145:吐き出す想い
2人分の息づかいが静寂が満ちる部屋の中で唯一の音だった。
どれほどの時間がたっただろうか。その静けさの中に衣擦れが加わった。
「……カナタ」
身じろぎののちに目を覚ましたサラが、一番最初に発した言葉に、カナタは安心するとともに当然だと囁く自分を自覚する。
どんな時だろうとカナタが側にいれば、サラは何も心配しなくていいようにカナタは生きてきたつもりだった。
結局、望んできたような関係を築けなかったことは不幸だったのか、幸運だったのか。
けれどカナタの行動の結果として、サラの中で一番多くの割合を占めている人間がカナタだという確信もある。
そうあるように、カナタはサラの近くにいたのだから。
依存してほしかった。
カナタにとって、サラが唯一の存在であるように。
さらけ出せないカナタの歪みを、サラも自分と同じように抱えてほしいと手を伸ばし続けた。
これは、カナタの中の綺麗ではない部分。
「カナタ、私、大丈夫だよ?そんな顔をしないで」
数日寝込んでいたせいか、使っていなかった喉は弱々しい声しか発せないようだった。けれど、幼い頃のように舌足らずでも、焦るあまりつっかえたりもしない。
変わるのだ。
人は、変わっていけるのだ。
変わらないものを抱きながら。
「話をしよう。ゆっくりでいいんだ。つっかえながらでも、上手く言葉にできなくても構わない。僕はサラの言葉を聞くから。サラにも、僕の言葉を聞いてほしい。今まで、ずっと言えないままだった想いを、言葉にしていくことから始めよう」
熱も残る起きがけの頭では、すぐに理解できないだろう。
それでいい。すぐに理解する必要なんてない。
いままで長い長い間、やってこなかったことを始めるのだから。
沢山の時間をかけて分かりあえるならば、それでいい。
「サラ。俺はね、サラのことを誰よりも好きだ。きっと、サラ以上にサラを好きだって自信がある。それだけは、誤解してほしくない。でもね、俺は自分のことを『大丈夫』と誤魔化して生きようとするサラのことは、嫌いだった」
サラの顔が強張る。
その顔を見て、カナタの心は不安に荒れ狂う。
けれど、止めるわけにはいかない。
不安も焦燥も、苦しみもねじ伏せて、言葉を続ける。
変わることには、痛みを伴うことがある。
今まではその痛みで、失いたくないものまで変わってしまうことを恐れるばかりだった。
もう、後悔はしたはずだから。
「『大丈夫』なわけがない。敵だらけの場所で、家族を亡くして『大丈夫』だって生きられる人間が居てたまるか。信じてた相手に、希望も何もかも奪われて『大丈夫』だって言って受け入れて、恨みすら抱かずに生きられるって、サラは本気で思っていたの?」
誰よりも愛しい女の子に、弱さを曝け出すきっかけを作ろう。
例え嫌われても、一生をかけてその手を取る覚悟は、ずっと昔に決めている。
目覚めてすぐに視界に入ったのは、カナタの顔だった。
長い長い、夢を見ていたと思う。
愛しさも苦しさも。
どこか遠くに、置いてきたはずの過去だった。
覚束ない思考で、言い慣れたカナタの名を口にすれば小さく笑いかけてくる。
その顔が、すぐに痛みに耐えるような苦しい表情に変わり、どうしたのか考えて、自分が今どうなっているのか思いだした。
流行病で寝込んでいたのだ。
心配をかけてしまった。カナタは優しいから。
大丈夫だと、言えばカナタはもっと苦しそうな顔をして、「話をしよう」と言った。
寝起きのせいか、熱のせいか、それとも唐突な言葉だったせいか、意味がうまくのみこめない。
ただ、はっきりと理解できたのは“サラを嫌いだ”と言ったことだけ。
(そうだよね。覚悟していた)
頭の中で、そう思う。
なのに、どうしてサラの心は浅ましく痛むのか。
カナタの『大丈夫だと思ったの?』という、責めるような、詰るような言葉に答えたサラの声は弱々しいと自分でも思った。
「思った、よ」
「嘘だ。だったら、どうしてサラは俺の両親の言い訳を聞かないの?」
(もう関わるわけにはいかないから)
答えようとして、うまく言葉が出なかった。
帝国に来てすぐの頃から、定期的に届くようになったカナタの両親からの手紙をサラは1通も開封していない。カナタを通じて渡されて、謝罪とともにカナタに返すだけだ。
開封することのない手紙が一番最初に届いてから、サラは一度だけ手紙を書いた。
学園を卒業したら、カナタとはもう会わないこと。
これは、温情と自立できるまでの猶予であると弁えていること。
猶予と援助を貰っていることへの感謝。
送られてくる手紙を読まないと決めていること。
手紙を送るのが、この一度きりになることへの謝罪。
カナタの両親に恨みや、怒りなど感じていない。
とても良くしてもらったのだから。
優しくされなくなったから。認めてくれなかったから。
たったそれだけで、恩義ある相手を憎むのは“醜い”ことだ。
カナタの家族が抱いている心情は察することができる。
優しい人たちなのだ。家族のために切り捨てた相手にも慈悲を与えてくれるほど。
だからこそ、その手を拒む必要があると思った。
「甘えるわけにはいかないわ」
ようやく出てきた言葉にほっとした。
そう、慈悲に縋ってはいけないのだ。
なのに、カナタはすげなく返す。
「言い訳を聞くのが甘えになるの?サラは身勝手な言い訳を聞きたくないだけだろう?言い訳を聞かされたら、サラは許さなければいけないから」
「許すも何も……許さなければいけないことを、された覚えはないもの」
「だから『大丈夫』って?」
「カナタは何が言いたいの?」
まるで、サラが悪いかのように。
本当はサラが彼らを怒って、恨んでいるみたいに。
サラはただ、甘えたくないだけなのに。
「それが全部、虚勢だってことを認めてほしい」
「最初に、虚勢だって決めつけてるよね?」
「だったら、何が『大丈夫』だったの?どこが『大丈夫』なの?」
何かを言いかけて、すぐに言葉を思いつけなかった。
大丈夫だと思った理由。
不安もあったけど、頑張らないといけなかった。
だから、言い聞かせた。そうすれば、大丈夫になると思ったから。
根拠なんてないけど『大丈夫』じゃないと生きてなんていけなかった。
カナタはサラの答えを待っている。
だから、ようやく出した答えを返す。
「……おかあさんが死んでしまうことは覚悟してた。1人で生きる場所が変わっただけだよ。心構えは変わらない」
「心構えができていたというなら、どうして旅人になるなんて思ったの?『街から出ていけ』とは言われたけど、『国から出ていけ』なんて誰も言わなかったはずだ」
「それは、生きていけるだろうって、思って」
「心構えをしていたという割に、杜撰な計画だよね。自分の人生に投げやりになっていたとしか思えない」
「生きていく方法は考えてた」
「どんな?」
「刺繍した物を売ったり」
「商人の領域を侵害する存在を、商人は許さない。旅人は商人ではない。自分で売ろうとすれば、場所によっては旅人だからと問答無用で切り殺されるし、技術に目をつけられれば奴隷も同然の扱いを受けてもおかしくない。魔法を使えるからなんていわないよね?魔法が使えるのはサラだけではない」
塗り固めていたものが、1つずつ剥がされていくような気がした。
考えていたはずのことを、考えないようにしていただけだ、と否定される。
糾弾される現実がサラを追い詰めていく。
誰よりも、サラの近くにいてくれたカナタの手によって。
「でも、子供が旅人になることもあるって。旅人は、そんなに怖い人たちではないって」
「それ誰が言ったの?それだけで決めつけるのは浅はかだね。確かに旅人がみんな非道な人間というのは、ただの迷信だ。でも、危険がないなんて誰が言った?旅人になることによって、旅人以外の存在から向けられる危険がどれだけあるか、サラはきちんと考えていた?」
二の句が継げない。
巡礼神官も、旅人がそう怖いものではないと言ったけど、旅人を守るために恐ろしい噂を利用するとも言っていた。それはつまり、旅人がまず威嚇しなければいけない存在がいることを示している。
でも、だったら。
「だったら、どうしたらよかったの?」
途方にくれる、迷子のような声だった。
サラのすべてを否定された気がした。
一番近くにいてくれた人なのに。
誰も認めてくれない。
一番近くにいてくれた人にすら。
今まで、自責するたびに『認めなかったのは“自分も”である』と。
認められないことを否定されることを、当然だと受け入れてきたはずなのに。
想像と現実の間に齟齬はないのに、どうしてサラは傷ついているのか。
頑張ったのに。
苦しくても、怖くても、不安でも、『大丈夫』って頑張ったのに。
今、サラの理性が、己を蔑んで止めるているのに、
「じゃあ、どうすればよかったって言うの!?何が正解なの?何を望んでるの?みんな、出ていけって言ったのに!!」
「俺は『待ってて』と言った」
涙混じりなサラの叫びに、カナタは静かに言った。
「カナタの家族は、その答えを望まなかったじゃない」
視界が滲む。
カナタの顔がぼやけて、卑屈な言葉を重ねていることに気づいたとき、ようやくサラは理性で口元を手が押さえようと動いた。
その手をカナタの手が止めた。
「それがどうしたの?俺は、サラが俺を待っててくれることを望んでた」
「カナタは望んでいても、みんな困ったよ」
「サラは、待っていてくれる気はなかったの?」
「……待ちたかった」
待ってる。
そう返せなかったけど、帰ってくる前に、これからの生活を軌道に乗せられるくらいにしようと思っていた。
カナタの隣に自信を持って立つために。
おかあさんとは違うやり方で生きていけることを証明しないと、隣に立つことは許されないから。
サラの答えに、カナタは破顔した。
でも、カナタのその顔に、無性に腹が立った。
カナタが笑いかけて、サラがこんなにも苦しくて腹立たしい思いを抱くのは初めてだった。
「大丈夫だと思わないと何もできなかった。思い込まなければ生きていけないなんて経験、カナタにはないくせに」
ドロドロと醜い想いが、溢れて溢れて止まらない。
「周りの意見を無視できるのなんて、カナタの周りには人がたくさんいるからだよ。沢山の人に大切にされてるからだよ。カナタが皆に望まれる存在だからだよ!」
昂ぶる気持ちが押さえられない。
こんな言葉、ただの一方的で理不尽な妬みでしかない。
カナタがカナタに生まれたことに、何の責任もありはしないし、サラだってカナタを望んだ人間の一人だ。
頭の中の冷静な部分がそう告げるのに、サラの口は勝手な言葉を投げつける。
「そんな人間に、生まれたことが間違いだったなんて思う人間の気持ちなんて分かるわけないっ!『生むんじゃなかった』って、たった一人に否定されたら生きていけない人間の気持ちなんて、分かるわけない」
沢山の想いがめちゃくちゃに混ざって、言葉として吐きだされていく。
愛しているのに、愛されていたのに。
小さなころから、おかあさんに『いらない』と言われないように息をひそめて生きていた。
「陰口や偏見に晒された。それは私のせいじゃない。だけど、おかあさんを責めることなんてできない。黙って耐えるしかないよ。言い返したって、嫌がらせが悪化するだけだって分かってた」
おかあさんに、心配をかけないように。迷惑をかけないように。
本当に、大切に思ってた。大好きで、いつかサラがおかあさんを守るのだと思っていた。
なのに、おかあさんに嫌われることを想像するのを止められない。
それは、きっと。
「……おかあさんを、嫌悪していたことへの罰なの。私が悪い。醜い私が、全部悪い」
頭の中がぐるぐるする。
理性は焼き切れて、醜い言葉を垂れ流す。
「待っててなんて言われる価値がない人間。追い出されて当然の人間。ひとりぼっちになって仕方ない人間。おかあさんを嫌悪していた人間に、好きだなんて言葉を貰える価値はない」
一生、誰にも口にしないと決めていた言葉が涙とともに流れ出る。
「おかあさんが体を売って稼いでくれたお金で生きていたくせに、おかあさんの仕事を嫌悪してた。そんな仕事をしてるおかあさんのことも、嫌いだった」
おかあさんを愛していた。それは、サラが誇りを持って言える唯一。
でも、おかあさんを嫌っていた。それは、サラが言えない秘密。
「ぜんぶ、おかあさんのせい。街の人たちに嫌われるのも、無視されるのも、罵られるのも、ぜんぶ、ぜんぶ、おかあさんが悪い。我慢しなきゃいけないのも、怖いことされそうになるのも、カナタと一緒に居るなって言われるのも。おかあさんが居るから。…ずっと心のどこかでそう思ってた」
だから、
「おかあさんが死んじゃった時は、ホッとしたの。これ以上、あんな思いしなくていいって。おかあさんを嫌わなくていいし、私はおかあさんみたいには生きないから、いつか私を認めてもらえるだろうって。本当に、馬鹿だよね。そんなことを思ってた“醜い”私が認められるはずもないのに」
好きだった。
愛していた。
誰よりも、おかあさんのことを守りたいと思っていた。
それだって真実だ。
言えなかった。
言えるはずがない。
嫌っていたくせに、嫌われるのを恐れた卑怯な自分。
それは事実だ。
「許されるわけない」
「許していたよ」
間髪入れずに返ってきた答えに、どうしてそんなことを言えるのかとカナタを睨む。
「サラのお母さん、ナリアさんはサラの気持ちを知っていた。知っていて、当然のことだと許していた。サラがナリアさんを嫌っている部分があることも含めて、ナリアさんはサラを愛していた。もちろん、俺もそんなサラを含めてサラを好きだよ。その不器用さを含めて愛おしいと思う。きっとナリアさんも、そう思っていた。ナリアさんから直接聞いたことだ」
「うそ」
「嘘じゃない。俺はサラに、こんな大切なことで嘘をついたり、気休めを言ったりはしない」
その言葉を、少し考えてみる。
カナタは、サラに気休めのための嘘をつく人だろうか。
いいや、サラの人生の半分以上を占めている人は、
「……だったら、どうして言わなかったの?」
ただ、黙っている人だ。
沈黙のまま、サラの知らないところでサラを助けてくれる人だ。
「俺が身勝手に恐れたからだ。ナリアさんの言葉を伝えることで、サラが壊れてしまうと思った。一生、ナリアさんに囚われたまま、二度と俺を見てくれなくなると思った」
どうして、カナタはそんなことを恐れるのだろう。
まるで、サラがカナタを簡単に切り捨てられると思っているみたいに。
「これから伝える言葉をナリアさんから聞いたのはナリアさんが倒れてから俺が街に戻った日だ。サラが眠っている間に託された。その日から、ずっとサラに伝えられないまま今まで来てしまった。本当は、もっと早く伝えるべきだったのに」
最期の時まで、サラはおかあさんに愛されていた。
だから、残された言葉はサラのための言葉だ。
後悔の滲むカナタの言葉に、サラは自分でも意外に思うほどほど静かな気持ちで、おかあさんがカナタに託した言葉を聞く覚悟を持った。
「あの日…俺が、王都から街に帰ってきた日。両親から事前に受け取っていた手紙で状況を知っていたこともあって、俺はすぐにサラの家に向かった」
その言葉から始まった、サラの知らないおかあさんとカナタのやり取りの様子に、サラはただ耳を傾けた。