86:「ごめんね」と「さようなら」
「物珍しい光景ですか?」
レイの顔には赤みが差し始めていた。ファラルが腕から手を離した時には既に血が止まり、全ての傷口も塞がれていた。傷跡など何処にもない。
「・・・治癒魔法?」
「そのようなものです」
含みのある笑みを浮かべながら、曖昧な言葉を返すレイに、レイの容態はかなり良くなっているのだろう、と何となく思った。
「多用しすぎると自然治癒力が落ちる」
「知っていますけど、そうも言っていられない状況ですし。それに・・・・・・」
何かを言い続けようとしたが、彼女は口をつぐんだ。その続きを言う気はないらしい。
沈黙の中でレイの姿を見ていた。アルが今とらなければならない行動は部屋を出て行くか、レイに何かを羽織らせる事だ。下着姿の女性と同じ部屋に居る事は礼儀に反する。しかしアルはどちらの行動もとれなかった。そして、ある事に気付く。
「胸のあたりにあった痣は?」
「傷を消せるんですよ?実は、作るのも消すのも自由自在なんです」
悪戯をした子供のような表情と声に、アルは何処か違和感を感じた。アルの戸惑いを感じたのか、レイは急に真顔になった。
「ここから放り出してくれればいいのに、と思っています。私がアルに話した話、全て嘘なんですよ?」
いつも通りの表情と口調。その中に何か違うものを感じた。
「全てが、嘘なのか?」
「・・・・・・そうですよ」
最初に間があったがそれでもレイは嘘偽りない、という口調で答える。
「そうか・・・。だが、それでも2人を放り出す事はない」
「何故?」
「私が2人の身元引き受け人だからだ」
キッパリと言ったアルに、レイは一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、小さく何処か寂しげに笑った。
「後悔しても知らないよ?」
確信のある言葉にアルは少しだけ疑問を持ったが、尋ねる事が出来なかった。尋ねたとしても、答えないだろうという事が何となくわかったからだ。
しばらく沈黙が続いた。急にレイが頭を抑える。小さく苦しそうな息づかいが聞こえた。
「レイ、もう無理だ」
「分かってる」
ファラルの言葉に、苛立っている様子のレイが投げやりに言葉を返す。アルはレイの体調を考慮して、部屋から出ようとした。部屋を出る直前、
「二度も説明する気はないから、説明が聞きたければ明日〔トリグル〕にいく時に同行して下さい。アルはもう無関係ではありませんから」
としっかりした口調でレイが言葉をかけた。アルは一度振り返って「分かった」と返すと、今度こそ部屋を出て行った。
次の日、レイは昨日の事件の跡など全くなかった。〔トリグル〕の滞在している宿へ、レイとファラルに同行していたアルはレイの体調を気にしていたが、全くおかしな所はなかった。
「待っていました、レイ。アルファがっ!!」
3人を出迎えたのは、少し青ざめた顔をした女性だった。
「分かってる、タカ。アルファは?」
「眠っています。昨日から何度も原因不明の発作を起こしていて・・・・・・。眠りも、うなされる事があって」
「そう、か。薬は飲ませてる?」
「はい」
「残りは?」
「前回来てくれた時に、大量に作っていただいてましたので、まだ残りはあります」
「帰る前にまた作る。材料を準備しておいて」
上着を脱ぎ、袖をまくると迷いなく歩き出したレイをファラルとアルが追いかける。タカはまわりに居た〔トリグル〕の大人に指示を出し、少し遅れて3人の後に続く。
ノックもなしにレイがずかずかと足を踏み入れた部屋の中にはオオワシとデルタ。そして、苦しそうにうめいているアルファが居た。
「デルタ、少しの間部屋の外へ出てなさい」
「どうして!?」
「デルタ」
「・・・・・・分かり、ました」
悔しそうな顔をしながらもデルタはオオワシの指示に従った。
「レイ、頼む」
オオワシの言葉に、入り口付近で立ち止まっていたレイがアルファの眠っているベッドに近付き、まず頭に手を置いた。すると、「ダ、レ?」と小さくか細い声が聞こえた。アルファが起きたのだ。
「多分、貴女が今一番会いたくない、二度と顔も見たくない相手」
「レ、・・・レイ?」
「そうよ」
レイは淡々と言葉を返し、機械のようにアルファの体を診ている。だが、アルファは異常なほど怯えだした。
「イッ!ヤ・・ヤーーーーーー!!イヤ!怖い!殺さないで!来ないで!アアアアアァァァァーー!!」
先程まで苦しそうにして眠っていたとは思えないほどの悲鳴に、部屋の外に居たデルタが慌てて部屋に入って来た。
レイはアルファの爪に頬を深く抉られて血を流していた。アルには先程のアルファの抵抗をレイならば避けられただろう、と根拠のない確信があった。なのにレイは避けなかった。まるで、その怪我を当然の事のように受け止めたように見えたのだ。
「触らないで!イヤッ!やめっ、やめて!!」
レイは顔にいくつか引っ掻き傷を作り、指を噛みちぎられそうになっていた。結局噛みちぎられることは無かったが皮膚見事には食い千切られていた。それまでレイはアルファの好きにさせていたが、アルファの息づかいがおかしくなったのに気付くと、アルファが自由に身体を動かせないように片手で両手を抑え、馬乗りのような格好になった。
デルタがアルファに駆け寄ろうとしたのをタカが羽交い締めにして阻止する。
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い・・・・・・・・・・」
狂人のように涙を流しながら同じ言葉を繰り返す。その異様な光景にアルは言葉を失った。
「アルファ、眠って。今度は怖い夢なんか見ないから。全部、夢だから。次に起きた時には全てを忘れている」
レイがアルファの耳元でそう囁いた。するとアルファは深い眠りにつく。
「・・・どうして、アルファがそんな状態に陥ったのか、レイの推論を聞かせてくれないか?」
「私のせいよ」
オオワシの言葉に、レイは躊躇う事無く答えた。その言葉に過敏に反応したのはデルタだ。タカの手を振り払うとレイの服に取りすがり叫ぶ。
「レイが、アルファをこんな状態にしたの?アルファ、苦しんでたんだよ?怖がってたんだよ!?」
「知ってるよ。全部、分かってる。デルタ以上にね」
デルタのように冷静さを失う事の無いレイの答え方に、デルタは更に激昂した。
「何が一族の恩人だ!!?アルファの事を、こんなっ、こんなに傷つけてっ!!」
「そうだね。言いたい事は以上?だったら、さっさと部屋を出て。部屋に入っていいなんて、誰が言ったの?」
「デルタ」
タカがデルタの肩を抱きながら部屋を出る。
「・・・デルタが、すまない。あれはアルファの事を溺愛している節がある。子供の言葉として許してやってくれ」
「分かっています。仕方の無い言葉だと思うわ」
全く気にしていない様子で、アルファの心拍数を測ったりしていたレイは診察が済んだらしく、ベッドから離れた。
「さて、今回のアルファがこのような状態に陥った説明をしましょうか」
レイは窓際に腰掛けると悠然と微笑んだ。
「今回の事は、口で説明すると・・・漏れだした私の負の記憶がアルファに流れ込んだ。まぁ、口で言っても分からないだろうから体験させる。心配しなくても映像を見ている感じだから」
そう言ってレイが目を閉じたのを見た瞬間、部屋に居た全員が同じ光景を目にしていた。
まず見えたのは流れていく木々。その先を走る人間。荒い息づかいが聞こえてきそうなほど肩で息をしているのが遠目にも分かる。何かに躓いたのか、目の前を走っていた人間が転倒した。
立ち上がる気力も無くなったのか、近付いても恐怖と憎しみの目を向けるその人間からは諦めが窺えた。その人間の首元に剣を突き付ける。最後の抵抗とばかりに「殺さないでくれっ!!」と叫ぶ人間の首を迷い無い剣筋で切り離す。
血が噴き出し、剣を握っていた手にもかかる。その手は小さく、まだ子供のもののように思えた。体が傾き、首の無くなったそれは地面に崩れ落ちる。
「死者への冒瀆、か・・・。私には全く関係ないな」
聞こえて来た言葉はレイのもの。崩れ落ちた体を足で仰向けにするとその腹を剣で切り裂いた。切った所に手を突っ込むとそのまま何かを探るように動く。いまの光景だけで気分が悪くなる。異臭が漂い鼻が利かなくなる。気を緩めれば涙が流れそうだ。
「はい、終了〜」
間延びした暢気な声が聞こえて来た。霧が晴れたように視界が開く感じがしたあと、目の前にあったのはレイの顔だった。顔と顔がくっついてしまいそうな程近い。
「タカ、顔色悪いから吐いて来なよ」
レイの言葉に、タカが青い顔をして部屋を出ていく。
「理由は、分かってもらえたかな?」
柔らかく微笑むレイに対して、自然と視線が厳しくなる。
「・・・何故、レイの記憶が俺たちに伝わる?」
オオワシの質問に、レイは当たり前のように「私が特別だから」と言った。
「詳しい説明は面倒なの。理解するのも難しいと思うし」
だから、説明はこれで終わり。と続いた言葉のあと、長い沈黙があった。その静寂が途切れたのは扉のノック音だった。「材料の準備、終わりました」という言葉に、レイは一言返事をすると、
「アルファが起きたら教えて下さい」
と言って、部屋を出て行った。ファラルもその後に続く。
部屋に居るのはアルとオオワシだけだ。はっきりと言えば気まずい状況だ。
「貴方がレイと共に過ごしている経緯をかいつまんで教えてくれないか?」
オオワシの言葉に、アルは一瞬目を見張り、すぐに言葉を口にし始めた。
「最初はある種の気まぐれのようなものだっただろうな。学校に通った事が無い、という話を聞いて通わせたいと思った。ここまで来れば後戻りも出来ない。それに、不可解な点が多いという面では逃がしてはいけない」
ハハハッ、と少し豪快な笑い声をあげたオオワシにアルは驚いた。一頻り笑った後、オオワシは翳りのある笑みを浮べたまま訥々と語り始めた。
「一族にとってレイが恩人である事は変わりない。アルファが生きているのもレイの御陰だ。だが、レイには謎が多すぎる。・・・・・・正直、意外だったんだ。レイが大人しく君達の考えに従っている事にな。彼女には他人に執着なんか無いだろうな権力にも何にも縛られず、自分のやるべき事を、やりたい事を淡々とこなす。気まぐれな性格で、暫く一緒に過ごしていたのに、ある日『また会えたら会おう』と言って離れていった」
「・・・・・・」
アルは言葉を失っていた。何処まで自由気ままなのだろう。
「何の前触れも無く、か?」
「ああ、その言葉を聞いたのだって偶然その時にテントから出たからだ。そうでなければ何時も間にか、消えていた。実際にその後、暫く滞在していたのにある日ふと姿を消したというのを聞いた。知っているだろう?クィルフェン近くの村の事だ」
疲れたような声と表情に、アルはオオワシが何を言いたいのかよく分からなかった。その事を察したらしいオオワシが苦笑を浮かべて、
「謎が多いんだ。何を考えているか分からない、だから距離を置かざるを得ない。レイ自身が一線を引いているからこちらもそれ以上踏み込めない」
そのとき「う・・・ん」と声がした。ベッドの上を見るとアルファが身じろぎしていた。
レイは手際よく薬を作っていた。途方も無い量の薬を見て、ファラルはレイの考えを察した。予想していた事だ。別段そこまで驚きは無い。彼女の性格を彼女以上に理解している、と密かに自負しているファラルはレイの心内を察して何も言葉をかけなかった。
「これで最後」
一言呟くとレイは手を止めた。材料は既に尽きている。だがファラルはレイの言葉の二重の意味に気付き、ただレイを見つめている。どちらも無表情で何を考えているのか分からない。しかし、当人達にはお互いに今何を考えているのかが心を交わさずとも手に取るように分かった。
「アルファはもう大丈夫だし・・・・・・帰ろうか」
その言葉の中には決意があった。揺るぎない決意。
彼女は、柔軟な割に酷く強情だった。
「レイ!アルファが起きた、今は薬を飲んで落ち着いている。タカが着替えさせてる」
「分かった。アルファの所に行かせてもらう」
オオワシとアルが伝えに来てくれたのでレイは言うべき言葉を一度だけ頭の中で考えた。シュミレーションは完璧だ。そして、しっかりとした足取りでアルファの居る部屋へ向かった。
「アルファ、入るよ」
短く許可を取ると部屋へ入ったレイに向かってアルファが穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべていた。少々やつれているようだが、数日すればそれも消えるだろう。
「具合は?」
「大丈夫です。私、今までずっと寝ていたんですか?」
「少しの間起きてた時もあったけど、覚えてないのね」
「はい」
先程のアルファの異常が嘘のようだ。しかし、アルファが次に口にした言葉にレイは一瞬眉を顰めた。
「でも、何か怖い夢を見ていた気がする。怖い・・・・・・」
レイはアルファの口を人差し指で押さえ、その言葉の先を言うのを遮った。
「怖い夢は忘れなさい。それは結局夢でしかないんだから」
「・・・は、い」
レイはアルファの熱を測ったりしたあと一言「ごめんね」と呟いた。
「守ってあげられなかったね。多分、怖いおもいをさせた。アルファの体も大分よくなっただろうし、私はもう必要ないわ。今までが変だったのよ。だから、これで終わり。さようなら」
そう言って不安そうな顔をしたアルファの目を閉ざした。アルファの体が傾いたかと思った瞬間、レイはアルファの体を片手で支えていた。そして、ゆっくりと体を横たえさせると立ち上がった。
「オオワシ、タカ。最後にデルタに会いたい」
「部屋の外に居るだろう」
「今までお世話になりました」
丁寧に頭を下げたレイはすぐに部屋の外へ向かった。レイが扉のノブに手をかけた瞬間、オオワシは「気が変わったら何時でも来てくれ」と声を掛けた。
「気が変わったら、ね」
レイは微笑を浮かべた顔だけをオオワシとタカに向けてそう言うと、部屋から出て行った。ファラルがその後に続きアルは少々戸惑いながらも挨拶と軽い一礼をして二人に続いた。
「『さようなら』か・・・」
「レイの気が変わる事はあると思いますか?」
「無いだろうな。レイは二度と一族に関わるつもりは無いだろう。万が一もう一度一族が危機に瀕したとしてもレイが直接手を貸す事は無い。それが、彼女の決意だ」
オオワシとタカは眠っているアルファに近付くと、見守るような慈愛に満ちた優しい瞳を向けた。しかしその瞳の中には、ほんの少しだけ寂しさがあった。
「デルタ」
レイは部屋の直ぐ外に居たデルタに声を掛けた。敵意に満ちた目でレイを睨みつけるデルタに近付いたレイはその顔を上に向かせた。
レイの顔は何故印象に残らないのかが不思議なほどに整っている。アルファの爪にかぐられた頬の傷があってもレイの美貌を何一つ損ねない。
「アルファは全てを忘れたわ。怖い夢はもう見ない。でも、思い出す事があるかも知れない。だから、私はアルファに近付かない。〔トリグル〕に来るのも今日が最後よ。元々、君達にここまで付き合うとは思ってなかったし、アルファを傷つけた今は会う資格も無い。だから、これからはデルタが今まで以上にアルファを守りなさい。デルタが何をすればアルファの為になるのか、アルファの為に何が出来るのか、考えなさい。私の忠告は以上。デルタにも言っておくわ『ごめんね』。皆には『さようなら』って伝えておいて」
言い終えるとレイはデルタの顔から手を離した。状況が読み込めなくて茫然としているデルタにレイはもう一度、
「さようなら、デルタ」
と言葉をかけた。
館へ帰る道すがらアルはレイに、
「二度と、会うつもりは無いのか?」
と尋ねた。アルにはレイの「さようなら」がもう二度と会う気はない、という意味を含んでいるような気がしたのだ。オオワシ達の反応を見てもアルの推測は当たらずといえども遠からず、という自信があった。
「ええ。私は、感情に負けました。会う資格はありません。例え、アルファが忘れても。例え、デルタの中の憎しみが消えても私自身にまた会う気がないんです。多分、潮時だったんでしょうね」
あっけらかんとした返事と答えに、アルの方が戸惑ってしまう。ファラルは相変わらず何も言わない。
「あの光景は何だったんだ?」
「私の記憶を具現化したもの。幻術、と言えば分かりやすいかな」
レイの答えには矛盾がある。
「では、何故その幻術でレイの記憶を見せた?アルファという少女に幻術を見せたとすれば、何の為だ?」
「あらら、指摘されちゃったよ〜ファラル」
「お前の頭が回っていないんだろう」
ファラルの返事は素っ気ない。レイは見捨てられた、と少々大袈裟に言うと急に真面目な顔になって、
「私が特別だから。確かにアル達にあの光景を見せたのは幻術だった。匂いや声も再現してね。そうじゃないと、多分耐えられなかったと思うよ?」
と言った。そして、「これ以上聞いても、何かが変わるわけじゃないしもういい?話すのも面倒よ」と言うとそれから館に着くまで一言も口にしなかった。
「ご飯、いらない」
漸く口にした言葉がそれだった。アルがレイを引き止める前にレイはさっさと階段を上った。ファラルもその後に続く。アルはどうするべきか一瞬迷った後、厨房で食事の準備をしている者に伝えるべき事を伝えにいった。
その夜。
『・・・ぁ!・・・あぁ!・・・っ!!・・・・助けてっ!!』
叫び声が遠くから聞こえて来た気がして飛び起きた。
すぐに耳を澄ませて辺りを確認するが叫び声など何処からも聞こえない。だが、どうしても助けを求める叫びが頭から離れなかった。
立ち上がり窓の外を確認するが異常は見つからない。ゆったりとした白いシャツに動き易い茶色のズボンという格好が鏡に映っている。鏡を見ている自分の瞳の色は闇のような黒だった。
瞳の色を変える気になれず、取りあえず館を見て回ろうと思い立ったアルはその格好のまま自分の部屋を後にした。
館を歩き回っているとレイの部屋の前に壁にもたれかかり、腕を組んで俯いているファラルの姿があった。
アルがその姿を見て立ち止まるとファラルはアルに視線を向けた。頭の上から足の先まで見られているのが分かったがどう反応すればいいのか分からなかったアルはただ黙ってその視線を受け止めていた。
「丁度いいか」
短く呟かれた言葉の意味が分からず問いただそうとした瞬間、ファラルに腕を掴まれていた。
「この際仕方が無い。お前が行け。漆黒であれば隙間もあるだろう」
「は?」
アルは状況が読み込めないままファラルによってレイの部屋の中に放りこまれた。
「何なんだ?」
一言そう呟いてからレイが眠っているはずのベッドの上を見た。しかし、部屋の中には誰もいない。アルの表情に即座に警戒心が浮かんだ。部屋を観察してみると所々空間が歪んでいる。特に酷かったのはベッドの上だ。
ゆっくりとベッドに近付くと歪みに触れてみる。物凄い抵抗が体を襲った瞬間、何か別の力がアルの体を押した。
断続的に視界に映る光景に目を瞑ったアルは、声が聞こえた事でその瞼を開く。聞き覚えのある声は夢で聞いたものだ、と根拠の無い確信があった。
辺りは閑散としていた。生命の音が聞こえない。小さな精霊の声も、虫や鳥の羽音も、木々の揺れる音も無い。聞こえるのはすすり泣くような声だけだ。その声が何処から聞こえるのか辺りを見回すと、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
座り込み、体を小さく丸めている長い茶色の髪をした少女、レイだった。
アルが驚かせないようにゆっくり足音をたてずに近付く。しかし手を肩に置こうとした瞬間、レイは弾かれたように振り返りアルの手を勢いよく払った。
「さっ、触ら、ないでっ!来ないで!だ、誰かっ!誰か助けて!!」
何時ものレイとは全く様子が違っていた。レイが誰かに必死で助けを求めるのを初めて聞いた。表情も切羽詰まっている。そして何より、レイはアルの顔が分からないようだった。
「死ねばいいんだ。手首を切るのでも、胸に短剣を突き刺すのでも、舌を噛むのでも、どんな方法でもいい。死ねば楽になれる。なのに、僕にはもう自らの命を絶つ方法が無いんだ」
静かな言葉だった。静かで、真剣な言葉だった。誰に向けての言葉なのかは分からない。しかし、言葉の裏には深い絶望があった。何処に向けられているのか分からない視線。虚ろな瞳は何も見ていないのだろう。
「レ、レイ?」
アルが不安になってレイの名を呼ぶがレイは全く反応しない。今度は狂ったように叫びだした。
「殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!」
目を見開き、何かに向かって叫び続ける。アルファの比では無かった。それ以上に異常だった。喚き続けた後、いきなり地面に手を叩き付ける。運悪くなのか意図的なのかは分からないがレイの叩き付けている地面には鋭く硬そうな石が突き出ていた。叩き付ける度に手には傷が出来、そこから血が滴る。
「レイ!!」
無理矢理レイを抱きかかえるようにしてその奇行をやめさせると、レイは口を閉ざし体の力を抜いた。レイの目を覗き込んだアルは、レイの目がおかしい事に気付いた。瞳が不自然に揺れているのだ。
「・・・・・・暗いよ。お父さん?お母さん?お兄ちゃん?どこぉ?」
手を突き出しながら不安そうな言葉で家族を呼んでいる。まるで、小さな子供のようだった。アルがレイの体を支えているのに気付いていないようだった。
「お前、誰?」
高圧的な言葉。しかし声は震え、裏返っている。アルの支えを振り払おうとするが、アルはこの状態のレイを放すのは危険だと判断して逆にレイを支える手に力を入れた。
「は、放せっ!!どうせ、あの男の仲間なんだろう!?あのっ、ケダモノのっ!!これ以上の辱めを私に与えるつもりか!?これ以上体を蹂躙されるぐらいなら、獣に食い殺される方がマシだっ!!」
今の言葉にアルは目の前のレイが何の事を指して、そう叫んでいるのかが理解出来た。目の前の彼女は誰かに穢されたのだと理解した。
「腕が!俺の腕がっ!」
レイの口調がガラリと変わった。二の腕を掴み、自分の事を“俺”と言っている。掴んでいる腕から先は全く動いていない。
「・・・・・・あぁ、もう」
困っているのと、自己嫌悪の中間のような声で呟かれた言葉に、アルは自分がホッとするのが分かった。
暫く目を擦ったり、瞬きをしていたが諦めたように溜息を吐くと、苛立を含んだ声で、
「ファラル、何で居るの?一応入って来れないようにしたはずなんだけど」
とアルに向かって聞いた。目はしっかりと開かれている。しかし、目は先程のように不自然に揺れていた。唯一違うのはアルの手の中にある少女がレイだ、という確信がある事だ。
「まあ、いいけど」
アルが言葉をかける前にレイがそう呟くと、レイの手がアルの首に回された。
そのままレイの顔がアルに近付く。
一瞬だった。
一瞬で、十分だった。
「ファラルじゃない」
すぐにアルの首から手を放し、アルがレイを支える手に力を入れる前に、レイは一人で立ち上がった後に出した第一声がそれだった。
アルは今起きた出来事に驚いて言葉を発する事が出来なかった。
「・・・・・・アル?わざわざここに入って来れるとすればイシュタルとレオモンド、ファラルとアル位だと思うし。
ちょっと待ってね」
目元を手で覆い、暫くして手を離して何度か瞬きをするレイを見ていた。
「予想通り。・・・・・・近かったし、波長が近いから繋がったのか。入って来れたのは多分ファラルの力」
ぶつぶつとアルを無視して呟き始めたレイにアルは「レイ?」と声を掛けたが、レイは全く反応を返さない。いまだに呟き続けるレイにアルは不審間を募らせた。普段ならば名前を呼んだ時には反応を返しているからだ。
「さっきは、無理矢理ごめんね。ファラルと間違えた」
漸くアルの顔を見て言った言葉はそれだった。アルは慌てて、「いや、気にしていない」と言った。しかし実際は物凄く気にしている。
「でも、多分ファーストキスではないよね。それなりに経験あるだろうし」
と続いたレイの言葉に、アルは苦い顔をした。先程、一瞬だけ重なったお互いの唇。レイはそのキスだけでアルとファラルを判断したのだ。
「女性がそんな言葉を言うべきではない。しかも、男に向かって・・・・・・。レイは、まだ13だろう?」
窘めるような言葉に、レイの表情が急に抜け落ちた。
「何歳であろうと、手を出す大人は居るわ。姉が死んでから・・・・・・」
ぼんやりとした呟きは真実味があった。しかし、言葉は途中で途切れる。
「私には、何時姉が出来たんだ?」
うんざりとしたようなレイの言葉に、アルは混乱した。先程からやはりレイの様子がおかしい。
「今更繕っても、意味ないから簡単な説明をします」
片目を抑えて座り込んだレイに“来い来い”と言うようにチョイチョイと手を振られてアルはレイに近付く。ポンポンと地面を叩かれてアルはレイのように地面に座り込んだ。
レイの手が片目から離れないのを不思議に思いながらも、当然のような顔をしているので指摘するのが憚られた。レイが話し始めるのをジッと待つ。
「私の中には、私以外の人間が沢山居てね。時々こんな風に意識の半分を乗っ取られるの。ファラルの前でそんな状態になると不機嫌になるから保ってる残りの意識半分で外界との接触をほぼ断ってたんだけど・・・・・・どうして、アルが入って来たんだろうね〜」
のんびりとした言葉に、アルはどんな反応を返せばいいのか分からなくなる。
「アルはどうしてファラルに目を付けられたの?普通は部屋で寝ているはずでしょう?」
レイの質問に、
「寝ていたら、誰かの叫び声が聞こえたんだ。それで、一応館の中を見回っていたらファラルと会ったんだ」
と答えたアルは、レイがアルの目ではなく口元を見ている事に気付いた。
レイに気付かれないように、呪文無しにレイの背後にある小さな石を浮かせると地面に音を立てて落とした。しかし、レイはその音に反応する事は無かった。
アルは迷わずレイの顔を引き寄せると耳に顔を近付けた。「耳、聞こえないのか?」耳元で言葉を囁いた後、レイと向き合うと、レイは悪戯が見つかった子供のように笑っていた。
「多分、気付いているんでしょうが私は今耳が聞こえていません。さっきは耳元でなんと言っていたんですか?」
「レイはもう答えを言った。『耳、聞こえないのか?』と聞いたんだ」
アルの答えを唇の動きを読んでレイは感心したような顔をする。
「よく気付きましたね」
「普段なら、目を見て話すのに一度も目を合わせなかったからだ」
「じゃあ、さっきまで目が見えていなかった事にも気付いているんですね。ついでに、耳もさっきまでは聞こえてました。目に光を戻す代わりに耳の機能を停止させたんです」
その言葉に、アルは瞠目した。そして信じられない、と言う口調で、
「そんな事、出来るのか?」
と聞いた。レイは微笑んだまま、「私には出来ますよ」と答えた。
「さて、そろそろ体を治す事に専念したいのでアルは元の世界に帰って下さい。ああ、ファラルには首突っ込むな、って言っておいて。それじゃあ、おやすみなさい」
そう言ってアルの肩に、目を押さえていた方のレイの手が触れる。片目は手を離した後も瞑られていた。アルの体を急に脱力感が襲い、視界がぼんやりとし始める。薄れ行く意識に正常な思考の回転はなかった。レイの顔を見ていると途切る寸前の意識とレイが片目を開くのとが一瞬だけ重なった。
漆黒の者である証のアルの黒の瞳が、レイの片目の黒の瞳を映し出す。
しかし、アルが何かを考える前に、アルは自らの意識を手放した。
レイの目の前からアルの体が消える。それを無感動に見ていたレイは暫くその場に座り込んでいた。
漸く目を閉じる、という動きをすると、レイの口からはレイのモノではない言葉が紡がれる。
それはレイの中にある人々の記憶。
優しい記憶も辛い記憶も、嬉しい記憶も悲しい記憶も、色々な感情が混じりあい混沌としているそれは、レイが気を緩めればレイの体をいとも容易く乗っ取るだろう。
そうして、狂気の宴が始まる。
「お母さん」
レイが言葉を紡ぐ。今のレイには、それが自身の記憶から出る言葉なのか、他者の記憶から出る言葉なのか区別する事は出来なかった。
久しぶりの投稿です。
今回はレイの秘密にまたもやググッと迫ってみました。
レイは自分を“特別”だと自負しています。その背景には何があるのか?
アルもレイの黒の瞳を見ましたが、それについてこの先どうなっていくのでしょう?
1つはっきりしているのはレイがもう〔トリグル〕に直接関わる気はない、と言う事だけです。