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獣の臭い。そして血、蟲、水、土の匂い、草花や木の香りを感じるのが、近頃の変化だった。生活必需品の匂いは、鼻が捥げそうなほど鋭く感じた。しかし不思議なのは、同じ強い匂いでありながら、心地よい甘い香りがあるという事だ。
香しい、唯一無二の仄かな匂い。忘れかけていた色や形、感触を、まるで釣り糸に掛けて手繰り寄せる様に、引き出してくれる。この、吹き消せば今にも消されてしまいそうな、なけなしの香りを頼りに、ステファンは移動せずにはいられなかったのだろう。妻が近辺をうろついていた可能性など、限りなく低いというのに。
アクセルは、煌々と灯る銀の瞳を閉ざすと、ホリーの現状を想像する。まだ多くの情報を記憶している自分なら、彼女に会えるだろうかと。
『約束はどうした、坊主。くだらねぇ事考えてねぇで、さっさとよこせ。こっちは振り回されて皮だけだ』
相変わらず心を見透かしているのか。コヨーテは、苛立ちに好物を求めてくる。
「なら、くたびれろ。精々するぜ」
途端、コヨーテはアクセルの鞄を掻っ攫うと、叩きつけ、振り回した。今にも引き千切れそうになるそれを掴んだアクセルは、コヨーテを全身で抑え、睨み合う。
アクセルは、込み上げる焦燥を溜め息に吐き出すと、素直にコーンフレークの箱を出し、コヨーテの前に高く盛った。コヨーテの煌びやかな尻尾が一振りされると、土を掘り荒らす様に鼻から突っ込み、軽快な音を立てた。
アクセルは、犬そのものの態度を見せるコヨーテを凝視していると、改めて、その被毛を観察する。異様な動きを見せ、術の様なものを発動させるとなると、魔物か何かか。ありえない世界にタイムスリップさせられ、勝手に酷い物語の人物にさせられているのかと、斜め上をいく想像をせざるを得なくなる。
しかしだと、アクセルは上着を脱ぎ、黒いフーディーだけになると、両手足の裾を捲り上げた。
銀の体毛の下には、信じられないくらい硬い筋肉がついていた。一回り身体が成長したと言えるくらい、服も少しばかり窮屈に感じる。爪も厚く、試しに、傍の幹を引っ掻いてみた。そこには爪痕が綺麗に残るだけで、爪や指は傷ついてはいない。
アクセルは首を傾げると、目の前で香ばしい小山に夢中になるコヨーテに向き直る。
「銀の液は血じゃねぇのか」
『なくなったぞ』
質問も余所に、コヨーテは咀嚼しながら次を欲しがった。この場に不釣り合いなカリカリとした音が、止め処なく響き渡る。
そんな胸糞悪い態度に、アクセルは舌打ちをするものの、どういう訳か、心のどこかでそれを可愛らしいと思ってしまう。そんな不可解な自分に激しく首を振ると、2つ目の山を盛った。コヨーテは迷いなく、それを貪る。
「……お座りと、待てと、よしは、お前等にはないのか」
鋭利な眼光が、コーンフレークの山の影から貫いてきた。
『さっき座ってやったろう。そもそも飼われちゃいねぇところ、千歩譲った上でだ。そんでもお前は、何もしなかった』
アクセルは暫し考え、ここに辿り着く前のふとした瞬間を思い出す。そしてまた、今度はその時を吐き消す様に溜め息をこぼした。
闇に小さく聳える黄色い山が、みるみる崩されていく。こんな時によく食事ができるものだと思うのも束の間、アクセルは空腹に襲われた。
『そちらさんの言葉でいうところの、組織液だ』
コヨーテの急な返答に、アクセルは目を見張る。
「どうすれば元に戻れる。ステファンも」
単刀直入に訊く他はなく、身体は前のめりになる。
『何だ。惚れてるんじゃねぇのか、その身体に』
「な訳ねぇだろ! 忘れちまうっていう最大のデメリットがあんのに!」
アクセルが地面を殴っても、コヨーテは表情を変えず、彼を眼光で照らした。その場は、面白がる様な咀嚼音だけになった。
※組織液
間質液とも呼ばれ、細胞と細胞の間を満たす生理的な液を言います。血液から染み出た成分で構成されており、栄養共有や老廃物を除去する役割があります。血管を持つ動物に存在している体液の1種です。
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サスペンスダークファンタジー
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