老史官
梁書列伝五十九・史官朱僑
老人の目には、目の前の喧騒が、どこか遠いものにうつった。
――この国は……
そうつぶやきかけるも、その後につづく言葉をおもい、飲み込む。かつての宮廷の華やかさ、文武百官が立ち並んだ光景は、もはや、ない。
老人の名を、
朱僑
という。彼はすでに六十七歳になっている。今の朝廷において、往時の繁栄を知る数少ない人物である。
朱僑が史官として、朝廷に初めて出仕したとき、太祖張勝が建国した梁帝国は、すでに三百年に迫っている大王朝であった。
当時の梁は、長くつづいた王朝の常として、いくつかの問題を抱えていた。なかでも最大の問題といえば、国庫の疲弊であろう。当時の朝廷は、必要以上の官吏が仕えており、廃すべき官が廃されず、同じような職務を掌る官がいくつもあるという状態であった。それでも職務のある官はまだよい方で、すでにない建物を管理するための官などは、ただただ、朝廷の儀式の見栄えのために存在する有様であった。
この数々の儀式が問題であった。ただでさえ煩雑な儀式の多くが、過剰なほど華美に行われるのである。とはいえ、こうした祭祀を行うことが、皇帝の正当性を示すものでもあり、儀式の華美さは王朝の威光の象徴でもあったから、廃止することはできなかった。
それから十年ほど経ち、二十代の新帝が立った。この新帝は、桓帝と後に記録される。
この青年皇帝は即位後、すぐさまあることをおこなった。
このとき、朱僑は記録官の長である太史の職についていた。朱氏がもともと、祭祀や歴史の編纂に関係する家であり、史官(記録官)の職があまり重職と考えられてはいなかったといえ、四十手前での就任はかなり異例のことである。
その朱僑を太史のまま、宮宰に抜擢したのである。古の時代、宮宰は宰相と同義であった。だが、時代が下った梁のころには宮宰は祭祀官の長にすぎず、かろうじて卿(大臣)のひとりとして閣議に席はあったものの、名誉職のひとつのような扱いであった。
宮宰に就いた朱僑に、桓帝はあることを命じる。
「儀式に関わる官や必要とする人員が正しいのかを調査し、古法に則って祭祀をおこなうべし」
表向きはともかく、桓帝の意思が朝廷の儀式の簡略化にあることを朱僑はさとった。
朱僑は梁の第二代皇帝である文帝の時代を基準とし、文帝の時代の儀式の形に、いくつかの箇所を今風になおしたもので、儀式をおこなった。
少々華美さは欠けたもの、厳かはむしろ増したことに桓帝は満足した。なにより、必要な人員がかつての七割ほどですむことが、最も彼を満足させた。
桓帝は、自らの想いが朱僑に通じたことを喜んだ。彼にしてみれば、朱僑を選んだのに深い理由があったわけではない。
引退の花道として席に座っていた前任者よりも、歴史官の家に生まれ、若い朱僑のほうがましだろう、という程度でしかなかったからである。
朱僑が宮宰として、朝廷の儀式を変えていくのにあわせて、桓帝は儀式のためだけに残されていた官の多くを廃止し始め、さらには職務ごとに官をまとめようとした。
桓帝が官制の改革をおこなうことに気付いた官吏たちは、あるものは賛同し、あるものは正面から反対した。桓帝は強権を用いてでも改革を進めようとし、その強引な手法に反発は強まるというなかで、どうにか官の整理が完了するまでに、十年の月日が流れていた。
朱僑はそういった政争をあえて他人事のようにふるまった。
反対派からは朱僑の儀式の変更が、全ての元凶のように扱われていたが、梁の歴史上最大の名君と評される、文帝の時代に則ったと言われては、真っ向から批判することは憚られた。
なにより改革の中心となっているのは桓帝と、その意を受けた司寇(司法大臣)の韓洪であり、朱僑はむしろ強引な手法には慎重であった。
このころの朱僑は多忙であった。記録官の長たる太史としては諸官の整理が進めば進むほど、記録せねばならぬことがふえていく。史官たちは、どの官が廃され、どの官の職務が変わったのかを全て記録する必要があった。さらには宮宰として諸々の儀式を主導しなければならない立場であり、名目上といえ、卿のひとりである以上、閣議にも出席することが求められた。
桓帝は、まさしく英邁な君主であった。彼からすれば梁の問題は明らかであり、それさえどうにかすれば、この王朝はもう百年はもつ、と考えていた。
国庫の支出は抑えることができても、収入を増やさなければならない。北方の異民族が活動を活発化しており、官吏の整理によってできた余剰も、それに備える軍を維持することに費やされていた。
桓帝は税制の改革に乗り出す。いや、官吏の整理はそのための準備と、自らの意に従う官吏の見極めであったにすぎなかった。
農地の法は変わり、混乱を招いたが、全て承知の上だった。
あと五年でよかった。
改革が痛みだけでなく、多くの者にも恩恵があると分かるまでに、あとそれだけの年月でよかった。
天は、それだけの月日を与えてくれなかった。
凶作が二年つづいた。各地の蓄えは底が見え始めた。
――これは、何故か?
――天子に、徳が薄いからではないか?
――悪政が行われているからではないか?
――何故、我々は苦しまなくてはいけないのか?
――その始まりは、なんだった?
――全部、これのせいではないのか?
ふつふつとした、民の疑問が行き場のない憤怒に変わる。
凶作が、三年目になった。
それが、梁王朝崩壊の始まりだった。
東方で起きた大規模な農民反乱。反乱は少しずつ大きくなり、その影響で荒れた地域は別の者を将として、新たな反乱をおこす。改革によってかつての権益を失った豪族たちも、機をみては自立しようと画策する。
彼の治世の半分は、この混乱をおさめるために力がふるわれ、――そして失敗した。
桓帝の治世が三十年を越えた時、梁の支配が確実に及ぶのは、都の安陽を中心とする畿内とその周辺――赤河中流域――のみであった。
すでに天下は四分されている。
梁より東、代を本拠にして、東海に至るまでの赤河下流域を奄有する代王・筍啓。
南方の陳を中心に、大江流域の諸勢力を統一することに成功した楚王・高固。
そして、もとは梁の将軍でありながら、副都であった西京を制圧し、西方にあって国号を雍とし、皇帝を自称する公孫夏。
梁の朝廷においては、これらの者を討たなければならない。そのなかで誰をまず討つか。
「公孫夏! あの裏切り者め!」
桓帝の叫びが廟堂に響く。公孫夏は梁の臣下であったのに、裏切り、あまつさえ皇帝と称した。さらに公孫夏が本拠とした西京は、安陽まで直線で三百里の距離にあるのである。西京の東へ百里行くと秦水という河があるが、それ以外に障碍らしい障碍はない。
一日で行軍する距離を一舎といい、その距離は三十里。但し、強行軍であれば、一日に七、八十里近く進むことができよう。それを考えれば安陽と西京はかなり近いといえる。
他の勢力と対峙するにしても、公孫夏がいる限り、背後を気にしなければならない。面子も実利としても、公孫夏を討つ必要があった。
東の代には、抑えとして絳という邑があり、南の楚は周辺を統一したばかりですぐには動けない――
十月のおわりに、大将軍の西乞を主将とし、白術を佐将として十三万の軍勢が安陽を出陣すると、安陽には二万の兵が残った。これと絳にあって代へ睨みを利かせている曹賢の五万が、今の梁が信頼できる兵力の全てであった。
朱僑はこの戦乱のなか、相変わらず太史と宮宰の職にあった。
乱世の中で、彼の見知った人物は、ある者は官を辞し、ある者はすでに鬼籍に入った。閣議に出ても、彼より十、あるいは二十近く年下の者たちが席に座っている。六十を越え、七十が見えてきた朱僑には、四十年近く座っている席が、異様なものとして感じられた。
――なぜ、己はまだここにいる。
朱僑はそれが疑問であった。幾度となく桓帝に宮宰を辞することを願い出ていたが、許されずにここまできた。
かといって朱僑の献策が用いられるわけではない。いつしか彼は閣議では座っているだけになり、元来の職であった史官の職務を果たすだけになった。
死に損ねた、と思ったことは一度や二度ではない。
なれど、かつての英主であった、十歳下の皇帝の側に、彼は存在し続けた。
十年ほど前から、朱僑は西宮にある太史の職務のための一室と、巨大な書庫に籠るようになった。そこで史官の本分である、厖大な記録の整理に取り掛かっていたのである。
太祖から桓帝に至る三百年を越える記録を、皇帝の事績に限らず、地方の記録に至るまで、ひとつひとつ確認していき、間違いがあれば修正し、年代ごとに並べなおし、整理していくという作業である。
まるで、梁、という一国の事績を、余すことなくまとめあげるかのような作業であった。
ある日、その作業の中で、朱僑は巻名の書かれていない一巻の小さな竹簡を見つけた。
――どういうことだ。
庶人の家ならともかく、宮殿内の公式な書庫である。何の記録かも記されていないものがあるなど、異常である。
さらに奇妙なことに、この巻は歴代皇帝の業績の記録の中からでてきたのである。
――なんだ、これは。
中を確認しようとした朱僑は、その時になって、ほとんど日が暮れていることに気付いた。
――ええい、仕方あるまい。
朱僑は小さく舌打ちし、竹簡を抱えたまま、書庫を出ると、自らの室まで小走りで駆けた。そこですぐさま燭をつけると、急いで書庫に戻った。
そこでなければならない気がした。
奇妙な巻であった。
通常の竹簡の、半分程度の大きさである。
そこへ書かれていたのは、ひとつの予言であった。
ある皇帝が、戯れのつもりで、梁がどれだけ続くかを、卜人(占い師)に占わせた。
卜人はこう答えた。
――梁は十三代、三百三十七年で亡ぶ。
卜人たちが、占いの結果を曲げることは決してない。彼らは自らの職が天意を伝えるものであることに誇りを持っている。
朝廷や皇帝より、天そのものに仕えていると意識の下にいる。
彼らにとって、占いの結果を曲げることは、天意に対しての反逆以外のなにものでもない。
朱僑たち史官が、常に正しい記録を残そうとするのも同様である。
読み終えた朱僑は、指折り数えた。桓帝は第十二代。そして今年は建国より三百二十二年――
夜が明けるまで、朱僑は書庫から出ることはできなかった。
奇妙なことに、その日、彼の手元の小さな燭は、朝まで消えることが無かった。
日が昇ると、彼はわずかに眠りについた。
目覚めたとき、件の竹簡は消えていた。
朱僑はひとつ小さくうなずくと、その日の閣議は参加するために廟堂へ参内した。
秦水を挟んで対陣していた公孫夏の雍軍を、西乞に率いられた梁軍が破ったという捷報を受けたのは十一月の半ばであった。
余勢を駆って梁軍は西京を囲み、楚軍の一部が、雍との境に集結している報せが来ると、宮廷は湧いた。
朱僑は、それを遠いもののように感じた。
宮中は熱気に包まれており、野外の寒さなど感じさせないほどであった。
絳が陥落したという報が届いたのは、その二日後であった。
代王の筍啓は梁の西乞に亜ぐ名将であろう。彼が今まで兵を動かさなかったのは西乞とその主力を懼れていたためである。
絳を預かっていた曹賢は愚将ではなかったが、相手が悪かった。ましてや、敵兵は自軍の五倍近いのである。
絳を落とした代軍は、筍啓自ら騎兵四万をもって安陽に急行しており、その後方を主力二十万が進んでいる――
絳の残兵からの報せに、安陽は静まりかえった。
「いま出て、何になります」
朱僑のしゃがれ声が廟堂に響いた。僅かな兵が優勢な敵と野で戦って勝てるはずがない。軍議となった閣議において、朱僑ひとりが反対をつづけた。逆に言えば、朱僑ひとりのために、議論は停滞した。
『安陽に迫る代軍の先陣を迎え撃つために、兵を出す』
朱僑からしてみれば、正気の沙汰とは思えなかった。
彼以外の諸卿は、朱僑はついに老齢のために耄碌したとまで言い放った。
両者ともに、西乞の軍が戻ってくるまで安陽で耐え忍ぶ、という点では変わらない。
その西乞がいつ戻ってくるか、が問題であった。
諸卿は、公孫夏の軍を大破した以上、西京までの距離を考えれば、すぐに安陽へ帰還できるはずである。したがって、まずは一度出陣して対陣する。そうして、突出してくる代軍の先陣の勢いを一時的に止め、衝突する前にさっと安陽に引き揚げて、西乞の軍が帰還したら改めて決戦を挑む、という。
これを朱僑は机上の空論と切って捨てる。筍啓に旗鼓の才が勝るのは西乞しかおらず、また、一度野戦の形になれば、騎兵で編成された敵軍に対して、歩兵のみの味方は機動力で圧倒的に劣る。また、西乞がすぐさま戻って来るという確証はない。
「出陣せず、籠城すべきです」
敵の先陣を構成する騎兵は、城攻めは専門外である。主力が到着するまで攻撃を控えるであろう。
「安陽は――」
攻めやすく、守りにくい土地だ、と小さく誰かが呟いた。
――何を、今更。
そう口を開こうとして、朱僑はようやくきづいた。
彼らは、安陽に敵が「迫る」ことにおそれているのだ、と。
「朱僑」
堂上からの冷たい声を耳にしたとき、朱僑は、自らの最期を脳裏に浮かべた。
この日、朱僑は宮宰の職を免じられた。
出撃した梁軍は、散々に打ち破られた。
安陽に戻ってきたのは、たった五千にも満たぬ敗残兵だった。
九日後、代軍の主力が到着し、安陽を囲んだ。
西乞の軍はいまだ畿内に姿を見せない。
その報せを聞いたとき、筍啓は自らの耳を疑った。
「皇帝が、安陽にいない……?」
安陽からの抜け出した降兵のひとりが、そう口走ったという。
「間違いではないのか」
報告に来た劉度という将軍へ尋ねなおす。
「何人かの偵騎が、十日ほど前に幾つかの小さな集団が北へ向かったという目撃情報を、附近の村から聞き出したそうです」
その中には何乗かの馬車の姿が、と続くと、筍啓は嘆息した。
「しくじったか」
劉度は、口をひらこうとし、結局うつむくにとどめた。
筍啓という男は単純な男だった。単純であるが故に自身でも納得できるほど純粋な理屈を好み、結果として「あれこそ人物」という評判でここまで自軍を膨らませてみせた。
彼は桓帝を弑そうとは考えていない。彼ですら当然と考える正当性を得るためには、桓帝、梁王朝の血筋から天下を譲られたという形をとりたい。ゆえに殺さぬよう、安陽を囲むにとどめた。
が、すでにそこに皇帝はいなかった。
筍啓はふらりと床几から立ち上がると、
「帰る」
と、ひとことつぶやいた。
「桓帝がいない以上、西乞の軍が戻ってくる前に、代へ戻るべきであろう」
筍啓の思考の巡らし方はこうである。実はこの遠征はかなり無理をして行っている。「西乞不在」を契機として筍啓は軍を起こしたが、急な進軍を行ったために、充分な兵站が準備されていない。ただでさえ、二十万を超える兵を食わせるのは並大抵のことではない。
――これ以上、敵地にとどまる必要はない。
筍啓の中で、この戦いはすでに「終わった」のである。
「お待ちを――」
劉度は口を開いた。代軍の中で若手のこの将軍は、目の前の安陽という大きな「餌」をみて、無視できなかった。
彼は粘った。桓帝がいないとはいえ、安陽は仮にも梁の国都であった。そこに蓄えられている財は、代の軍資金となるであろう。また、一度落としてしまえば、皇帝がいない安陽に西乞が戻ってくるだろうか。
「全軍とは言いません。一部の兵でも安陽は容易く落ちます」
筍啓はほとんど聞き流していた。が、聞き入った者もいたのである。
筍啓の弟の筍応がその場にいた。
事実上の代の宰相として、酒と戦にしか興味のない兄王を補佐している彼は、劉度の意見に賛同した。
この聡明な弟を信頼している筍啓は、
「では、汝に任せよう」
といった。劉度はひとり、ほくそえんだ。
梁王朝三百年の首府としていくら強大な都市と城壁であろうとも五千程度の兵しかいないことを考えれば、此度の安陽攻めは、一国の都を落とすという軍功も、そこにある財も、なんと容易く手に入ることか!
代軍は劉度に預けられた三万の兵を残して、帰途についた。
城攻めが始まったとき、朱僑は、西宮の一室に居た。桓帝が彼を宮宰から罷免したのは、
「どこへとも、落ち延びてかまわぬ」
という温情であろう。卿のままでは、皇帝のもとから離れることは許されないのである。それが、桓帝にとっては、朱僑におこなえる、唯一のことであると考えたのだ。
だが、朱僑は安陽に残った。
彼は自らの代わりに、北へ向かうすべての集団に配下の史官たちが同行できるように手配し、それ以外の者も、包囲される前に安陽から落とした。
――己が行ったことは、各地へ落ち延びた史官たちが伝えてくれるであろう。
彼は、書庫が火矢で燃えないように対策をおこうと、あとは以前と同じく、厖大な書庫の整理をつづけた。
安陽攻めが始まり、それはすぐさま、残された梁軍にとっての破局を迎えた。
「太史――」
兵のひとりが、朱僑に怒鳴るように呼んだ。
「ここは危険です。北宮へ――」
言葉はつづかなかった。室から追い立てるようにして朱僑を外に出した兵が、目の前で倒れた。
――敵か。
そう認識したとき、彼は胸に違和感を感じた。
それが敵の放った矢である、と認識したとき、同じような衝撃を背にも受けた。
ふらりと躰がゆれた。
朱僑はすぐには死なず、うつろな口から言葉が漏れでた。
「史家は……」
そのしゃがれた声が、つづくことはなかった。
北の許に逃れた桓帝はまもなく没した。
朱僑が安陽に残ったことを知った桓帝がなにを思ったか、史書には残されていない。
その八年後、一度は天下の覇権を手にしかけた筍啓だったが、この国は筍応の死とともに精彩を失い、楚によって滅びる。
すでに雍の地をおさえていた楚は、東西から北伐をおこない、梁の残党を攻めた。
許に逃れていた梁朝最後の皇帝が降伏し、高固が帝位につく、七年前のことであった。
朱僑の残した史官たちは、新王朝に仕え、焼け残った厖大な資料は後世に残されることになる。
楚によって編纂された梁の正史は、そのほとんどがこの資料をもとに編纂された。
朱僑の名は、史書の中で不滅となった。