144:託された言葉
初めて出会ってから一年と経たないうちに、カナタは“運命”というものの存在を知った。
幼い子供の純粋な慕情は、今もこの胸のうちに消えることなく燃え続けている。
きっと、カナタが死ぬ時まで永遠に変わることなく。
(見たことない子だ)
教会で授業を受ける最初の日、授業を受ける部屋の隅っこに縮こまるようにして座る女の子を見てそう思った。
両親が手広く商売をしているせいか、商人同士の付き合いの合間に将来を見越して子供同士のつなぎも作っておく習慣があったせいか、普通の子供よりも交友関係は広い方だった。
教会にいる彼女以外の同級生の顔に見覚えがある程に。
どこかで誰かが少し大きな声を出すたびに目を丸くして、きょろきょろと視線をさまよわせる。
人に慣れていない小動物みたいで面白かった。
彼女に話しかける子は何人かいたけど、会話になってない様子で、諦めたように話しかけた子たちは去っていく。
不器用な子だな、と自分だって人付き合いが好きでもないくせに思っていた。
自己紹介の時には名前を言う声が小さすぎて誰も聞き取れなかったようで、先生に言い直すように指示されていたが、完全にパニックになってしまった様子を見て先生が次の子を当てたのには他人事ながらホッとした。
あんなに内気だと慣れるまで大変そうだな、と自分が同年代の中では大人びている自覚はあったから何かあれば助けようとも思った。
知り合う機会は意外とすぐにやってきた。
一定以上の魔力を持つ子供だけが受ける魔術講習に彼女の姿があった。
カナタを別格とすれば、他の子供の中では1,2を争うほど保有量で、だからこそますます彼女のことを知らなかったことに疑問を抱いた。
魔術講習を受けるより前にカナタは魔術の手ほどきを日常的に受けてきたし、同年代の子と一緒に手ほどきを受けるたほうが張り合いが出るだろう、と魔力の多い子供を持つ親には子供をカナタの家に連れてきてほしいと頼んでいたのだ。
この魔術講習にいる彼女以外の子供の名前も家族構成や得意な魔法属性も把握している。
講習の開始にはまだ時間がある。相変わらず隅っこの方で周囲をくるくると観察している彼女に、カナタは自分から近づいた。
「こんにちは。はじめまして。僕はカナタ・シルロードと言います。カナタと呼んで。君の名前は?」
人に慣れてないなら、定型文でできるだけ彼女が予想できない会話をしないことから始めようと思って、面白味を追求することなく名前を聞く。
話しかけられたことに体をビクつかせたが、珍しい色の瞳がカナタを見つめる。
「サ…サラサ」
怯えたような顔をして、小さく囁いた名前は自己紹介の時と違って、ちゃんと聞き取れた。
そこで言葉が途絶えたものの、目が泳ぎ、口を小さくパクパクしている様子が答え終わったのとは違う気がして、安心させるためにちょっと笑って待っていると、
「サラサ・ミカサエル、です。はじめまして。よろしく、おねがい、します。カナタ、くん?」
「こちらこそ。よろしくね、サラサ」
少しだけ舌足らずに、つっかえながらも言いたいことを言い終えてホッとした様子を見て、この子は自分が守らなければ、と思った。
「授業のはじめだけど、たぶん2人1組みを作ることになるから、僕とペアになろう」
「…うん」
戸惑うような間があったものの、それは人付き合いに慣れてないせいで返事のタイミングがよく分からないのだろうと判断した。
カナタが言った内容すら、よく分かっていないであろうことにも気づいたが、分かっていないからこそ拒否されることもないと少々強引にリードする。
思った通り、魔術講習の先生は子供たちにペアを作らせた。全員が名前くらいは知っている顔見知りなので、自己紹介もなく早速講習が始まる。
サラは魔術を使ったことが無いらしく、初歩の術であってもうまく行使できない様子だった。
カナタと同じく手ほどきを受けていた子供たちにとっては、カトラリーを使って普通に食事するようなレベルだったので、サラは1人遅れてしまうことになる。
これからしばらくは、サラが皆のレベルに追いつくまでカナタがいつも相手を務めることを先生に申し出て了承される。純粋な才能としては先生よりもカナタの方が遥かに上であるし、渋られることはなかった。
カナタだけでなくサラをも特別扱いすることにもなるが、午前の様子を午前の担当していた先生から聞いていたのか、慣れていない様子ではあるもののカナタとはきちんと意思疎通がはかれているのを見て、配慮したこともあるだろう。
「あせらないで。ちゃんと練習すればできるようになるから。心配しなくていいからね」
カナタがサラを守るためには、まず頼られるようにならないと。
当たり前のようにそう思った。
無自覚に囲い込んでいたな、とあれから10年以上経って改めて思う。
庇護欲が恋情に変わったのが何時だったのかは分からない。もしかしたら、最初から抱いていた想いに気づかなかっただけかもしれない。
安らかな寝息を立てるサラの傍らで、レイの言葉を思い出しながら記憶を辿る。
カナタ達が転移棟から運んできた荷物の正体が流行病の特効薬材料だったらしく、荷運びの役目は途中から大人たちにとって代わられた。
事態は急速に好転していて、特効薬が見つかり、流行病の要因もほぼ判明したことで、感染を懸念して専門の人材を分散させていたのが終わり、薬学に詳しくない魔術科の学生たちが手伝えることは少なくなった。
与えられていた仕事はなくなり、カナタはそれからずっとサラの傍にいる。
「心の闇か」
つぶやいた言葉が、重くのしかかる。
サラの心に、影を落とす過去をカナタは知っていた。
ずっと、守りたいと思いながら自分は何を守ってきたのかと自嘲する。
支えになりたかった。
頼りにされたかった。
そうして、サラと他人とを繋ぐふりをして、カナタが居なければ外の世界と関われないようにしていた。
それを“間違えた”と気づいたときには、サラを失う寸前だった。
カナタの意思ではなかったとしてもカナタの側からサラを切り捨てられてしまえば、サラは誰にも助けを求められない。
まだ故郷にいた頃、特に急ぎでもない仕事でシルロード商会の会長をしている伯父に王都へ召喚されたとき、サラはたった一人の家族だった母親を亡くしたばかりだった。
母親の死に関連してサラの身にも不名誉な噂が立っているのは知っていて、一人にするべきではないと思いながら、後見人たる伯父の命を無視することもできず、ある思惑を抱えて王都へ発った。
サラのことを気にかけて欲しい、と家族に頼んで。
サラのそばから離れがたくはあったが、早く帰るためにとっとと用件を終わらせてもらいたい、と思いながら王都に到着すれば、呼び出した当人である伯父は不在で、もともと他人を振り回す人だと分かっていても心底腹が立った。
それでも、ただ伯父を待っているような真似はせず、かねてより打診されていた帝国への留学について魔術長から推薦を貰い、同時にサラの留学申請も行った。
戻らない伯父を待ちながら、どうやってサラを言いくるめようか考えていたとき、両親から『伯父の指示でサラを街から追い出した』という手紙が届いた。
文面には後悔や自責の念が綴られ、国民から旅人なることを示す戸籍の抹消手続きを行い「この国をでていきます」と言って国境を目指しているサラを心配し、どうか追いかけて止めてほしいと締めくくられていた。
できるだけ追いかける時間を稼ぐために、一番時間がかかる南の国境へ向かう商隊に同乗させたこと、国境に行くまでに通るルートから、日時まで書かれた内容は猶予が残り10日であることを示していた。
すぐに追いかけようとしたカナタを止めたのは、伯父に忠実な護衛の魔法使いだった。
その人はかなりの実力を持ち、対人の実戦経験には乏しいカナタは魔法で拘束されて伯父の帰りを待たざるを得なかった。
手紙が届いた翌日に、じりじりとした時間に今にも暴れ出してサラを追いかけたいと思っているカナタの目の前に、伯父は悠々と現れて口も体も動かせない様子をいつもと同じ顔で笑っていた。
「君も、利益にもならない面倒な子を好きになるね。カナタくん」
伯父の言葉から始まった遣り取りは、手紙と状況とでカナタが伯父を憎悪するに事足りた。
伯父がサラに行った非道をサラが受け入れていたとしても、カナタは一生許さない。
そして、結局は伯父と取引することでしかサラを引き止められない自分自身の無力さが悔しかった。
後見としてカナタの留学の許可、サラの戸籍の回復、ついでにとサラが帝国で生活するうえでの保証や費用を商会が負担する代わりに、カナタは商会の指示に従順かつ利益をもたらす存在となる取引を持ちかけ、伯父はそれを了承した。
おそらく一生、商会に縛られることになったが後悔はしない。
それが、サラを守れなかった代償なら。
これが、サラをこれからも守っていく対価なら。
伯父の駒になると決めた以上、サラに自分の想いを告げる自由も失った。
告げられない思いを抱いたまま、関係が変わることを恐れていた。
『もう、守り方を間違えない』
そう決意しながら、サラを失うことが怖くて一歩踏み出せないままだった。
すでに大切な存在がいる人間しか近づけないように。
サラに影を落とす記憶に、強引に触れることができないように。
そしてまた、失いかけたのだ。
誰よりもサラを守りたいと思うのに。
誰よりもサラを愛しているのに。
これから先も、サラの一番近くに立つ存在でありたいと願うのに。
サラの心は今も過去の中で生きている。
そして、何もしなければずっとそのままだ。
愛している。だから、愛してほしい。
とても単純な想いを、このままでは伝えることすらできない。
あの時、黙って別離を選んだサラに追いついて、カナタに伸ばされないサラの手を強引に取って、帝国まで引いてきた。
骨が浮き皮だけになった細い手を引きながら、胸に去来した沢山の言葉を口にしないことを選んだ。
選んで、関係の変化を恐れるまま、ずっと言わずに来た。
(これが運命なら、サラの一番近くで共に生きたい)
カナタも、そしてサラも、お互いに本音をそのまま曝け出せる性格ではない。
けれど、それでは何も変わらない。
愛していると伝えることもできないし、過去に囚われたままのサラが、いつまでもカナタの隣にいるとは思えない。
(でも、このままではいつか離れていってしまう)
帝国は、あの故郷と違ってサラを拒絶したりしない。
いつかサラの手はカナタの手の中からスルリと抜け出して行くだろう。
取引に縛られたカナタは、離れていくサラを追うことは許されない。
サラと共に生きるためには、サラがカナタを手に入れなければならない。
カナタの都合を押し付けてなお、共に居たいと願われるほどの執着を抱かせなければならない。
『身勝手で醜い。けれど、愛おしくて美しい。人とはそういうものだって、あの子に伝えられなかった』
数度しか顔を合わせたことはないその人は、静かにそう口にしていた。
後悔が滲む表情で、雪のように白い髪を持つ女性が、紅玉のように赤い瞳をカナタに向ける。
色は全く違うのに、そのまなざしはハッとするほど酷似していることに、そのときにようやく気付いた。
『ずっと、籠の中に閉じ込めるばかり。それが、守ることだと私は思っていた。でも、心配する心に隠して、本当に守っていたのはあの子ではなく私自身だった。愛しているから、嫌われたくない。乗り越えられると思いながら、自信を持てない』
サラを手放さない人だと恨んだこともあった。
けれど、彼女と同じ状況に陥っている今ならわかる。
『あの子を、良い子で居させてしまった。そのことに、今になって気づいても、これから死に逝く私の言葉は、もうあの子には届かない』
だから、と死に行く人はカナタに託した。
『私の代わりに、サラに伝えて。サラを愛しているというのなら』
ティナ―リア・ミカサエル。サラの母親にして唯一の家族。
身勝手な人だ。けれど、カナタとは違う愛情でもって、サラを一番愛した人だ。
『必ず伝えます。手遅れになる前に。ナリアさん』
カナタはあのとき、そう答えたはずだった。
けれど今まで、ずっと伝えられなかった。
まだ早いかもしれない、告げることで、サラの中の何かか二度とカナタに向けられなくなるかもしれない。
そう思って、伝えられなかった。
結局、カナタもナリアさんのようにサラから見放されるのを恐れていたのだ。
そして、まだ手遅れではないという自信もない。
それでも、サラが目覚めたら、サラの母から託されていた言葉を伝えよう。
カナタがずっと言わないでいた言葉も、すべて口に出そう。
そして、綺麗でいなくていいのだと。
サラが醜いと思う部分を含めて、サラは愛されているのだと伝えよう。
どれだけの時間がかかっても。
そこを乗り越えられなければ、サラはいつまでも過去に囚われ続けるだろう。