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森での時間は、30分も満たないくらいだった。アクセルは、移動の速さだけは幸いだと、ライブハウスの近くまできて胸を撫でおろす。だが、汗だくな上に土汚れが酷く、そのままメンバーに会う訳にはいかなかった。
道行く人に紛れて目的地を目指していると、水と花の匂いに鼻が反応した。通りに花屋があり、その裏口と思しき扉の横を見ると、ホースが挿さった水道があった。作業場だが、開いたままの戸口や窓を窺っても、誰もいない。手を洗うだけならばと、足早に蛇口に向かった。
ところが、水は一向に出てこない。何周も巻かれたホースを、水がぐずぐずした速さで通っており、舌打ちが零れた。更に蛇口を捻って水を待つのだが、ホースを抜けば済む事ではないかと、その手であっさり引き抜いた途端――頭上の窓から、犬の激しい吠え声が降りかかり、蛇口に前のめりになった。
『おい水泥棒が! とっとと出てけ!』
「うるせぇな、手ぐらい洗わせろ!」
アクセルの声が獣の威嚇に変わった途端、犬が甲高く怯んだ。
『冗談だろ!? コヨーテだ、お父ちゃん! コヨーテ、コヨーテ!』
アクセルは、苛立ち混じりに溜め息を吐き、両腕を眺めた。ぐっしょり濡れてしまった服をどうにかせねばらなず、辺りを忙しなく見回す。すると、洋服店に目が留まった。
迷わず入店すると、店員の白い目も余所に、せめて上着の替えだけでもと、ハンガーを漁る。
「ちょっとお客さん。商品濡らさないでよ。何て格好してんの」
スマートフォンから怪訝な顔を上げた、化粧のよく映えた大柄な店員が、アクセルの足元に滴る水に目を細める。
「あー……ハロウィンのリハだ! ハイドロ人間になろうと思ってて、リアルを求め過ぎた。これ着てっていい?」
アクセルは、セールの札がついた、黒色のシンプルなスタジアムジャンパーを手に、愛想よく笑った。店員が肩を竦めたのをよしとし、アクセルは濡れた上着を仕舞うと、その場で新しいそれを羽織る。僅かに大きいが、気にせずレジに向かった。
「ちょっと脱ぎなよ。バーコードが読めないじゃない」
アクセルは表情を取り繕いながらも、意識は傍の姿見に向いており、自分を隈なく確認する。そして、床を濡らした詫びだと言って、釣りを受け取らずに店を飛び出した。
その時、足が急に、地面に吸いついた様に動けなくなった。先程まで記憶していたはずなのに、不意に行き先が出てこなくなり、焦りが込み上げる。落ち着けと胸で言い聞かせながら、鞄を漁った。
濡れた上着の底から手帳を取り出した。表を向けたそこには、“KEEP IT”と彫られている。暫しその文字に目を這わせた後、中を開くと、多くの殴り書きされた文字に、忽ち吸い込まれていった。
“これは全て、お前の大切な記憶だ。迷ったらこれを開いて、脳に焼きつけろ。アクセル・グレイ、忘れるな。お前は、俺は、人間だ”
それに目を見張り、更に読み進めていく。冒頭からピンときた。自分には、記憶を取り戻す力があると。
文章から、ウォークマンがある事に気付くと、取り出すと同時に再生ボタンを押した。
脳から全身を一気に響かせてくる音は、自分の感情を熱くさせ、メロディに絡み合うようだ。やがてそれは、太い杭の様になり、強い想いを胸に打ちつけてくる。
流れる歌は、沢山の人の耳を巡り巡って、今は自分に返ってきている――アクセルはそう感じながら、歌詞を噛み締めた。
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サスペンスダークファンタジー
COYOTE
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