63:被験者と2つの薬
「その瓶、何?解毒薬はこれで完成なんじゃ」
マリの言葉に答える事無く、レイは瓶を包む布を解いて行く。解毒薬の隣に置かれた瓶は鮮やかな赤い色をしていた。
息を呑むような声を発した後、先生が呟くように、
「『ヴァルギリ』どうして・・・?」
貴女がそれを持っているの?先生の言いたい事はそうだろう。レイは無邪気に微笑んで、まだ良く状況を理解できていない5人に説明を行った。
「これから、解毒薬の効果の実証を行います。マリとカナタには言ったと思うけど、行うのは人体実験。その被験者はこの研究の事を誰よりも良く分かってる人物。つまり・・・私」
その言葉には全員が言葉を失った。
「サラには言ったよね?皆が役に立つときが来るって、今からがその時。客観的に私の事を見る為に必要なのは私以外の人間。体験談も書いた方が良いから、私がやるのが丁度いい。と、いうことで、紙と筆記用具は準備済みだからそれを使って」
「待って!危険すぎる!解毒薬が効くという保証は何処にもない」
マリの言葉は正しい。失敗すれば、最悪、レイは一生失明したままだ。そんな危険を冒せない。
だが、レイは微笑んだ。
「私は、自信を持って薬を作ってるの。失敗してると思えばその時点でやり直してる。だから、自分の体だろうと躊躇い無く差し出せる」
全員の前にはレイが配った紙と筆記がある。先生は口を挟む事が出来ないが本心ではやめて欲しいと思っているだろう。
課題は先生の助力を過分に受けてはならないとある。それはつまり、先生も課題に立ち入れない、と言う事だ。
全員がレイを止めようと説得にかかるがレイは微笑むばかりでのらりくらり、とかわして行く。誰の言葉にも聞く耳を持たなかった。
実験は区切りの良い時間という事で午前3時を待っている。それまで後5分ある。
「動物実験から始めた方が・・・」
カナタの言葉にレイは「ああ」という微妙な顔をする。
「私ね、嫌いなの。動物実験。人じゃないから大丈夫って考え方。動物と人間は違うのに、人間に無害でも動物には有害かもしれない、逆もまた然り。それに、失敗すればどうなるの?責任をとれるの?殺した方が幸せだって思うのは人間の勝手。元々そんな事しなければそんな事にはならない。だから、私は自分の体で試しても、他人や動物で試した事は少ないよ」
それでも他の人間や動物でも試している。それはレイが自分で開発した新薬で、効力が未知数なモノに限って、だ。だが、レイが言っているのは割合の話で、実際に動物実験を行った数は研究機関の3年分に相当するだろう。人体実験はそれ以上。
「まあ、取りあえず。私が飲むのは決定事項」
レイは瓶の蓋を取ると、口元へ持っていき、ゆっくりと味わうように飲み下した。
全員が青褪めそれでも取り乱す事無く、諦めるようにしてレイの変化を観察し始めた。
レイは『ヴァルギリ』を飲み下す前、少しその毒薬を味わっていた。
(味、ほのかに苦く酸味がある。匂い、ほぼなし。舌触り、水と同じ)
大雑把な分析を終えると液を飲み下し、これからの反応を待つ。
不意に、目が熱くなる感覚があった。
反射的に目を押さえ、顔を顰めて目を細くする。それでも端から見ればそこまで大袈裟なリアクションでは無いだろう。
視界が乱れ、真っ白になったり真っ暗になったりを繰り返すうちに、暗い時間が増えて来る。
生理的に込み上げて来る物があり、レイは我慢も抵抗もせずにその液を目から流す。
流れた液体は透明ではなかった。
「ッ・・・!」
息を呑む声が何度も聞こえたが、生憎レイには自分の状態が分からない。
瞑られたレイの目から流れ出すのは“赤い”涙だった。
衝撃の光景だった。レイが少し顔を顰めたと思ったら、先ず瞑られた目から透明な涙が流れたが、その涙は一気に血の色に変わった。
「ッ・・・!」
マリアは声を出さないように息を呑んだ。
「『ヴァルギリ』の症状で、目から血の涙が流れるというのがある。害はないから驚かなくて良いよ」
レイが周りの空気から推察して説明を行うと、少しは周りの動揺が治まった。
しばらくしてレイの手が目元から離れた。不快感が治まったらしい。
目元の汚れを袖口で拭ってまだ少しは跡が残ってはいても目立たなくはなった。
レイが、ゆっくりと目を開いた。
周りの反応で、レイは自分が今どんな状態なのか察した。
「濡れタオル作って。顔拭きたい。皆の中で絵が上手いの誰?」
「サラ、だよね」
サラを除く全員の言葉に、サラがレイに近づく。
「私の目は、今全く見えない。でも、どんな状態かは分かる。殆どが白く濁ってて、瞳孔が透明。所々に私の場合では薄緑色の斑点があるでしょう?両方の目、完璧に模写して」
マリアの声を頼りに、渡された濡れタオルを手に取ると、跡がついていそうな所を拭った。
「『ヴァルギリ』で失明が起こるのは、目の周りの血液が瞳に詰まって見えなくなるから。あと、白くなるのは欠失と言われる染色体突然変異が一瞬にして起こるから」
定まらない瞳は不自然に、小刻みに揺れていて、何処を向いているのかは分からない。それでも不安など微塵も感じさせない口調で軽い補足と説明を行っている。
「サラ、描けた?」というレイの言葉に、「うん」とサラが言葉を返した。
レイの目が見えないのでしっかり声を出さなければならない。
「全員書くべき事は書いた?」その言葉にも全員が相槌を返して行く。
目を閉じたり、擦ったり、窓の方へ視線を向けたり、片目を隠したりしながらレイは何かを確認するかのように端から見れば不可解な行動を暫く続け、
「作った薬、渡して。ビーカーの隣に置いてあるスプーン一杯分」
気配を探り、記憶を手繰れば1人でも可能な事だが、不審に思われない為にもあえて他人に頼んだ。
「はい」
マリアの声と気配で手を差し出すと、少し不安そうにスプーンの握る方を渡してきた。レイが握ったのを確認すると恐る恐るという風に手を離した。
レイはスプーンの中身を全く揺らさず、零す事無く、綺麗に口元に運んだ。
口に入れ、『ヴァルギリ』を飲んだときと同じように味わうように暫くの間、口の中で含んだいた。そしてゆっくりと飲み下すと、一言「まだ、ましか・・・」と呟くように言った。
また目を閉じて顔をしかめると先程と同じように生理的な物が頬を伝った。自然と流れて来るのだ。
解毒薬を飲んだ後にまず赤い液が流れた。その次に透明な涙らしき物が流れた。
目を閉じていても光が分かるようになった。瞼を閉じていても瞼を透けて光が届く。
ゆっくりと目を開けると、急に入って来た光に殊更顔をしかめ反射的に目を細めた。薬の作用らしく、光が入り乱れる。
頭痛がと吐き気をジッと我慢する。
その全てが治まるとレイは何度か瞬きをして目をしっかりと見開いた。目は既に白く濁っていなかった。元の薄緑色の透き通るような瞳はしっかりと全員の顔を捉えた。
「解毒薬の効果あり。副作用として頭痛・吐き気・暫くの乱視がある。『ヴァルギリ』とは逆に赤い涙から透明な涙に戻る」
確認するかのように呟くと、レイは窓の外を見つめた。
(視力にも問題は無い、かな)
遥か遠くに飛ぶ鳥の羽を数えながら何となくそう思うと皆の方に向き直った。
「実験成功。次からは課題のレポートの作成になる、のかな。今日、今から書くの?」
何事も無かったかのように言うレイに全員が一瞬呆気にとられる。
「凄い、ね。レイは」
サラの少し羨ましさを含んだ呟きにレイは不思議そうに頭を軽くかしげて「何が?」と聞いた。
その反応に、全員が逆に驚いていた。
「いやいや、失明の危険は誰だって怖いだろう?」
セイジの言葉にレイは合点がいったような顔になり、
「何度かあったから」
かなりの説明不足と自己完結のレイの答えに、全員が一瞬何の事か分からなかった。その様子を見て「気にしないで」と言った後、続いた言葉に全員の考えていた事は終わった。
「レポートの役割、決めて良い?」
冷静なレイの言葉に全員が頷いた。
「私が解毒薬の作り方。カナタが《盲目の魔女ヴァン・モーゼ》について。サラは『ヴァルギリ』の症状について。セイジが解毒薬の効果。マリが旅の経過と解毒薬政策の経過なんかの大まかな流れ。分からない事があれば私に聞いて」
レイが役割分担を決めた。普通この分担を決めるのはグループのリーダーであるマリなのだが、他ならぬレイ自身がリーダーになる事を嫌がって、マリに押し付けたような物だった。そして、一番決定権を持っているのは今回の課題の発案者であるレイだった。
全員が文句無くその提案を呑んで直ぐに作業に取りかかった。
レイが全員を代表して片付けを行い、先生に感謝の言葉を述べた。
先生はいまだ先程の衝撃から抜けきれずにいる。本当に成功するとは思っていなかったのだろう。レイの言葉を聞いていても上の空だった。
「貴女は、何者なのですか?」
レイが部屋を出ようとする頃になって、先生がそんな質問をして来た。
ゆっくりと振り返ったレイは、妖艶に微笑んで、
「私はただの元旅人ですよ」
と言ったが、先生は首を振った。レイは小さく呆れたように溜息を吐くと、
「知って、どうするんですか?・・・失礼します」
何も言えないまま黙っている先生に見切りをつけて、レイは道具をつめた袋を持って部屋を退出した。
レイはファラルの前以外では見せない顔で廊下を歩いていた。周りに人影はない。
(気がつきは、しない)
そう思った瞬間、レイの足は止まった。窓の外を見つめる。だが、実際には何も見ていなかった。
無性に、悲しくなった。込み上げて来るモノは虚しさでもあった。自分が感じている感情なのか、彼女のモノなのかは分からなかったが・・・。
突き付けられた気がした。2つの事を先生の言葉に。
声を出さず、一言呟いた。
「 ______ 」
唇を殆ど動かす事なく、声を出す事無く呟くレイの姿を、見ている者は誰もいなかった。
寒い時期になりましたが、私が書いている小説の中は今だに初夏です。進みが遅い、と最近になって漸く思い始めてきました。