19
息が、やっと声になった。ホリーは、薄く開いた目に灯を迎え入れると、ランプの元のオルゴールに微笑んだ。金色のゼンマイが回りながら、音色に合わせて淡い光が反射している。それを見て、再び、生きている、と呟いた。
隣にある写真立てに目がいく。骨と血管が浮いた腕でそれを掴んだ時、久しぶりに、その重さが沁みた。落としかけるところ、どうにか力を絞り出し、顔に近付ける。
肩から大きく抱き寄せてくれる夫の感触を、温度を、香りを、声を、片時も忘れた事はない。
写真は、ハネムーンとして訪れた登山先で撮ったものであり、日帰りのキャンプの真っ只中の頃だ。天気に恵まれ、澄んだ青空に際立つ山脈は、絵画の中に飛び込んだ様に美しかった。
しかし、切り取られたこの瞬間以外は思い出したくなく、ふと、写真立てをその場に落としてしまう。この日に起きたトラブルを機に、人生が狂ってしまった。
また、胸が強く縛られていく。悔いと悲しみ、壮絶な寂しさに、涙が絞り出される。何にも例え難い痛みと、恐怖と、ショックは、訪れる誰にも緩和できなかった。ただ1人だけを除いて――
息子が、また蹴った。可愛らしい足をエコーで見た時は、奇跡の灯を見た様に、一瞬だけ心が晴れたものだ。
吐き気と嗚咽が合わさり、涙声が漏れる。震えは、怯えと寒さによるものだ。どんなに温めても温まりきらない生活に、終わりを感じない。元を断っている、どれか1つの機器でも起動しようものならば、膨大な欲望を抱えた猟師――カメラを話さない記者達が襲いかかるのだろう。どうせこの壁の向こうで、幾つもの眼が光り、息を潜めているに違いない。
“動物好きと医者なら、獣医にでもなるんじゃないか?”
“それ、最高!”
逃げよう。そして夫を見つけて、息子をこの腕の中に迎えよう。
自分達は、どこにでもいる、特別でもなんでもない家族の筈だった。
自然の魂を学んで生き、人の治療に専念して生きてきた、たったそれだけの事の筈だった。少々成長に不安を感じさせる、早くも困らせてくる可愛い息子を授かった、ただそれだけの事の筈だろう。
失くしてしまったものを探したい。あると分かっているのだから、尚の事、見つけたい。壊れてしまっているのなら、直したい。寒いなら、温めたい。満たされないのなら、全力で満たしたい。例え、どんな風になっていようとも。だから――
「邪魔をしないで……」
自分達の邪魔を、どうかしないでほしい。ただ、元に戻りたいだけなのだ。貴方達と同じ生活を、自分達も再び送りたい。愛する人と、愛する我が子と共に、人生を歩みたいだけだと、叫ぶ場所も与えて貰えなくなった。
逃げよう。きっと森にいるであろう夫と落ち合って、誰も居ない場所で生きればいい。そうすれば、夫も落ち着けるかもしれない。
「会いに……行きましょうね……」
すると、息子はまた、腹を蹴った。擽ったいあまりに、今日初めての笑い声を、ホリーは力無くこぼす。
ゆっくりと身体を起こすと、髪をかき上げ、顔をさらした。暫く鏡も見ていない。見なくとも、口や瞼の動きで、どれだけ崩れているか分かる。
オルゴールの音色が緩やかになり始めた。何周も巻いたゼンマイが、今、止まろうとしている。
そっと手に取ると、もう少しだけ回した。そして、いつまでも腹の中で心地よさそうに、姿を見せようとしない息子に聞かせた。
外は今、どんな様子なのだろう。デスクや窓枠に佇む、日光を浴びる機会を奪われた観葉植物は、まるで自分を見ている様だ。
この家そのものから、生気が失われている。少し逃げ過ぎたかもしれないと、ホリーはもう一度写真立てを取った。薄くかかる埃を指で拭うと、ガラスの向こうの頬に触れる。
「……ステファン」
そしてまた、オルゴールの音色に鼻歌を重ねていた。
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サスペンスダークファンタジー
COYOTE
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