様なその存在は、大きくこちらを振り返った。
その人を傷つけるまいと、ステファンは右手首を握る。意に反して暴走しかねない両手を、抑え続けた。それが限界だった。
その人の前に立つ事は間違っている――細胞が、銀の液に侵食されながら、そう訴えてくる。重ねざるを得なかったこれまでの行いは、たった今流れているこの瞬間を迎える事は誤りであると、意識を塗り替えてくる。
しかし、振り向いたその人の視線に、そんな思考すら止められた。互いに声も無く目を見開き、見つめ合っている。その間を、落ち葉の幕は揺れ続けた。
灯の様な笑顔が見えるにつれ、その人が女性だと分かった。そして、その頬に滴が光ったのも束の間――彼女は、急に腹を押さえ、膝から崩れ落ちてしまった。
強く押さえつけられている腹から、ステファンは、別の小さな匂いを嗅ぎつけた。すると、導かれるように身体が動きだし、気づけば、彼女を抱き寄せていた。濃く立ち込める香りは鼻腔を貫き、脳のずっと奥に押しやられていた、愛おしい記憶をとうとう引き摺り出す。
「ホリー……?」
幼児の様な問いかけをこぼすのが、やっとだった。木の葉が、恐怖と美麗が入り混じる銀の眼光ごと、吹き攫う。
その時――ホリーは、汗と涙に濡れた微笑みで、夫に力強く頷いた。
「おかえりなさいっ……」
声を陣痛に呑まれながら、ホリーは、ステファンを抱き締めた。夫の背中は、これまでにないくらい、温かかった――
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サスペンスダークファンタジー
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