97:夢の世界
真夜中。今日は空が曇っているのか星の瞬きはおろか、月の輝きさえ雲に阻まれていた。月明かりの無い世界はなんとも人の心を不安に駆り立てる。
月の光は優しく、夜の闇を恐れる者達を包み込み安心感を与える。しかし、レイは別段月に対して何も感じた事は無かった。月の光があろうと無かろうとレイにとってはほんの些細な事だ。寧ろ、時折夜の闇の中に居て月明かりが厭わしくなるときもある。レイは夜が好きで、闇が好きだった。ファラルや大切な人に似た夜の闇は月明かりなんかよりもレイを優しく包み込む。
明かりは無い筈なのにぼんやりと闇に浮かんで居るのはファラルだ。その身に纏っているのは闇夜よりも暗い闇。そっと、ファラルがベッドで眠っているレイの顔にかかっている髪をそっと払う。何時もならそれだけで目を覚ましたり、身じろぎしたりするレイが今は全く反応しない。ただ、静かな寝息だけが規則的に聞こえるだけだ。
これ程までにレイが熟睡するのは久しぶりだが、それには理由があった。それは、何時もならレイが眠る頃になると自室に戻ったり、魔界へ行って溜まりに溜まった仕事を片付けに行くファラルがここに居る理由にも関係する。レイの左手には何かが握られている。甘い香りのする黒い小袋。
ファラルは何度目かの溜息を吐く。面倒な事を、と何度も忠告したがレイは、
『一石二鳥だし、どうせなら友人の為に使う方が有意義でしょう?』
と言って取り合わなかった。友人、友人と口にするが、レイはまだ友人がどういう存在なのか分かっていない。ファラルはファラルで不要だという考えの持ち主なのでそんな存在はいないしその存在がどんなモノなのかも教えられない。レイはただ、母親の教えをそのまま実行しているだけだ。
友人は大切な存在、時に命をかけて守り、時に命をかけて本気でぶつかり合う相手。困っていれば手を差し伸べ、どんな状況でも協力し合い、尊敬し合い、対等な位置に居る。
レイはそれを忠実に実行しているだけだ。レイにとっては友人というよりも母親の教えだからその通りに行動する、という感じではっきり言ってレイは友人をそれ以上でもそれ以下でもない、としか考えていない。
荷物になっても、見捨てはしない。でも、邪魔をすれば切り捨てる。そんな存在に正体がばれる危険を冒してまで手を貸すレイがよく分からない。いっそ、そんな存在は必要ないのではないかとも思う。仮にレイにそう問いかけてレイが返す答えがファラルには容易に想像できた。
『必要か否かと言われれば、必要ない。私には私が居るし、ファラルも居る。振り回される事態も、考える事も自分の事と、他に必要最小限の事で良い。関わるとどうしても煩わしい事は増えるから。けど、お母さんはそんな事を望んでなかったから。私が友人を作ってそれが大切な人になってという人生を望んでいたから。師匠は自分の望んでいた人生を私に歩んで欲しいと切望していたから。でも、私の目的はお母さんの望みも、師匠の望みも叶える事は出来ないから。だから、煩わしくても友人を作ろうと思ったの他の事を叶える事はきっと無理だから、友人の振りは出来ると思ったから例え歪んでいて中身が伴っていなくてもそれ位しかお母さんの望みも師匠の望みも叶えられないから』
そう、淡々と口にするのは分かっている。分かっているからこそ、問わない。けれど、こうして上辺だけの関係を取り繕う為に自分の身を差し出すレイがファラルは心配だった。でも、もしもそんな事を目の前の彼女に対して口にすれば、
『知ってる』
と笑うだけだろう。
分かっているのだ、レイは、ファラルがレイにとってどんな存在なのかを知っている。ファラル自身も知っている。知っていて、口に出した事は、話題にした事は一度としてなかった。
ファラルは、レイと接している内に感じる気持ちが自分の物なのか、分からなかった。偽りというには生々しいが、真実と言い切れる程にはレイに出会う前の自分は今抱いている感情をあまりにも知らな過ぎた。
その葛藤を、レイは知っている。知っているからこそ、何も言わずに笑うのだ。
ずるずると引きずっている葛藤に、決着をつけなければいけない時はこうして何かを考えているうちにあっという間に過ぎるだろう。結局答えが出る事なくその時になってみなければ分からない。
「もう、決断を下しているお前には残された時間が緩やかに流れているんだろうな。1年が遠く、1日が、1時間が、1分が、1秒が長い。終わる事を望んでいるお前に、生き続けろというのはやはり酷か?」
静寂の中に響くファラルの声に、答える者は誰もいなかった。
ふわふわとした浮遊感。
足下が覚束ない。
温度を、感じない。
死の世界のような場所。
セイジは異変を感じて目を開けた。何処を見ても真っ暗な世界が広がっている。自分の手さえ見えない暗闇の中、目の前に居た筈の、その体温を感じていた筈の大切な愛しい人の存在が無い。
「ここ、何処だ?・・・ミューシカ?ミューシカっ!?」
闇の世界に向かって大切な人の名を叫び続ける、しかし、返って来る声は無い。
『彼女の居場所が知りたい?』
不意に聞こえた声にセイジは辺りを見回し、「誰?」と声をかける。
『分からないの?私が誰か』
聞こえて来た声は聞いた事があるような気もするし、無いような気もする。
「セイジの隣」
耳元で急に聞こえた声にセイジは瞬間的に後ずさる。冷静になった頭で目の前に居る人物を見つめて驚く。暗闇の中である筈なのにハッキリと見えるその姿。
闇よりもなお暗い黒い艶やかな黒髪、闇よりも深い黒の瞳。そして、その顔は、
「レイ?」
「ご名答。よく分かったね。髪と目の色変えたのに」
レイは笑いながらセイジに近付き、セイジには見えないセイジの腕を握った。
「さて、ここはまだ浅いから移動するよ。ついて来て」
急にそんな事を言ってレイは歩き出す。腕を引っ張られてセイジも共に歩き出す。レイの目にはこの闇がどう映っているのかセイジには分からないがその足取りに迷いは無かった。
「何処に?」
「セイジの大切な人が居る所」
「ミューシカが居る?ミューシカもこの闇の中に?」
「彼女はもっと深い所にいる」
レイの言っている事は自己完結の中で出す言葉のつながりで、セイジには殆ど理解できない。
「その髪は?」
髪と瞳の色が黒い俗に双黒と呼ばれる容姿をしている。その双黒は双黒以外にはあり得ない色だ。魔法で容姿を変えたり、薬で容姿を変えたりする際に髪や瞳の色も変える事は出来る、だが、黒だけは無理だ。黒を他の色に変える事が出来るのかは分からないが黒以外の色を黒にする事は出来ない。
その質問を受けて、レイは立ち止まった。まだ暗闇の中、見えるのはレイの姿だけ。レイはセイジの腕を握ったままだ。
「・・・・・・まぁ、まだ時間も必要だしここの説明でもしようか。明るくするね」
レイは空いている方の手をセイジの目に当てた。その手が離れたとき、まず最初に見えたのはレイの手に繋がれた自分の手だった。しかし、周りの景色はまだ何処までも続く闇しか見えない。
「移動しながらでも良い?」
セイジが答えを返す前に体が本当に一瞬だけ前に動く感じがあった。そして、セイジがレイの質問に答えていないにもかかわらず、
「さて、まずはここが何処かだけど、闇と光の中間地点って言って分かる?」
とセイジに聞いた。
「闇の光の中間地点?」
言葉を繰り返すが、今までで一度も聞いた事の無い言葉だ。
「ま、個人的な解釈だけどね。夜に明日の朝を待つ場所。現実に近くて遠い所。生と死に近い場所でもある。つまり、夢の世界」
「夢の中?魔法かなにか?そうだとしたら誰の?」
状況が理解で来ていないセイジは立て続けにレイに質問した。レイはセイジの額に一発デコピンを食らわせる。
「落ち着いて。セイジの解釈は合ってる、ここは夢の中。これが魔法かと聞かれれば多分そう。そして、誰の夢かと聞かれたけど、セイジは誰の夢だと思う?」
「・・・・・・レイの夢にしては何故俺だけを呼んだのかが分からない。この世界に居るのはレイの他に俺と後、ミューシカ」
「どっちだと思う?間違えたらそこで私の茶番は終了」
「ミューシカ?」
セイジは間髪を入れずに答えた。殆ど直感で、そう言わなければ今までの経験から判断してレイは本当にこの世界から自分を連れて出て行くのだろう、と思った瞬間セイジはそう答えていた。何故か、そう答えなければいけないと自分の中の何かが叫んだ。
「・・・正解。茶番は続行決定。ずっと待ってるだけで欲しい存在が手に入るなら誰だって苦労はしない。手に入る事もあるけどね。私は、セイジに最後のチャンスくらいあれば良いかなって思って。待っているだけの場所じゃなくて一度位は迎えに行けばいい。友人だし、その位は協力する。でも、私はあくまで案内人。本当に大切なら自分から迎えに行け」
急に、視界が開けた。暗い暗い闇の中から急に光の中に出たせいでセイジは反射的に目を瞑った。
段々と光に慣れ瞼を開けるとそこには見た事のある、しかし、知っているのと違う情景が広がっていた。
『ミューシカ!遊びに来たよ』
そこに居たのは良く知った顔。でも、今よりも幼いセイジ自身の顔だった。浮かんでいるのは満面の笑みだ。手を差し出すセイジの手を握るのはセイジと同じ位小さな手。しかし見えるのはその小さな手だけその手の持ち主の顔は分からない。
「これ、は?」
「ミューシカ・テーベリアの記憶。記憶は記憶であってここで介入する事は出来ない。私達が行くのはもっと深い所」
周りの光景を見渡して最後にレイの方を見ると、レイの髪と瞳の色が何時もの薄茶色と薄緑に戻っていた。驚いている様子のセイジにレイはああ、と呟いて、
「気付いてないの?セイジ。自分の体」
「えっ?」
レイの言葉に自分の手を改めて見つめる。心無しか、手が小さくなっている気がする。目線もレイと殆ど変わらない。体が小さく幼くなっているのだ。
「私の髪と瞳が黒くなった理由、それはここが夢の世界たる所以。私はこの世界で自由に神の色も目の色も姿も性別さえも変えられる。それは、私が色んな意味で慣れているからとこの安らかな夢の世界の主が私の事を知らないから。でも、セイジは違う」
周りの景色は移り変わる。見えるのは可愛いもの、綺麗なもの、怖いもの、嫌いなもの。セイジとの思い出や、ミューシカの両親、沢山の記憶の映像が現れては変わって行く。でも、セイジはそんな光景よりも、自分を指差すレイの指先から目が離せなかった。
「セイジはこの世界に同化する。それは夢の主と近しい間柄だから。お互いに深く知り過ぎているから。セイジの体はね、夢の主の思い通りの形に変わる。多分、彼女の覚えている彼女の時が止まった時の姿に変わる。その先を、助言はするけど手助けはしない」
急に変わって行く展開にセイジの頭も心も状況を理解するだけで一杯一杯だった。しっかりと理解できているのか定かではない所もある。でも、ここで引き下がれば何か取り返しのつかない事になる気がして、セイジは取りあえず理解できない所は後回しにしてただひたすらにレイについて行こうと、前に進もうと決めた。
不思議と、怖いとは感じなかった。その理由を考えてセイジは一瞬状況を忘れて苦笑した。
(いつの間に、こんなにレイを信頼するようになっていたんだろう。まだ、出会って数ヶ月しか経っていないのに)
「でも、何でさっきまで黒髪にしてたの?」
「だって、闇には黒が似合うもの」
あっけらかんというレイにセイジはまた苦笑する。
「ほら、そろそろ意識の境界を越える」
急に話題を変えたレイの言う通り、直ぐに周りの景色が一変した。それとともに空気が変わる。引き込むような、絡めとり飲み込むような空気が体を包み込む。油断していると意識が飛んでしまいそうな空気、顔色を悪くするセイジとは対照的にレイはケロリとセイジの傍らに立っていた。
目まぐるしく変わる光景も気分を悪くさせる要因の一つだった。気分の悪くなるような残虐な光景があるわけでも気が狂いそうになる程異常な光景があるわけではない。その光景は無秩序でなのに統一性があって異常で異様であって平凡でまともだった。
平然と立っているレイに視線をやるとセイジは完全な違和感に気付いた。明らかに目線がおかしい。先程までレイと同じくらいだった身長は明らかに低くなり、今はレイの腰程になっている。
「もう少しすれば楽になるから」
レイの言葉は気休めではなく真実だった。世界はもう一度闇に包まれた。
またレイの髪と瞳が黒くなる。それは一瞬の出来事でセイジはどんな風にレイの髪が黒く変貌したのか全く分からなかった。
「セイジ、もう体は楽になった?」
「ああ、言われてみればそうだな」
少なくともレイの変貌が一番気になる程度には気分の悪さは引いていた。周囲は相変わらず何処までも続く闇だ。
ふと、冷静に考えてみて自分の異常性に気付く。
この状況を冷静に受け入れてきている自分に愕然とする。
おかしい。明らかにおかしい。何か作為のようなものを感じる。
なぜ、こうもこの世界を自分は平然と受け入れられるのか。何故レイの変貌に動じないのか。双黒は貴重な存在だ。もう一つの大陸ではどうなのか分からないがこの大陸では百年に多くても3人しか同時に存在しない。その力は絶大で過去に何度も双黒の方によって悲劇や技術革新、歴史の解明等の正に歴史を揺るがす事が行われて来た。その力によって道を踏み外す双黒も居るにはいたがその双黒は同じ時代に存在する双黒や、神や、その双黒自身でその命を絶つ。それでも、悲劇を起こした双黒以外の方に対する敬意が変わらないのはその身に纏う圧倒的な存在感、才能、独創性、そしてカリスマ性だ。もしも双黒に出会おうならこれ以上無い程に動揺し、混乱するだろう。
しかし、自分は混乱しても動揺はしていない。その混乱さえもこの世界に居る事への混乱に勝る事は無かった。これは異常だ。
自分は何時から、レイならば髪と瞳に黒を宿してもおかしくはないだろう、と思うようになっていたのだろう?
「さて、ではここからは1人で頑張って。戻る時にまた来るから」
急にレイが立ち止まった。セイジはまだ事態を正確に把握していないのに、と答えようとしてレイにもっと詳しい話を聞こうと踵を返した。そのとき、レイとの距離が随分離れている事に気付く。そして、闇の中でも目立つレイがその身に纏う黒を疑問も持たずに美しいと思った。ハッと我に返ってレイに近付こうと足を前に出すが何か透明な壁のようなものがあって前に進めない。
覚悟を決めてもう一度踵を返す。今度は不安半分、もう半分は根拠の無い期待半分でしっかりと前を見据える。
目の前にまた光が溢れまた反射的に目を瞑る。今度は何故か意識が遠くなりそのまま、セイジは空も地面も分からない不安定な場所で気を失った。
バッとセイジが体を起こすとそこには見慣れたというよりも懐かしい光景が広がっている。
「これ」
驚きに呟いた声がやけに高くてその事にも驚き、喉に手をやる。レイと会話をしている時はもっと低かった筈だ。しかし、背が縮んだこと=体が幼児化した。と考えれば今居るこの部屋の内装にも納得がいく。
自分が寝ていたのはセイジが幼い頃に使っていたベッドだ。テーブルや椅子、部屋の端にある幾つもの大きな箱(中身はおもちゃ)や見覚えのある昔着ていた子供用の服が嫌でも自分が本当にあの頃に戻って来たのだと錯覚させる。
ベッドから降り姿鏡に自分の姿を映す。紛れも無く、過去の自分の姿だ。
ここが本当に夢の世界なのか、それとも本当は過去の世界なのかセイジは考えたが結局情報量が少な過ぎて答えを出す事は出来ず、考える事を放棄する。取りあえずレイが夢の世界だと言っていた、なのでここは夢の世界なのだろう。その方がまだ納得はいく。過去に干渉する魔法など、この世には存在しないからだ。
「取りあえず、今日は何日だ?」
今日が何日なのか、今日何が起こるのか、その設定が分からなければ自分が何をするべきなのか分からない。そこでふと気付く。自分が着ているのは外見に似合う可愛らしい寝間着だ。中身は16歳なのでこの格好は少々恥ずかしい、タンスの中から許容範囲内の服を探し出し着替える。
部屋を出て気付く、人の気配がしない。不審に思って時計を見るが見る度に時間はバラバラだ。気温は暖かくも寒くもない。太陽の光は真上にあり風はない。
「・・・・・・」
屋敷の外に出て考えを巡らせていると、初めて人に出会った。それは、良く知った人だった。
「セイジー!剣の練習行くなら連れて行って」
黙っていればたおやかな深窓の令嬢のと言った風情だが実際は明るく少し我が儘な勝ち気な少女だ。
「ミューシカ!?」
「何そんなに驚いているの?」
「い、いや、別になんでもない」
「そう。で、連れて行ってくれるの?」
「駄目って言ってもついて来るだろう?」
「分かってるじゃない」
セイジは幼い外見のミューシカに手を引かれて何時も剣の稽古をしている場所に率先して向かう。参加しているのは男が殆どだ。ここ一帯の貴族の子息が参加している剣の稽古は親達が師範や場所を用意している。
そこではもう稽古が始まっていた。癖で小さい体にも合うように持って来ていた短剣というには長過ぎ長剣というには短すぎる子供用の剣(でもちゃんと切れる)を昔やっていたように見学するミューシカに預けて借り物の木刀を受け取って他の子供にまじって稽古に参加する。
素振りや受け身の練習から剣の跳ね返しかた、受け流しかたなど基本的な事に時間を取り、最後に先生と打ち合いをする。
「セイジ、筋が良くなったな。ここでは一番だ」
「本当ですか?」
嬉しそうに笑う振りをする。中身は16だ。今の体では本来の体とは違い全く力が足らずもどかしい程だと思っているのに褒められても嬉しくない。
そこで、思い出す。
(この言葉、聞いた事がある)
そのとき、自分は得意になったのだ。嬉しくて、誇らしくて、図に乗った。
もしかして、今日はあの日なのかもしれない。そう思ってミューシカを見る。ミューシカはセイジの視線に気付き手を振る。ミューシカの着ている服はミューシカのお気に入りの服だ。そう、あの日も今着ているお気に入りの服を着ていた。
(もしあの日だとして、これから起こる事に俺はどう対処すれば良い?非力なこの体では大切な人はおろか自分の身さえ守る事が出来ない。どうすれば、いい?)
誰にも自分の考えが悟られないように無表情でそんな事を考えたが、結局答えは出てこない。
そうこうしているうちに稽古が終わる。木刀を返し、ミューシカのもとへ行く。
考えている手段は2つ、あの時とは違う道を通って帰る、もしくは何処かで時間を潰して帰る。非力な今の自分では立ち向かうよりも逃げた方がミューシカを救うのが確実になる。
そう思ってミューシカにそう伝えようと話しかけながら剣を取った瞬間、状況が一変した。
(何で俺は剣を抜いてあの時の賊と対峙してるんだ?)
気がついた時には大剣を手にして自分とミューシカを舐めるように見てる賊に向かってセイジは先程ミューシカから受け取った筈の剣を向けている。周りの光景は先程まで居た広場ではなくあの時ミューシカと帰っていた道で自分は抜いた記憶も無い剣を抜いている。
あまりに唐突で理不尽な状況に涙が出そうだ。
自分にはこんな状況に陥るまでの経緯がスポンと頭から抜けている。もしかしたら一瞬でそんな状況に陥ってしまったのかもしてない。レイはこの世界を夢の世界と言った。もしも本当に夢の中なら何が起こってもおかしくない。
セイジはそう考えながらも青ざめているミューシカを背に庇い油断無く剣を構えながら賊達の様子を窺う。賊達はニヤニヤと笑っている。もしも捕まれば身代金を家に要求するか売り飛ばされるかだろう。
賊の一人が動いた。自分を掴まえようと手を伸ばす。剣を持っているとしてもまだ子供、と思っているのか素手だ。
セイジはその伸ばされた手を切り捨てた。いや、切り捨てようとした。
しかし、今の体には力がなくその手には深い傷があった。骨には達していなかったがその賊は痛みに悲鳴を上げていた。
一気に賊達が殺気立つ。
セイジは初めて他者を意思を持って傷つけた。練習中に勢い余って相手に怪我をさせた事や骨折させた事もある。でも、こんな風に傷つけようとして傷つけた事は無かった。今になって、レイが自分の剣を見ている時の思いに気付いた。レイの言葉の意味に気付いた。
自分は甘いのだ。どうしようもなく。
他人を傷つける事を恐れて、他人を傷つけたくないと思って本気になる事を怖いと思っている。
笑えるくらいに体が震えていて足がガクガクして動かない。
人を傷つけるというのはこんなにも恐ろしい事なのだ。
血の気が引いて手に力が入らない。
目の前でセイジが傷つけた賊はまだ痛みに呻いている。
また賊の一人が今度は悪意を持ち剣を振り上げてセイジに襲いかかる。
その時だった。自分の体が何かに引っ張られる感覚があり、足が動く。賊の剣はセイジの服を破り皮膚を少しだけ裂いたが大怪我を負う事は紙一重で避けた。正に、危機一髪だ。
セイジを引っ張ったのはミューシカだった。恐怖で怯えていながらも動けないでいるセイジを引っ張ったのは見事な機転としか言いようが無い。
続けざまに賊の剣がもう一度振り下ろされる。ミューシカがセイジを引っ張った事でもしその剣がまともに振り下ろされてしまえばセイジだけでなくミューシカも巻き込まれる。そう思った瞬間、セイジの体はさっきまで震えて動かなかったのが嘘のように迷い無く、力強く動いた。
賊の剣をやっとの事で受け流すと素早く体勢を直してミューシカを守れる位置に立つ。
さっきは嫌でも昔の事を思い出した。あの時のセイジは賊の一人を傷つけ振り下ろされた剣からミューシカに庇われた。そしてまた振り下ろされた剣に震えるばかりで何も出来ず、気付いた時にはミューシカが自分を庇い血塗れで虫の息で自分の上に倒れていた。
自分の、せいだった。
何とかできると、褒められて調子に乗った代償はとてつもなく大きかった。自分は、あのとき大切な人を失った。
逃げれば良かったんだ。最悪、捕まったとしても抵抗するべきではなかった。そんな状況に陥った時どうすれば良いのかは教わっていた筈なのに。ミューシカは、逃げようとセイジの服の端を掴んだのに。
全て、自分の責任だ。
自分が、ミューシカを傷つけたも同然なのだ。あんな状態にしたのは自分なのだ。
あの時は、それから直ぐに通りかかった大人が助けに来た。でも、ミューシカの傷は深く血が流れ過ぎていて彼女は何日も生死の境を彷徨っていた。
その時、強くなりたいと初めて心から思った。自分の為じゃなく誰かの為に強くなりたいと。
過去を繰り返したくはない、過去の失敗から何も学ばずまた同じ失敗を繰り返したくはないと思うと体が自然に動く。
自分の体の異変に気付いたのはその時だ。
(剣が軽い、それに力も強く)
背が、賊達と変わらない程になっていた。振り下ろされる剣を軽く弾き返し逆に反撃して返り討ちにする。
意思をもって他人を傷つける。大切な人の為に他人を切り捨てる。でも、殺す事は出来なかった。それは、甘さでも何でもなくただミューシカにそんな残酷な光景を見せるわけにはいかないと思ったからだ。
半分以上を倒した所でミューシカを抱きかかえて走り出す。安全だと思える場所、自分の家へと辿り着いたセイジはそこでミューシカを降ろす。ミューシカは腰が抜けたのかその場に座り込んで信じられないというようにセイジを見つめる。
「あっ、あなた、セイジ?」
驚いたような声と表情のミューシカにセイジは笑って頷いた。周りには不自然な程人が居ない。
「な、なんで急に大っきくなったのよ!?」
「ごめん」
セイジはミューシカの小さな体を抱きしめた。本当は、自分と同じくらい成長している筈の彼女の体を思う。
「急に謝られても意味が分からないわ!」
「うん。でも、ミューシカが無事で良かった」
例え夢の世界でも、自己満足でも守れた事が嬉しかった。ミューシカを抱く腕を緩め、驚きと困惑の表情を浮かべるその顔を見つめる。これから彼女は成長し大きくなれる。
そう思った時だった。
衝撃と痛み。
口から何かが溢れ出す。
それは赤い、赤い自分の血だった。
何かを言おうとして、でも言葉ではなくまた血が溢れる。
痛みの原因は背中からセイジの腹を貫いた剣だった。
目の前が段々と暗くなる。どうやっても体に力が入らない。それでも最後の力を振り絞って後ろを振り向く。
「ぉ・・ま、ぇ・・・」
言葉がそれ以上続かない。ゴホッ、ゴホッと咽せて又血が溢れる。そこに居たのはさっき振り切って来た筈の賊の一人、今は無表情に自分を見下ろしている。さっき見た時、目の前の賊は指示を出しているだけだった。つまり、賊の頭だろう。
ミューシカが半狂乱で自分の名前を叫んでいる。
体の感覚が段々と無くなり目の前には光が無くなっていく。
そしてセイジは息絶えた。鼓動の音はもう聞こえない。
ミューシカは目の前で起こった事が信じられなかった。自分の腕の中には段々と冷たくなって行くセイジの亡骸がある。
いきなり大きくなった事には驚いたが自分に向ける眼差しや掛ける声は小さい頃と変わっていなくてすんなりとその変化を受け入れる事が出来た。でも、どうしてセイジは急に大きくなったのか分からない。
その事を質問しようとしたのにセイジは目の前の男に殺されてしまった。
頭が痛い。これを受け入れたくない。どうして?どうしてセイジが死ぬの?
どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?
思考は繰り返すばかりで答えはない。
ボッと音を立てて急にセイジの体が真っ赤な炎に包まれる。
「セイジ!?セイジっ!!」
ミューシカは必死でセイジを燃やす炎を手で払おうとする。しかしその炎はミューシカに火傷を負わせる事はなかった。燃え移りもしない。ただ、セイジの体だけを焼いて行く。
セイジの体が焼ける匂いに絶叫を上げる。
暫くしてセイジの体は完全に炭となり一陣の風が吹いたとき願い虚しく吹き飛ばされて行った。
セイジの名前を叫びながら取り乱して泣きじゃくるミューシカに聞こえたのは、
「何を泣いているの?あなたの言うセイジはもうここには居ない」
それは、聞いた事のない女の声。静かで淡々とした、でも心に残る真っ直ぐ入って来て心を揺さぶる声。
非情とも言える言葉にミューシカはその声が聞こえた方を睨む。
それは賊だった筈の人物。手に持っているのは未だ血に濡れている大剣、不自然な程ブカブカの男物の服を着て何の感情も浮かべていない黒い瞳と服から溢れる黒髪。
双黒の彼女はミューシカを見下ろし、ただ小さく笑った。
ミューシカは目の前の彼女が体に宿す色に目を見開き、浮かべた小さな笑みに何故かゾッとするものを感じた。
セイジが消えた。レイの思惑は?ミューシカの未来は?
次で解決する予定です。