143:ひとりぼっちの巡礼者
ガタゴト揺れる荷台の板の上に敷物を敷いて、その上に座って膝を抱えながらサラは物思いにふける。
他にも座っている人はいるが、会話はない。
思いだしてみれば、あの人は老年にさしかかっているような皺があったことに気づいた。
言動のせいか、どこか浮世離れした雰囲気のせいか年齢を意識することがなかったのだろうな、と分析する。
『旅をしている人間にはたくさん出会ったけど、世間で言われてるような乱暴者なんて、ほんのひと握りだよ。むしろ、そんな印象を抱かせた方が自分たちの後に続くしかない人間を守るからって、わざと町中では怖い人を演じる。死期を悟った者の中には、噂に真実味を添えるために本当に町の人に危害を加えて兵士に殺されるような真似をする奴もいるから困りものだけど、そうしなければ、ただ迫害されるばかりだと彼らは思ってる』
幼い頃、サラが通っていた教会を訪れた名前も知らない巡礼神官の言葉には、沢山の意味があったのだと気づく。多分、あのどこか浮世離れした神官さまは、サラの未来にどこか不安を抱いていたのだと思う。
当時のサラは、おかあさんに買ってもらったばかりの本に恐ろしい旅人の話があったから、清廉で嘘をつくはずないと思っていた巡礼神官の思いがけない言葉に驚いたのをよく覚えてる。
あの時、カナタは王都に行っていて、午後の魔術講習はお休みで、サラはおかあさんが起きるまでの時間を他に人のいない教会の礼拝堂の中、1人きりで潰していた。
皆の遊びに誘われないことを当たり前だと受け止めて。
『君は、ひとりぼっちかい?』
『ちがうよ。おかあさんと、カナタくんがいる。カナタくんは、いま、おうとに、いってて、いないけど』
『そっか。あーあ、それにしても、天才少年カナタ君は不在かぁ』
残念そうに言ったけど、その顔は困り顔と笑い顔が一緒になっていて、そんな顔をする人を見たことなかったから興味を持った。
『カナタくんに、あいたいの?』
『どっちかって言うと、聞きたいことがあったんだ』
『たぶん、もうすぐ、かえってくる』
『だけど、おじさんもすぐに巡礼の旅を再開しないといけないんだ』
『わたしが、きいておこうか?』
『ありがとう。けど、必要ないよ。もう、この街に来ることはできないから』
ワシャワシャとおかあさんとは違う固くて荒れた大きな手がサラの頭をかき撫でた。おかあさんと違って豪快なのに妙に手馴れていた。
『君くらいの歳から旅人をしている人にも何人か会ったな。女の人も一人いた。大抵、最初は大人の旅人が保護してくれたらしいけど。そういう保護が必要な子には、旅人の証が反応するんだって。反応したら、近くにいる旅人は急いで保護しに行くんだ。負担にしかならないのに、どうしてだと思う?』
『……やさしい、から』
『それもあるね。絶望と優しさを知る、強くて、弱い人たちだよ』
弱い、といいながら見下すような言葉ではなかった。むしろ、尊い存在を言い表すように巡礼神官はその言葉を使っていた。
本の中で、旅人の狼藉を戒めるのは大神官様だったのに。
『でも、きっとね、寂しいからなんだ。ひとりぼっちが、寂しくて怖いんだ。辛くて悲しくて、ひとりぼっちが嫌だから、離れていかない人を求めてる』
『しんかんさまも、さみしいの?』
そこまで分かるなら自分もそう思っているのかな、と。なんとなく聞いた言葉に、巡礼神官は少しだけ虚を突かれたような顔をして、おかあさんがよく浮かべるような、どこか悲しい顔で微笑んだ。
『おじさんには家族がいたよ。妻と、子供が二人。上は女の子で、下は男の子。娘に最後にあったのは娘が君くらいの年ごろだった。息子とは結局会えないままだった。……失ったんだ。自分自身のせいで。この巡礼は、自分への罰なんだ。神が下す分不相応な真似をした人間への、罰なのだと思う。だから、ひとりぼっちで居ないとね』
『さみしいのに?』
『寂しいけれど、仕方がないことなんだ。どんなに一緒に居たいと願っても、共には居られない人がいる。自分が寂しいのと同じくらい、相手だって寂しいと思うかもしれない。一時は重ねることができたとしても、結局は誰にも、神様にすら祝福されない運命が、この世にはあるのだろうね』
すべてを受け入れた顔だった。
静かに、運命に耐える顔だった。
纏う雰囲気はゾッとするほど厳粛で、底が見えない暗闇のようだと思った。
カナタが王都から戻るよりも前に、この街を発った巡礼神官が魔物から子連れの吟遊詩人を庇って死んだらしい、と巡礼神官が向かった方角からやって来た商人の話を教会で耳にしたのは、それから数日後のことだった。
「そろそろ、馬を休ませるぞ」
御者の言葉に、サラは記憶に沈んでいた意識を現実に引き戻す。
傍らに置いていた、サラの持ち物がすべて詰まったカバンを手に取って抱え込む。
少し開けた場所にサラが乗っている荷馬車が止まると、後続の荷馬車も次々と面白いくらい整然と並んで止まりはじめる。
御者が台を降りる音がして、サラも荷台から自分のカバンを持って降り立った。
出来るだけ、周りの人を見ないように。
休憩の邪魔をしないように、目立たないように、気にされないように。
距離をとって、でも移動が再開する気配が感じ取れる近さで。
商隊がいる位置に背を向けるようにして、道と森の境目にある木の幹にもたれかかって座る。
無礼で無愛想な子供と不快感を抱かれているかもしれないという不安は、もう考えないことにしている。サラを視界に入れているほうが不快だろうし、扱いに困るはずだから。
今は南の国境を目指している。「どこでもいいので国境まで行きたい」とサラが言ったとき、そこまで行くのに一番出発が近かった商隊が南の国境に発つものだった。
上司の言葉もあっただろうが、文句ひとつなく引き受けてくれた彼らの中には、商隊長を筆頭にサラがもう帰ることのない街の人も沢山いる。
みんなサラのことを知っているのに、暴言や暴力を奮われることは一度もない。冗談でも下卑た言葉だって飛んでは来ない。
理性的で、良い人たちなのだろう。噂を知っていてなお、自分たちの子供と重ねるのか親切にしてくれる人も多い。けれど、サラはその親切を断った。
早く、慣れなければいけない。
誰の手も借りずに、1人で生きることに。
まだ、義務感で差し出してくれる手があるうちに。
カバンの中を探って、刺しかけのハンカチの刺繍を始める。
携帯食もあるが、特に空腹を感じない。ただ、座っているだけで移動するのだから、お腹が減らないのも当たり前だ。
食事に関しては、川での魚の取り方や動物を捕まえる方法を教わってからは大抵1人で何とかしている。全く手に入らなかった時は商隊のお世話になったが、一昨日からは一度もお世話になっていない。
オーガスタに街を出ていくように言われて、翌日には答えを出した。
この街も、この国も出てしまおう、と。
シルロード商会という巨大な柵から逃れるには、法や権力に束縛されない旅人になればいい、と。
そうすれば、望まれたようにカナタと会うこともなくなる。
生計は、編み物や刺繍なんかを作って売れば大丈夫だと判断した。特に、ハンカチへの刺繍はさほど嵩張らないし、重さも気にならない。
紋章を組み込んだものは需要も多く、高く売れるので楽観的かもしれないが、何とかなると思っている。
結界の紋章を縫い付けた服を着ているし、攻撃魔法や防御魔法も使えるので自衛手段もある。
旅の目標だって設定した。今まで読んだ本の舞台となった場所がある国を巡ってみようと思う。
想像することしかできなかった世界を辿るのは、きっと楽しい。
ひとりぼっちを寂しいと思うこともあるだろうけど、1人でも楽しく生きていける。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ)
ギュッと締め付けられたような心に気付いて、声には出さずに自分に言い聞かせる。
街を出てすぐの頃より、こんな気持ちになることも少なくなってきた。
慣れてきている証拠。
いい傾向だと思う。
このまま、いつかは何も感じなくなってしまえばいい。
丁寧に、ひと針ひと針を刺していく。
その手が、骨を浮かべてきていることにサラは気づかない。
いま自分が、どれほど虚ろな顔をしているのか分からない。
このまま、消えてしまうのではないかという商隊の大人たちの心配は届かない。
思惑は外れていく。
後悔を乗せた手紙が、運命を信じる少年の焦燥を駆り立てる。
けれど、少女は何も知らない。
知らないまま、幼い日々から手を引かれていた。
初めて出会った時から、ずっと、知らないままに生きている。