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※「♪」がついた説明は、曲紹介です。
後書き/前書きもお楽しみ頂けますと幸いです。
軽い挨拶をしながら入室すると、体格のいい教師がピアノを弾いていた。
「やぁグレイ君、いい朝だね。今日みたいな日こそ、クラシックがよく合うよ」
部屋中が陽射しに満ち、棚に詰め込まれた本は温められ、早くも色褪せそうになっている。窓の外からの草木のざわめきと、鳥の囀りが、教師が奏でる古風なメロディと合わさり、爽快だ。なのにアクセルは、どうしても眉を寄せずにはいられなかった。
「……あれ、何で? ああ、部屋を間違えました」
「ミスターは腹を壊したみたいでね、私が代わりに。さぁやろうか」
よく鍛えられた上半身が、薄めの白いシャツを介して主張している。それに目が勝手に引き寄せられると、懸命に生地を留めるボタンが、はち切れそうだと悲鳴を上げている様に見えた。
「どこが気になるかな?具体的に」
アクセルは、首だけの否定に愛想笑いを添えると、手足を軽く振り、肩甲骨を回して伸びをした。
「ちょっと見ない間に引き締まったんじゃないか?」
気のせいだと、アクセルは標準的なトーンで教師に被せて返すと、強く息を吐き、幾らか巻き舌で発声した。いい音程に繋げるために、舌や、舌の根元を脱力させて喉を開いていく。
教師は、生徒の軽い準備運動に、気持ちを切り替えられていく。
「口角を指先でちょっと持ち上げて。いつものリップロールからだ。慣れただろうから、ペースは早歩きで、長距離を行くぞ。トップスルーからバックスルーの繰り返し。お腹とお尻がガチガチだから解して」
身体を貫通しそうな教師の視線に、アクセルの瞼がどこまでも下りようとして痙攣する。じかに触れられている訳ではないにも関わらず、その視線は、ゆっくりと肌を撫でてくる様だ。気に入ってくれているのだろうが、如何せんムズ痒い。
5音を基調に、軽やかな伴奏が駆け足で鳴り響くと、出だしの音を投げられた。アクセルは、それを耳でキャッチし、テンポ良く鳴り始める伴奏に合わせ、唇を震わせた音に変えながら教師に打ち返す。ピアノになった身体で、早歩きで坂道を上る様に、伴奏も半音ずつ上がっていく。日常で出す声の高さから、幼児が出しやすい高さに。汽笛に近い音まで上り詰めたら、来た道を同じ速さで下っていく。この1往復を2分で終えると
「次、そのままNeiで通して」
間髪入れずに投げられる音を、指示通りの言葉で投げ返していく。その次の往復はNoで返し、そのまた次の往復では、峠と麓でロングトーンに変えて投げ返した。
合間に入った指導を含め、20分ほどで終わると、2つ目のウォームアップに移る。60年代の古い映画に使われた、水面に揺蕩う月明かりに溶け出しそうになるバラードは、どの楽器で演奏してもしっくりくる、有名な美しい曲だ。
ピアノサウンドが、陽光に満ちた空気をとろけさせる。夜を背景に呟く様な歌でありながら、微風が、それを朝の音色に作り変えていく。そこに、カップから立つ湯気の様な柔らかな声を、そっと乗せていった。
新しいロックミュージックばかりを口ずさみ、古い音楽にあまり関心を持とうとしなかった時期がある。しかし、歳を重ねるにつれ、過去を振り返り、当時の良さに向き合うようになった。
歌詞をただ読み上げる様な歌い方から、いつしか、心から感情を込めるようになった。それは、彼女と初めて、正式と呼べる会話をした時だったと思う。
短いながらも、長い河を永遠に下り続けようとする音は、やっと聞こえなくなった。
「……パートナーでもできたのかな、グレイ君」
教師は、何故か目を震わせている。アクセルは、暫し目を瞬きながら考えた末
「まぁ……あれ、知りません? 去年ハロウィンのステージで歌ったから、てっきり……バンドを組んだんだ、3人とも最高だよ」
「3人だって!?」
教師の激しい起立に、アクセルは肩を跳ね上げる。そのまま、教師の反応については詳細に考えず、一刻も早く次の曲を弾いてもらおうと、ピアノの上にある楽譜を慌てて開いた。流れてくる例え難い汗は、なかなか止まらなかった。
♪「Moon River」
1961年公開映画「ティファニーで朝食を」にて、主演女優のオードリー・ヘップバーンが劇中に歌った曲です。それを、Chapter13というバンド(活動休止中と思われる)のボーカル、Tom Abisgoldがカバーしているものを、アクセルに重ねています。(YouTubeにて探して頂けます)
※リップロール
息を吐きながら唇をぶるぶると震わせるやつです。
※ロングトーン
語尾を伸ばしているイメージです。
※トップスルー/バックスルー
だんだん上がっていって、だんだん下がっていくイメージです。
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