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竦んでいた足が、少しずつ動き出した。向かう先――ライブハウスにメンバーがいると、頭で閃いた。それと同時に、風に吹かれてきた強い香りに、首を引っ張られる。辺りを見回し、やがて、背後を大きく振り返ってみると
「アックス?」
レイラが驚きながら、笑みを浮かべて小走りでやって来た。彼女は傍へ来るなり、アクセルの首後ろでチラつくものに眉を寄せ、それを摘む。
「ちょっとタグ! ダサイと思われるわよ」
そう揶揄いながら、彼の背中に回ると、ただ紐で結ばれていたそれを取り外した。アクセルは、時折首に触れられる感触が、ほんの僅かな面積でありながら、温かく感じた。
「だから、イケてないって言っただろ」
そう歌うくらいなのだからと、アクセルは昨夜を思い出した途端、彼女の温度を手放したくない気持ちでいっぱいになる。
「イケてるなんてもんじゃない。あなたは、最高なの……」
レイラは力強い眼差しを彼に向けて言うと、再び、柔らかな笑みを浮かべ、取り外したタグを揺らして見せた。そしてそれを、自分のポケットに仕舞った。
「ここで何してるの?」
互いの質問が重なると、2人は腹を擽られた様に笑った。温かさが増す、香り高いひと時は、込み上げる不安と焦りを解消してくれるだけでなく、開け忘れていた記憶の引き出しを、そっと引いてくれた。
「サウンドチェックを含めたリハだって聞いて、見に来たの。本当は、当日の楽しみに取っておきたかったんだけど……」
レイラは僅かに視線を逸らすと、小さな笑みで、何か言おうとしていたものを胸に隠してしまう。
影に潜むそれが、一体何なのか。どこかで分かっていながら、アクセルは気付けば、彼女を胸に抱き寄せていた。いつまでも傍で、嗅いでいたい。加減も忘れて、このまま満たされるまで包んでいたい。そんな願いは、身体の末端から寒気を感じさせ、少しずつ震えに変わっていった。現実を突きつけてくる、異なる細胞。そこにレイラを迎え入れている違和感が、沸々と増していった時、彼女を静かに手放した離した。
「嬉しいよ。でも、昨夜とは違って、今日はかなり煩いぜ。満場一致で音が気になる曲だなって、珍しく皆で不安になったやつ」
自然と浮かんだ当時の様子を、滑らかに言葉にできた瞬間、自分が自分で在れていると強く感じた。そしてそれは、半ば穴空き状態になりつつあった歌詞を、どんどん埋めてくれる。
「いいじゃない、ギャップは好きよ。来られてよかったわ」
レイラは歯を見せ、まるで胸の高鳴りに合わせるかのように、手を差し出した。2人は、そのまま手を取り合う。
目が合うと、一瞬、時間が止まった。辺りの音が、互いの音と入れ替わり、鳴り響く鼓動が大きくなっていく。
誰かの薬になる――1つの強い意識が、ふと、互いの間に花開くように浮かんだ。無言の頷きを見ている。そんな気がすると、2人の瞳は光に満ちていく。
アクセルは、そっとレイラの手を引くと、ライブハウスに向かった。
この瞬間を満喫したかった。これまでの日常を、これまで通りに過ごし、その日を締め括る。そんな当たり前の生き方を、今だけはしていたかった。
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サスペンスダークファンタジー
COYOTE
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