21
息子を待たず、母は静かに入室した。感情のまま投げられた鞄や服を拾い、椅子に乗せると、デスクのスタンドライトを点けた。
濡れたままだというのにと、持ってきたバスタオルを差し出すのだが、息子は受け取ろうとしない。いつもならば自分でさっさと済ませるだろうと、首を傾げるも、その手で髪や身体を拭いてやる。
アクセルは、母を拒む気にもなれず、ただされるがまま、その優しさに浸った。
「珍しいのね、喧嘩なんて。昨日、あんなに仲良くしてたのに」
それは都合のいい勘違いだった。声が出にくい今は、そのままの理解でいてもらおうと、アクセルは空笑いする。
母に触れられる内に、心が和らいでいく。言葉がなくとも、近くにいるという実感に、救われる。顔を覆っていた腕を退かした時、ふと、ホリーの事が浮かんだ。
「母さん……」
アクセルは、何かを話すよりもまず、ホリーにステファンの影が重なるのを見た。コヨーテの姿をした彼に言葉を失うと、ついに、自分の影までもが合わさっていく。
そこには、夫の帰りを待つ妻と子どもがいる。夫婦で決めた家で、今でも、共に生きようとしている。テーブルを囲み、リラックスをし、心身を満たし合う時間を取り戻そうと、妻は戦っている。夫は襲撃事件の容疑者だと、世間に言われながら。
自分は、その家族の在り方は間違っていないと、訴える事ができる。誤解があるのだと、訴える事もできる。
ホリーの話を投げかけた時のステファンの変化に、僅かであれ、手ごたえを感じた。ステファンはまだ、完全に記憶を失っていない。否、忘れる事など本当はできないのではないか。彼の人柄は、妻の行いを見れば明らかだ。
超人的な身体は、これから更に能力を増していくに違いない。その間に何ができるのか。少しして、ある選択肢が浮かんだ時、その向こうに広がるものを暗闇に見た。そこには、大きな代償が波打っており、息をのんでしまう。そのせいで、母の柔らかな促しに、首を横に振るしかできなかった。
母は、息子が何かに怯えているのを察するも、その震えを取り除こうと、髪や額にただ触れる。
アクセルは、母の指先から感じる心地よい温もりと、感触に癒されていく。そして、意識が遠ざかりそうになるところを、瞬きで繋いだ。
「……忘れない?」
妙な質問をしてしまっても、母は変わらず、頬を撫でてくれる。
「忘れた事なんてないわよ」
母は、スタンドライトの光を受ける息子の目を見ながら、言葉ではない愛を、指先で伝え続けた。悲し気な目にも、戦おうとする目にも見える。そんな息子は、何かを抱えている。何かに打ち込もうとする時の様子は、幼少期から変わらない。当時は不器用で、努力が不発に終わると、泣いて怒ったものだ。だが今は、大人の顔をし、あらゆる思考を巡らせ、物事と向き合うようになった。
「家族を忘れるなんて事は、なかなかできないんだわ。いがみ合っていようとも……例え、恨んでいようとも……」
馬が合わなくなった夫と離れ、精々したと思っていても、毎日、どこかでその顔が浮かぶ。嫌な思い出と共に現れるのが大半であり、億劫になる時もある。その一方で、これでよいのだろうか、と考えさせられる時もある。忘れてしまってもよい事はあっても、未来のために残しておいた方がよい事もまた、ある。
アクセルは、やっと母を見た。叱りもせず、深く問い質す事もせず、今必要な事に、静かに徹している母を。その手と、信頼ある眼差しに守られてきた。だけど自分は、それを――
「なぁ母さん……暫く言ってなかった……愛してるよ……」
口にした途端、熱いものが込み上げた。視界が、胸と唇と共に震えていく。
母は、はたと、手を止めた。息子の真っ直ぐな眼差しと、渇いた声で懸命に紡ぐ言葉に、生気を感じた。息子らしい表現に頷くと、額に唇を押し当てる。いつしか、させてもらえなくなっていた。久しぶりに間近で見るその顔は、どうであれ、愛らしかった。
アクセルは、母の肩にそっと腕を回すと、背中の温もりを感じていく。そして、その先に広がる空間に、糸が細くなろうとも繋がり続ける夫婦を見た時、瞼に力を込めた。
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サスペンスダークファンタジー
COYOTE
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