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夢みるころ  作者: 高田 朔実
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 発表まで一週間を切った頃、ようやく佐久間は「まあいいんじゃない」と言った。

「本当に?」

「ああ、でも、まだ、やっぱりもう少しだな」

「何がいけないの?」

「十回弾いて、十回とも今くらいに弾ければいいけど、現時点では、うまくいけばこれくらい弾けるってとこなんじゃないの?」

 痛いところをついてくると思う。

「畑野も言ってたけど、本番では普段と違う環境で演奏するんだから、ちょっと気が散ったらすぐ失敗に結びつく。何度も練習して、体に叩き込んで、どんな状況でもそういう弾き方ができるように備えておくことだ」

「はーい」

「練習ではちゃんと弾けてるんだから。本番でも同じ力が出せるようにね」

 たまにぽろっとこういうことを言うのが、佐久間の不思議なところだ。本番の演奏はそれほど聴きにきているわけではないのに、確かに佐久間の言う通りなのだ。一般論を言っているだけかもしれないが、彼には、ものごとのほんの一部を見るだけで、さまざまな背景を掴んでしまう能力があるようだ。だから勉強も得意なのだろう。

 その日は珍しく畑野が不在で、ほかのメンバーもそのまま帰る流れになった。美紀は自転車通学で、校門までは自転車を押しながら一緒に歩いたが、門を出るとそのまま颯爽と去っていった。香苗は佐久間と二人になった。

 ほかの人がいなくなったら、尋ねてみたいことは山ほどある。しかしいざそういう状況になってみると、なにから言えばよいのかわからない。

 駅までは、通常二十分で着く。ゆっくり歩こうとするけど、佐久間は歩くのが早めで、つい佐久間君のペースに合わせてしまう。これだと、二十分が十七分、もしくは十六分になってしまう。

「やっぱり、月はあれくらいがいいな」

 佐久間がぽつりとつぶやいた。

 西の空を見ると、そこには三日月よりもさらに細い月があった。

「なに、あれ。きれいだね。後ろに、うっすらと月の全貌が見えてるよ」

 まだ完全に空が暗くなっていないせいだからなのか。丸い月の、ほんの端っこに光があたって細く見えているということがわかる。

「一昨日は新月だっただろう。三日月になる前の、これくらい細い月を見るのが、昔から好きなんだ」

「私、こんなの初めて見たよ」

「この時間帯が暗いのは、一年のうちで陽が短い十一月から一月の間くらいだから、多分こんな月を見られるのは、この時期だけなんじゃないかな。中学生のときに、部活の帰り道で気づいたんだけどね」

 佐久間はちょっと得意げに見えた。

「それより、栗原さんに近づいたって無駄だと思うよ」

 なんのこと? とはぐらかしたいけれど、声が出てこない。

「人の私的なことに口を突っ込むなってあれほど言ったのに。まさか、妹の友達がいたとはな」

「……聞いてたの?」

「あれだけ大声で話しといて、なにが『聞いてたの』だよ」

「これを機に辞めるだなんて言わないよね?」

 恐る恐る尋ねると、

「まあ、こっちも生活が懸かってるからね」

 またしても意図がわからない返答がある。

「生活が懸かってるって?」

「実は、二年生になってからバイトを増やしたら、帰りが遅くなって、母親から苦情がきたんだ。そしてつい、『マンドリン部に入った』と言ってしまったんだ。高校生が部活で遅くなるのは、ごく自然なことだろう? そんなうそばれるわけないと思っていたのに、この間の文化祭に近所の人が来ていたらしくて、僕が演奏してなかったことがわかってしまってね。それからなにかと疑いの目を向けられてるんだ」

 彼は前を見ながら淡々と話す。

 この人が、本当にそんなことを気にしているのかと呆気にとられ、返す言葉が思い浮かばない。

「この年になってまで親がわざわざからんできてばかばかしいんだけど、今度の発表は母親が観に来る可能性が極めて高い。これでまた僕がいなかったら、言い訳が難しくなる」

「厳しいお家なんだね」

 佐久間は、じばらくの間何も言わなかった。

「月が沈むまでもう少し時間があるから、ちょっと歩道橋の上から見ていくことにするよ」

「私も、見たい」

 これは現実の出来事なのだろうかと半信半疑なまま、なにも考えないようにして、ただ佐久間の後にくっついて、階段を上る。

 橋の下を車が流れていく。光が流れていくそんな様子は、普段はあまりじっくり見ないものだ。下から見ようがここから見ようが、月との相対的な距離はほぼ変わらないはずなのに、それでも少し月が近くなった気がする。

 月が沈むまでどれくらいの時間が残されているのだろう。月なんて毎日沈んでいるのに、この月にはずっと沈んでほしくないと思う。

「中学校三年生のとき、親が離婚するしないでもめたことがあってね」

 やがて、佐久間の声がしてくる。

「それで、ピアノを辞めたんだ」

「え?」

「音楽のレッスンって、けっこうお金がかかるんだよ。母子家庭だか父子家庭だか知らないけど、生活に余裕がなくなったら、優雅にピアノなんて弾いている場合じゃなくなる。現に、周りにそういう人もいたからね」

 そう言うと、佐久間はまた黙ってしまった。

 もめた後、結局どうなったのか。訊いていいのか、悪いのか……。

「一月くらいの間、けっこう本気でもめてたけど、結局離婚はしなかった。すっかりことが収まった後、騒がせて悪かった、ピアノも受験勉強も好きなだけやってくれと言われた」

 歩道橋の下通り過ぎていく無数の車の音が、はるか遠くで聞こえるようだった。


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