譲帝
梁書本紀十三・譲帝本紀
物心ついた頃、世界に対する最初の感想は、
――自分はどうもややこしい立場に居るらしい。
そう感じたことを、鮮明に記憶している。
参州、許。
安陽からの遷都以来、許都とも呼ばれるこの街は、いまや天命が尽きようとしている梁帝国の都である。
その中枢にあって朝廷の機能が置かれた内城。その更に奥にある内宮。
一人の青年が、寝台にあって妻の膝に頭をのせている。
青年の名は呼ばれることはなく、ただ宮廷にあっては次のように呼ばれていた。
即ち、聖上。
つまり、この老帝国の皇帝が彼であった。
彼の先帝は祖父である桓帝である。青年はその嫡孫であった。
この青年が即位するまでの道のりというのは順調なものではなかった。
実父は彼が三歳の頃に流行り病で死んだ。
彼の最初の「妻」はその父である公孫夏の謀反の罪として誅された。
安陽を捨て、許に移った桓帝が失意のうちに斃れた時、残された後継者候補で最も尊貴であったが故に、彼の即位は権臣たちの争いの種となった。なにより、既に誅されていたとはいえ、「謀反人の娘」を妻としたことが――例えそれが当時の桓帝の指示とはいえ――問題視された。
彼の前に、二人の玉座の主がいた。
結果的に歴代の皇帝に数えられることなく二人はいずれも廃され、当時齢十五だった少年が正式に即位した頃。
梁は大樹の守りを失い、代は賢弟を失い。
雍を飲み込んだ楚は北伐を始めるようになった。
青年の治世が、十年を超えた年。
梁は建国から三百三十七年を数えた。
ある老史官が読み解いた予言の年。楚王高固自ら、三軍を率いて最後の北伐が始まった。
阿呆しかおらんのだ、と呆れたことを思い出した。
人の好い叔父であった。その人の好さ故に陛下陛下と祭り上げられ、気づいた頃には玉座にその身を押し込められ、――そしてなにも為せぬままに怯えながら酒と死んだ。
勇気のある従兄であった。国難を救うのだと。その為に生きるのだと。お前を支えるのだと。そう言った男は自ら進んで血を纏い、戦に向かい、そして呆気なく臣下に反逆者と罵られながら死んでいった。
――はて、と思った。
何故こうなったかと思った。
そうして思った。
顔も知らぬ父よ。己を産み出すだけで死んだ父よ。
貴方が吞気に死んだせいではなかったか。
泣きながら己から引き離され、目の前で斬られた最初の妻。
あれが何時、殺されるようなことをしたというのか。
道に迷った幼子のような、帰る家のない子供のような。
ただの、臆病な娘であったというのに。
よろしいのですか、というささやかな鈴の音のような声がする。
先の妻と同じようにか細いにもかかわらず、透き通って聞こえる后の声を青年は好んだ。それも詩歌ではなく、平素の声を殊更に愛した。
「よい」
どうせ朝議では結論など出せぬ、と感情のない声で続けた青年の心の内を読み取れた者がどれだけいるか。その僅かな二人のうちの片割れがここにいる幸運に、青年は天を褒めたくなった。
そしてもう一人がこの世にいないことをあらためて嘆かずにいられなかった。
この娘を己に宛てたまでが、韓氏の最後の足掻きであり、かえってそれが故に、かの一族は次代の三兄弟では幸を得られていない。韓氏の縁者であるこの娘は、先の妻を失ってすぐの己に嫁いで妃となり、青年の即位に従って皇后となった。最初から皇后とするためだけに韓氏の養女として引き取られた娘である。
なんのことはない。ただの、他に居場所のない娘であった。
手を伸ばす。后の頬に手を触れた。その身体のほのかな温かさが心地よかった。
困ったように、しかしながら構われることに喜びを隠せない笑みがそこにあった。
静謐を以て常とする内宮が喧騒に支配され始めた。
陛下、という叫び声がする。親や祖父ほどの年の差のある公卿たちが叫んでいる。
そのことに気づいた后がほんの僅かに不安そうに眉を寄せた。
――それで、決心がついた。
「決めたぞ」
僅かに驚いた様子の、それでいて嬉しそうな后の様子を見て、青年もまた悪童のように笑みを浮かべた。
この日。青年は即位してから初めて己の意志を臣下に告げた。
楚王高固による北伐は、まもなく完遂しようとしている。
このことに一番の驚きをもっていたのは、あるいは楚王自身であったかもしれない。
彼がまだ郷里の少年だった時。天下と梁は同一のものだった。
彼が青年で旗揚げを決めた時。天下は動揺していたが朝廷とは梁であった。
彼が壮年で楚王となった時。天下は割れ、梁はその一つに過ぎなくなった。
そして今。桓帝が崩御したのと同じ歳。
天下のほとんどは、彼の手中にある。
――本当にきちまった。
この感慨を同じように感じる者が、果たしてどれだけいるか。彼の配下の多くは、今やその大部分が梁と天下とが同一であった時代を知ることなく生きてきた者たちである。
――酒を飲んで、戦をして。気づいたら王だ。挙句、皇帝になれ、という。
天下の覇者となりつつも、思考の言葉はまだ楚県大亮の『高兄ぃ』のままである彼の驚きを察せられるような配下はもう残っていない。
そのほとんどは既に黄泉へ旅立っていたし、生き残りの過半は楚の都である冬丘にいるし、まだ遠征に参加するような人物は皇太子たる高純に付けていたからである。
ただ一人の例外。宰相たる柴禄のみが古参の臣の中では彼の横に侍っている。
「殿」
数多の楚臣の中で、いまや彼一人だけ許された呼び声で、楚王高固は意識を呼び戻した。
楚軍本体を率いている高純の軍はまだ到着していなかったが、高固自身の中軍と下軍は既に許を囲んでいる。というより、その城壁を超えていた。
それも、一本の矢を放つことなく、である。
楚軍十万が囲んだ時点で、既に許の守兵は三千余りであった。
それを知って、守将の顧要は内通したのである。かの大樹将軍の後継たる梁軍の将軍とはそのようなものであった。
――いまや、楚軍十万と対峙するは内宮の壁と公卿、僅かな警護のみであった。
一切の略奪を許すことなく、楚軍は内城へと歩を進めている。
宮殿内の騒乱が市街に入った高固の耳にも聞こえてくる。戦うか、降伏するのか。いずれでも今のこの驚きを感じることはあるまい、そう思っている。
「……梁帝は」
降った顧要には、梁帝に降伏を促すように命じた。この哀れな元梁将はその栄誉ある役目を辞退しよう、と言葉を尽くそうたしたが、一代の英傑高固が再度命ず、と告げたその瞬間に滑稽なほど自らの生命に悲観しながらその任務に就いている。
その顧要から報告のないまま、彼とその軍隊は整然と進んでいる。
と、その時であった。
「殿、殿」
慌てふためくように嗄れ声で声を掛ける柴禄。しかし高固は反応を返さなかった。
この老人は目の前の光景に絶句していたからである。
その時の様子を、史書は以下のように記している。
――帝は、首に組み紐をかけて、両手を後ろ手に回し、最下層の素材で出来た服喪の白い着物を麻縄でとめ、素足で内城から出てきた。前には盟約に使う牛の血を注いだ大皿を、後ろには玉璽と歴代の梁の父祖の位牌を従えている。
そして、馬上の高固の前で跪いて古の時代のように亡国の王のように「孤」と自らを呼んで降伏した。
首の組み紐とは己が絞首される予定の罪人であることを示している。
服喪の服装は生きながら末代となる己の喪に服することを示している。
そして位牌と盟約の血は、降伏を誓うとともに自らの死で祀ることの出来なくなる父祖の慰霊を勝者の慈悲に乞い願うのである。
この時の高固の胸裏を記した書物は存在しない。
ただ、史書では以下のように彼の行動を記している。
――盟約を終えると、太祖(高固)は梁帝のもとに駆け寄るとその身体を抱き抱いた。そうして臣下たちが止めるのも聞かずに、泣きながら梁帝の首紐を自ら取り払い、同じ馬車に乗って宮殿に向かった、と。
最後の梁帝となったこの青年は、楚において山陰公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けたものの、死ぬまで后は韓氏の娘だけであったという。
そうして彼は、伝説でなく歴史の中で初めて禅譲した皇帝として史書に記された。
梁の譲帝である。