騒がしい朝
何か夢を見た気もするし、何も見なかった気もする。
目を開けて最初に思ったのはそんなことで、次に思ったのはここはどこだろう、だった。
「あれ………えっと………そうか、ここは」
寝ぼけた頭が、ママとはぐれて変な場所に迷い込み、ポスト兄弟の家でお世話になっていることを思い出した辺りで、扉の外から声がかかる。
「バケツ、起きていますか?」
「今起きました!」
元気よく返事をして、布団をたたむ。扉を開けば、ハコさんが姿勢良く立っていた。
「おはよう、バケツ。良い夢は見れましたか?」
「おはよう、ハコさん。夢は見たような、見てないような………?」
「悪夢でないのなら、良いことでしょう。朝食は食べますか?」
ハコさんの背中を追いかけながら、おなかに手を当てる。不思議と、空腹感は感じない。
「うーん、おなかはすいてないなあ」
「ふむ。小食なんですね?」
「前はもう少し食べていたんだけど………あれ?」
リビングに行くと、マルさんは昨日と同じ場所で黙々と作業をしていた。あれほどあった紙の山は、見違えるほど小さくなっている。心なしか、マルさんの背中も小さく見える。
「あの、ハコさん?えっと、もしかしてマルさん、その………」
「ええ、愚兄なら昨日、風呂に入った後からずっとあの体勢です。ペースは落ちていないので、もう少しで終わると思いますよ」
思わずハコさんを見上げると、こともなげに返された。
「自業自得、ですよ。元から、上の連中の八つ当たりも兼ねているんです。それを1人でこなすなんて、無茶な話なのに。兄さんが、ちゃんと命令してくれれば、クソ上司だけでなく、無能なアイツらだって………」
「ハコさん?」
「よし、終わったぞ!お、2人とももう起きていたのか、おはよう!」
「おはようございます、愚兄。………出勤の準備をしてきます」
「え、あ、はーい?」
昨日のようにボソボソと何事かをつぶやき始めたハコさんに戸惑っていると、マルさんがリビングに充満するじめじめした空気を吹き飛ばすかのように突然声を上げる。マルさんの、さっきまでの手紙を捌いていた静かな姿と、現在のこちらを見て手を振る元気な姿のギャップにびっくりして、ハコさんからマルさんの方へと意識を向ける。
その短時間で何を思ったのか、先ほどまで変な雰囲気を持っていたハコさんはマルさんに普通に挨拶をして、普通に部屋に消えていく。ハコさんの豹変ぶりに驚いて、彼が消えた扉をじっと見ながら、ぽつりと言葉を落とす。
「大丈夫かな………?」
「ハコは考えすぎなきらいがあるからなあ。まあ、少し放っておけば自力で立て直すさ。」
「そうなの?ならいいのかな………あ、言い忘れてた。マルさん、おはようって、なんで!?」
マルさんのお気楽な返事に安心して振り浮くと、彼は顔にある四角い穴………たぶん口に当たる部分に、仕分けた手紙を突っ込んでいるところだった。
「え、あれ、なんで!?なんで手紙食べてるの!?」
思わぬ光景に目を見張り、よろよろとマルさんに近づく。ぼくが叫んだことで少しだけマルさんの動きが止まったが、それも一瞬のことで、地区ごとに分けられた手紙を大きな手が豪快に掴み、そして顔にある穴に押し込んでいる。
「また食べた!そんな、食べるために仕分けていたなんて!」
テーブルに手をたたきつけ、そのまま自分の手元を睨む。昨日、この兄弟なら信用しても良いと思ったのに、突然奇行に走るなんて!やっぱり、ここにいる人たちはみんな自分とは異なるのだと思うと、世界の色が急速に消えていくような心地になる。
「まあ落ち着けよ、坊主。オマエは何か勘違いしている」
マルさんの方に胡乱な視線を向ければ、相変わらず手紙を食べている。彼は、ぼくが話を聞く体勢になったのを見て、手を止めないまま話を続ける。
「これは食事じゃなくて、郵便屋の仕事の準備なんだよ。オマエには食べているように見えたかもしれないが、ただ腹の保管庫に手紙を入れているだけだ。あの量を鞄に入れて持っていくとなると、ちと手がかかるからな。………見るか?」
信じられずに目を細めたままのぼくを見たマルさんは、手を止めて、少し迷ったそぶりを見せてから、こちらに顔を向ける。うなずいて、マルさんの顔にある四角い穴を覗くと、うっすらと、白い物が見える。
「………本当だ、手紙、ちゃんとある。勘違いして、怒ってごめんなさい」
「だろう?まあ、俺らの生態は見た目だけで判断できないからな。新入りなんだし、気にすることはねえよ」
素直に謝ると、マルさんはわはは、と笑いながらぼくの頭を乱暴に撫でた。何も知らぬまま怒鳴ってしまったことが今更恥ずかしくなって、照れ隠しもかねてどういう仕組みなのか尋ねようとしたところで、後ろから声がかかる。
「お待たせしました、これで出勤できます………おや、まだ支度が終わっていないのですか?」
「いや、もう終わる。」
そう言いながら、マルさんはテーブルの上に残っていた手紙を両手で掴み、穴に押し込む。
「………よし、行くか!坊主にも、いい加減ちゃんと説明しなきゃならんからな。いいところに連れて行ってやるよ」
ぼくを追い越して進むマルさんから、げぷ、と聞こえてきたけれど、本当に食べていないのだろうか。
「そもそも、私たちは食事が出来ない………いえ、正しくは、食事とは我々に必要のない行為です。」
歩きながら、ハコさんがぼくに語る。あの後、部屋を出てどこかへと向かうマルさんを追いかけながら、ハコさんも手紙を「食べる」のか聞くと、少し悩みながら、話し始めたのだ。
「出来ない?」
「ええ。我々は顔にあるこの穴を通して、腹部にある保管庫へと手紙や郵便物を入れることが出来ます。ここまでは愚兄から聞いたのですよね?」
ハコさんのジェスチャー付きの説明を聞きながら、うなずいて話の続きを待つ。
「この穴と腹部の保管庫は直通です。穴に入れたモノは、何でも保管庫に行きます。さて、バケツ?今、私があそこの露店で売っているジュースを穴に流し込めば、どうなると思います?」
マルさんの口から手紙が見えたことを思い出しながら、ハコさんの問いについて考える。
「………手紙と、混ざっちゃう」
「正解です。このような性質を持つ私たちは、業務中の食事が禁止されているので、食事が出来ないのですよ。」
なるほど、と首を振る。マルさんが手を挙げてタクシーのような乗り物を止める。それに乗り込み、しばらく窓の外を見てから、ふと思い出して隣に座るハコさんを見上げる。
「生存においては食事が最重要事項ってママが言っていたのだけど、ハコさん達は何も食べてないよね。大丈夫なの?」
「ああ、ご心配なく。我々の栄養源はもっと別のモノですので。それこそ、食事という非効率的かつ複雑な方法などよりもずっと効率的で、単純な方法なんですよ。これはヒトには出来ないどころか、上の連中ですら一部のモノしか出来ない方法らしくてですね?そもそも、ここ由来とあちら由来ではもともとの構造が違いまして………(略)………ああ、内容物の汚染を防ぎながら栄養を確保する、このような美しい手段を取れる私はなんて幸せで「着いたぞ!」………っ愚兄!ここからが良いところなのですよ、邪魔しないでください!」
だんだんと熱が入り、長々と語るハコさんの声をぼんやりと聞いていると、助手席からマルさんの声が響く。いつの間にか目的地に着いていたようで、乗り物はすでに止まっていた。まだ語り足らなそうなハコさんをなだめながら、地面に足を付ける。
「わあ、大きな建物!」
目の前には、いつの間にかテレビでしか見たことがないような大きな建物があった。僕たちが立っている所から豪華な庭を挟んで、その建物は僕たちを見下ろしている。
「でも、いつの間にこんな場所に来たんだろう?」
周りを見渡しても、正面の大きな建物以外に、建造物が見えない。遠くに目をこらしても、白いもやに遮られて何も見えない。乗り物の窓から見た景色とは一変して、さっきまで見えていたはずの雑多な町並みや行き交う人の姿は姿を消し、不気味さを感じるくらい穏やかな時間が流れていた。
「ああ、ようやく着きましたか。今回は長かったですね?」
「道の指定、間違えたからなあ。正解ルートならもっと早く着いてただろうな」
「は?愚兄、ついにそこまで落ちぶれて………?」
「いやいや、何も知らないであろう坊主にこの町を案内したくってさ!本当だぜ?」
「バケツとの会話をすべて私に投げていたくせに、何をいけしゃあしゃあと言っているのですか?」
「わはは」
「笑って誤魔化さない!」
薄ら寒くなるほど静かな空気は、ポスト兄弟のケンカによって崩れ去る。
「もう、2人ともケンカしないで!それより、ここがどこなのか知りたいな!」
知らずに詰めていた息を吐き出して、今は2人の言い争いを止めることに集中する。まるでここにいる3人しかいないかのような静けさから、少しでも目を背けたかった。