91:狂気と終わり
気がついたとき、私は知らない誰かの腕の中にいた。
私には、直ぐにその誰かの正体が分かった。
悪魔だ。
それも、とても強い。
微かに、大嫌いな人の気配がする。
その御陰で、目の前の誰かが私にとってどんな存在なのかが分かった。
無表情。
お互いに。
「貴方はダレ?」
名前を知ろうとそう問いかけるが、目の前の人物は何も答えない。それでも、その顔が一瞬だけ歪むのが何故か分かった。表情は、相変わらずの無表情の筈なのに。
「誰でもいいわ。ここは何処?さっきまで、私は牢屋の中にいた筈なのに。どうして、私はここに居るの?」
「記憶が飛んだか」
目の前の誰かの冷静な反応にも、私は訳が分からない、と言う表情を浮かべるしかない。
「それも、どうでもいい事ね。貴方は悪魔なんだもの。それに、今までの疑問全部忘れて」
私はそう言いながら立ち上がる。頭が重い、痛い。体に力が入らない。目に映るモノ全てに色がない。興味がない。
私の世界は母が死んだとき、終わったようなものだ。
何故、私が生きているかの方が不思議だった。
不意に、視界が赤と黒に染まる。
目の前に見えている筈の映像が頭の中で別の映像に切り替わる。
(頭ガイタイ 気持チ悪イ 恐イ 憎イ 悲シイ 嫌ダ)
それが、自分が思っている感情なのかそれとも他人の感情なのか、もう分からない。感情の波に襲われ、自己を保つのが難しくなった。
何処が痛むのか、分からない。
目の前に、見たくない光景が広がる。
「ハハッ、アハハッ」
無意識のうちに狂ったような笑い声が自分の口から漏れる。
無かった事にしなければならない。だって、認めたくない。すべて、消し去ってしまおう。
『燃えろ その体 全部』
自分が何を言っているのか分からない。
笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、苦しんでいるのか。分かるのは何かを言葉にしているという事だけ。
もう、何が現実で何が幻なのか分からない。
ただ、自分の目の前にある一番大切な人の体をこの世から抹消しなければならない。
そのまま、自分も消えてしまええばいい。
いいえ、消えてしまいたかった。
一人きりでこの世界に居場所を切り開いて生きていくには、私の心は弱すぎるから。
見えたのは、美しい黒髪の持ち主に向かって大きな火の玉が飛んでいく光景。
終わった、と思ったのは一瞬だけだった。
レイの言動から、レイが正気を失った事が窺えた。
体に触れた時、幾つもの感情と記憶がファラルの中に流れ込んだ。
どれほどの憎悪と悲しみと怒りをその小さな体で受け止めたのだろうと思うとやり場のない怒りが去来する。
レイが立ち上がり、ぼんやりと周りを見回した。
しかし、その目には何も映っていない。
不意に漏らす意味のない笑いや叫び、意味の繋がらない呟き。
『燃えろ その体 全部』
レイが自分を見ながら火属性の言葉を紡ぎ、火の玉がファラルに向かって飛んで来る。
彼女が見ているのがファラルではなく、ファラルの髪の毛だった事からレイに本格的に異変が起きた事に気付く。
ファラルの髪は群青色だ。それなのに、髪に反応するという事は本来の色がレイの目には映っているか、幻覚が見えているかのどちらかだ。
しかし、ファラルには大人しく燃やされるつもりはない。
すぐさま剣を抜くとレイの放った火の玉を切った。魔力をこめたり、特別に打たれた剣は魔法をもはね返す事が出来るし、相殺する事も出来る。
ファラルが火の玉を切った瞬間、そこから風と煙が生まれた。煙の色が若干黒みがかっているのはファラルの剣の影響だ。
『風よ 彼の者を 切り裂け』
おかしいな、というぼんやりとした表情を浮かべながらレイはもう一度、今度は別の言葉を紡ぐ。その風もファラルは剣を一振りするだけで避ける。ファラルはまだ一歩も動いていない。
部屋の中の煙は扉から部屋の外へ出る。部屋の中の煙は無くなったが、部屋の外は煙が充満している。
『燃えろ 燃えろ 全部 灰になればいい』
『吹き飛ばせ 切り裂け 全部 残らず』
『凍れ』
時に楽しそうに、狂ったように歌いながら。時に意味もなく泣きそうな声で。時に何の感情もないかのように冷ややかに。レイは沢山の言葉を紡ぐ。
しかし、ファラルは全く動じない。一歩も動く事なく手を少し動かすだけで全ての魔法を相殺する。
「・・・・・・どうして、消えてくれないの?」
レイは無表情でファラルに問う。相変わらず、何も見ていないレイにファラルはこれからどうするべきかを決断した。
ヘルスが気をきかせて煙を風で吹き飛ばした。
アルは部屋の前にいたマリに状況を聞くとマリはレイとファラルは部屋の中にいる、という意味で部屋の中を指差し、アルはその意味を完璧に汲み取った。
中の状況を見る事が出来るようになりアルとマリは部屋の中の光景を見た。
部屋の中では、レイとファラルが殺し合いじみた光景を繰り広げていた。
その光景は、思わず息を呑む程の気迫に満ちていた。
しかし、レイはファラルが剣を持っているにもかかわらず、剣ではなく魔法だけでファラルと相対している。普段ならレイも剣を持っている状況に思えるのに、何故レイは普段あまり使わない魔法を使っているのかが分からなかった。
レイの魔法は発動は速いが魔力が余り込められていないのか威力が軽いように思える。しかし、傍目から見れば十分な威力がある。それにどの属性でも同じような威力なのでかなりの使い手だという事が理解できる。
2人の間に流れる変な雰囲気に部屋に入るのを一瞬躊躇ったアルはその所為で部屋の中で起こった事に直ぐに反応出来なかった。
最初は、ファラルが一歩踏み出したのだと理解できた。しかし、その先が分からなかった。
フッとその姿が消えたかと思うと、次の瞬間にはレイの体が部屋の壁に向かって物凄い勢いで吹っ飛び、衝突した。
レイは受け身をとる事が出来ず全身をぶつけた。頭を強く打ち、思考が全て吹っ飛ぶ。
先程までレイが立っていたところにはファラルの姿があった。レイを吹っ飛ばしたのはファラルだった。
足に力を入れる事が出来ず、壁に背を当てたまま座り込んでいるレイに今度はゆっくりと近付くと強くお腹を蹴り上げ、腕を掴んで体を起こすとその顔を容赦なく殴る。
レイは痛みに泣き叫ぶ事も、呻き声をあげる事も、「やめて」と懇願する事も無かった。近付き、自分に一方的と言っていい程の暴力を振るい続けるファラルの姿を見ても、悲鳴を上げるどころか、その瞳に恐怖の色を浮かべる事も無い。
果てしなく、無だった。レイの目には目の前の出来事など何も映っていない。レイの体は痛みを感知しない。
ファラルが剣を振り上げた瞬間、アルは無我夢中で駆け出していた。その間にもファラルの剣はレイの体を狙って正確に振り下ろされる。
(間に合わない)
そう思った瞬間、言葉は自然に出てきた。
『光よ 彼の者を 守り 隠せ!!』
光は一瞬にしてレイの周りに集い、ファラルは結局レイではなく光の守りを剣で切った。
光魔法の中でも実力に作用される守りの術。アルの実力であれば一撃でその守りを壊せるものはいないとまで言われている。それをファラルは一閃で薙ぎ払った。
「邪魔をするな」
淡々としたファラルの言葉に、アルはキッパリと、
「見ていられる状況ではない。その剣を下ろせ。これは上司としての命令だ」
と剣を構えながら宣言した。
部屋の入り口には術によって室内には入れない他の者達がこの緊迫した状況を見守っていた。
「断る。これはレイの望みだ」
一片の迷いも無くそう宣言したファラルはレイに向かって剣を振り下ろそうとした。それをアルが防ぐ。
金属がぶつかる音が部屋に反響する。
その音に、頭から血を流し何処を見ているのか分からない虚ろな目で自分の体を見下ろしていたレイは目の前で繰り広げられる2人の立ち合いも見てはいるが意識はしていない。
ふと、視界の端に現れた違和感。
それが自分のモノだと気付いた時、頭がスッと冷えていくのを感じた。
次々と思い出していく自分の記憶。それは衝撃であるとともに納得だった。それでも、記憶が曖昧な部分がある。
思い出そうと努力するか、まずは体をどうにかしようか一瞬迷った末、目の前の2人をどうにかしようと決めた。
「ファラル、もういいよ」
「思い出したか?」
「大体ね」
そう言って「う〜ん、体の節々が痛い」とふざけ半分に呟きながら立ち上がる。頭から血が流れ続けているが特に気にする事ではないので放って置く。どうせ、その内止まるだろう。
特に痛い、と思う事は無いのだが軽い脳震盪と頭部他体の至る所に裂傷や擦過傷がある。お腹を蹴られた時に肋骨が折れて内臓が傷ついたらしく咳をするだけで血が大量に出てきそうだ。
足も右はひび、左は完全に折れている。左肩は脱臼している。右は筋肉が切れている。
そんな体で歩ける者はいないと言えるのだが、レイはあいにく普通とはかけ離れていた。
ファラルも、もう一人もお互いに交わらせていた剣を鞘に納める。
アルが何か言葉を発するよりも前にファラルがレイに近付き、その体に触れる。またレイを傷つけるつもりか、と叫ぼうとしたアルは結局その言葉を発する事が出来なかった。
いまだ、少しぼんやりとした顔をしているレイの顔に目線を合わせ、レイの唇にファラルのものか近付き、重なる。
俗にいう、ディープキスというものか。
間近で見ていたアルも、扉の外から見ていた他の皆も濃厚なディープキスに目を逸らせなかった。
どれだけの時間が経ったのか分からない。
レイが何度か苦しそうに咳する。
そして、漸くファラルの舌がレイから離れた。そのとき、その違和感に気付いたのは間近で見ていたアルだけだった。
舌が離れる瞬間、一瞬細い糸が引いた。その糸が真っ赤に染まっているように見えたのだ。
「レイ、口を開けろ」
思わず、命令するように言うと、レイは素直に口を開いた。その中は血で真っ赤に染まってる。
「もういい?」
そう言って口を閉ざしたレイに、不意打ちで、またファラルが唇を重ねる。
何かを飲ませているらしく、ゴク、とレイの首元が何度か動く。
はっきり言って、周囲の人間をまるで無視している。
「いい加減にして。そこまで重傷じゃないでしょう?」
ファラルを軽く睨みながら言う言葉には、苛立が混じっていた。
そして、アルは自分を見てレイが口にした言葉に茫然とした。
一応大切な部分だけは理性が残っていたらしく本当に大切なところはボロを出していなかった事にホッとしつつもまだ完全に戻らない記憶に苛立を隠せない。
体中にあった怪我はファラルの血を口移しで飲まされたことですでに完治していると言ってもいい状態だ。
ふと、近くにいた銀髪に金の瞳を持った男の姿を捉える。目を見ればそれが元の色を隠している魔法だという事がすぐに分かった。
彼に言うべき事は一つだ。
「貴方、誰?」
彼の顔には全く見覚えがなかった。
相手が驚愕の表情を浮かべた事から、彼は思い出されていない記憶の中にちゃんと存在していたのだろうと仮定し、扉の方へと目を向ける。
覚えているのはサラ、マリ、マリア、セイジ、ベクター、ヘルスだけだ。
「記憶、喪失?」
目の前の男が自分を納得させる為に無意識のうちに呟いた言葉に、
「そうみたい。でも、前にも何回かあった事だし今日中か、遅くても明日までには全部思い出すと思う」
と笑みも添えてレイが答える。部屋の外に居る者達にはそんな2人の会話が聞こえない。
「貴方のお名前は?ついでに、あそこに居る人達の名前も数人教えてほしい」
「私の名はアルシア。アルシア・トニン。アルと呼んでくれ」
そう自己紹介した後、レイに問われるままレイが指差した者の名をレイに伝える。
レイがファラルとアルに部屋を出よう、と提案するがアルがその提案に待ったをかけた。
「ファラル、君はレイを攻撃した。私の言いたい事は分かるな?」
「私が他の人間を殺しかねない、だろう?」
「ああ。君が本当に私達に牙を剥かないか・・・。レイの契約者と言っても、君は悪魔だ」
剣呑な雰囲気になりかけた2人の睨み合いは、レイの言葉によって終わった。
「ファラルに、私を攻撃するように頼んだのは私。結構前から嫌な予感がしてたから事前に頼んでおいたの。もしも私が理性を失ったら動けなくするように、って。じゃないと、この城吹っ飛んでいるから」
つまり、ファラルの裏切りのようなあの行為の数々は全てレイに頼まれてやったという事だ。
「それは、全て真実か?」
「こんな事に、嘘を言ってどうするの?」
逆に問われ、アルは一瞬悩んだ後、2人を連れて部屋の外へ向かった。
名前さえ覚えていない、と言った割に、レイにはその人物に関する記憶が無い、と思うようなボロを出さなかった上に今までと同じように付き合っていた。
アルとファラル以外はレイが一部記憶を失っているとは知らない。他の者がその事に気付く事は結局無かった。
しかし、レイは一度だけ失態を犯した。
レイに対して色々な質問をされたがレイは「大丈夫」や「何でも無い」と曖昧に誤摩化していた。
城から出ると完全装備をした兵士達がシオンを救出する為の計画を練っていた。その人達にアルが事情やらを説明し、レイが城から出る前にある部屋を探って見つけた城の仕掛けが全てかかれた地図を渡した。これで城の中で死ぬような者が出る可能性は減るだろう。
色々な質問をされたがシオンとアルの立場と説明で全員が予定通りに帝都に戻れる事になった。
帰りの馬車は行きと同じメンバーだ。
レイはぼんやりと馬車の窓から外を見ている。ふと、その顔がゆっくりと馬車の中を見回した。
小さく馬車の中に居た者の名を何人か呟く。それは全てレイが忘れていた者達の名だった。
「呼んだ?レイ」
レイが呟いた名の中にシオンの名があり、それを聞いたシオンがレイに向かってそう問う。
「ふと思い出した事があって色んな人の名前を考えているうちに口にしただけ」
曖昧な誤摩化し方に馬車の中に居た全員が怪訝そうな表情を浮かべるがレイがそれ以上何も言わず、またぼんやりと外の景色を見始めたのでレイの言葉を追求する事が出来なかった。
その中で、アルだけがレイが記憶を取り戻したのだと察し、内心ホッとしていた。
前回の投稿からかなりの時間が経ってしまいました。
レイの狂気の片鱗が見えましたが、これはまだ理性を保っている方なのです。