142:追放宣告
何か、音がしたような気がしてサラの意識が覚醒した。
伏せていた顔を上げて見回せば、窓から見える外の様子は暗く家々の灯火が暗闇に光をもたらす。
ぼんやりとしていた思考が現実に引き戻されたのはすぐだった。
コンコン、と扉をノックする音がして、この音で目覚めたのかと思うと同時に激しく警戒した。
息をひそめて、テーブルの上にあるランプを灯すことなく外の様子をうかがう。
「シルロード商会の者です。ご在宅であることはわかっておりますし、ご返答がないようでしたら預かっている鍵を使わせていただきます」
聞き覚えのある女性の声が、カナタの家つまりはシルロード商会から来てくれていたお手伝いさんのものと一致した。
そう言えば、鍵を返してもらっていなかったと思う。おかあさんが死んでしまった日、いつもであればサラが開けるのを待つカナタは、もしもの時のためにと預けていた鍵を使って家の中に入ったのだ。
「すみません、今開けます」
と返事をしながら明かりを灯して、玄関のカギを開けて扉をひらく。
「こんばんは」
目に入ったのは、予想していたお手伝いの女性ではなく、目元にわずかな皺を作りながら笑っている、見覚えのない壮年の紳士だった。どこかカナタと似た面立ちだが、カナタと違ってずっと笑みを浮かべ続けているせいか柔和な印象を与える男性である。青灰色の髪を短く整えた姿と対峙して不快感を抱く者はいないだろう。
少し見ただけでも分かる。地味な色合いながらも仕立てのいい薄手のコートに身を包む姿は、この質素な家の玄関先に立つべき人ではないことを示している。
その傍らに控えるように、お手伝いをしてくれた年配の女性が居た。
「こんばん、は」
戸惑いつつも、反射的に言葉を返す。
「サラサ・ミカサエル嬢。貴女に話があってね。家に入れてもらえるかな?」
名乗ってもいないのに、見知らぬ男性はサラのことを知っていた。害意も悪意もない朗らかな物言いながらも、訪問を請う声にはどこか断ることを許さない響きがあった。
「どうぞ。お構いも、できませんが」
「押しかけているのはこちらだからね。失礼ついでに飲み物なんかも持参してきたよ」
警戒しながらも、カナタの家から来た人ならば無体な真似もしないだろうと判断して、受け入れる。
しかし、お客さんが来ることを想定していない家なので、食器類はサラとおかあさんの分しかない。おかあさんが死んでからカップなどの整理もしたので、お客さん2人分のカップすらすぐには取り出すこともできない。
そもそも、椅子が2脚しかないことに気づいて、家に入れてしまうことを瞬時に後悔した。
けれど、サラが何か言う前に男性は家の中にさっさと上がり込んでしまった。お手伝いさんもそれに続く。彼女は、家の中のことを知っているはずだ。
「あの、この部屋には椅子が2脚しかないので、別の部屋から」
「いえ、それには及びません。旦那様の小間使いである私に、席は必要ありませんので」
お手伝いさんのキッパリとした言葉に、二の句が継げなくなる。
仕立て屋で手伝いをしていたので、主従関係にある方と彼女とを同列の席に勧められないことは分かった。
カナタの家の指示であろうと、お世話になった人に対する心苦しさを感じつつ、男性だけに席を勧める。
サラが何かしらもてなす準備する前に、お手伝いさんが持っていた手籠の中から紅茶の入ったポットやティーカップ、焼き菓子を取り出して手早くセットしていた。
申し訳なく思いながら、お任せすることにして男性と向かい合う形で席につく。
テーブルがセットされると、お手伝いさんは少しだけ距離をとって男性の側に控えていた。
「さて、まずは夜分に女性の家を訪問したことをお詫びする」
口火を切ったのは男性のほうだった。
「私はシルロード商会会長を務めているオーガスタ・シルロード。貴女にとっては、カナタの父方の伯父だと言った方が分かりやすいかな」
甥っ子がお世話になっているね、とオーガスタは笑った。
「いいえ、私の方こそカナタさんにはいつもご迷惑をおかけしていて」
「本当にそうだよね」
変わることなく、朗らかに返された言葉。にこにこと、目の前の男性は笑い続けている。
「分かっているなら話が早くて助かるよ。君、出ていってくれるかな?」
衝撃に強張った顔で、サラは「どうして」と口を動かす。小さく、呻くような音が出た。それでも、オーガスタには伝わったらしい。
「君がカナタに相応しくないからだよ。娼婦の母と誰とも知れぬ父を持つ、卑しい娘。それだけならまだひっそりと生きられただろう。こともあろうに君の母親が『紅毒』で死ななければ、ね」
今日は、朝に少しパンを齧ってからは何もお腹にいれていない。なのに、なぜか胃がぐるぐるとして気持ち悪くなってくる。
「それも、他に感染者を増やして」
紅毒は性病の一種である。初期の自覚症状は風邪と似ていて、初期症状からそのまま重篤化して死に至ることもあれば、初期症状が一定期間を過ぎたのちに回復して感染に気づかない場合もある。
しかし、一度感染すれば3年後には生きていないと言われている恐ろしい病気である。2年も保つのはほんの一握りで、大抵は半年から1年の間に健常状態から急に重篤症状に陥り、全身に赤い発疹を発症させ、熱に耐え、血を吐き、呼吸すら苦痛となって、衰弱して死んでいく。
知名度は高く、恐れられている病気だが感染者が出るのは稀である。自覚症状は出にくいが、感染すれば粘膜に特徴的な赤い斑点が現れるのだ。
娼館の店主は定期的にそういった病気の検査を義務付けられているし、その検査で引っかかる娼婦がいれば、娼婦を買った客も検査が徹底される。あとは、広がらないように感染者を見つけ次第対処するだけだ。
感染力は他の性病と変わらないが、罹患者の数が少ないため感染率は低いのだ。
逆に言うなら、感染者が地域に固まっていれば、
「残念なことに、ここの地区でも何人かの男性に感染の兆候が見られたよ。娼館で働いていた人の中にも、別の地区の人にも。だけど死んだのは、まだ君の母親一人だ」
広がる原因となった、最初の人間が存在する。
初期症状から即座に重篤化するかどうかは個人差だ。
一番最初に死んだ人が、一番最初の感染者だとは限らない。
最初に感染していたのが娼婦でも客でもおかしくない。
始まりは、おかあさんではない可能性だってある。
そして、そう言った途端に「言い逃れだ」と糾弾される未来を、サラは容易に思い浮かべた。
言い訳できない人間が、一人いればいい。
たった一人を責めたてられれば、少なくとも残りの人たちは、その責め苦から解放される。
もう、おかあさんがそのたった一人に仕立て上げられているのだろうと理解した。それが、覆されることはないだろう。
街の人たちの態度が急激に悪化した理由を知って、それでもおかあさんの名誉を回復できない現実にやるせなさを感じる。
胃の不快感が、どんどんひどくなっていく。
「紅毒を広げた娼婦の娘。その娘が母と同じではないとどうして言えるのか、君がそう言われていると君は知らなかったかな?」
口調は変わらないけれど、オーガスタの目から笑いの色が消えた。どこまでも冷たい視線がサラを見据える。
「甥に不名誉な噂が立ってしまってはかなわない。国からも才能を認められている彼を後見しているシルロード商会としては、君の存在を見過ごすことができない」
ぐるぐるする何かが気持ち悪くて、吐き気すらしてくる。醜態を晒さないように力を込めて俯いて耐えていると、指先がかすか震えているのが目に入った。
「この街の支店を任せている弟夫婦には事前の手紙で、どこの店も君を雇わないように手回しするよう伝えておいた。自営業の許可すら出さないようにしてある。それから、この貸家も買い上げて数日中には立ち退いてもらうことになる。もちろん、この街で君の次の住処が見つかるなんて考えていないよね?」
身近だからこそ、改めてその影響力を考えてオーガスタの言葉に納得した。
シルロード商会とは、この街の商業だけでなく国の機関にまで圧力をかけられる、大陸5指に入る巨大商会の1つ。
5大商会の中では一番歴史が浅いものの、支店を持つ国が一番多く、その流通網はどの商会をも圧倒するため、自然と外交や国交の面で多数の国から重要視されている。
現在は帝国に本店を置いているが、元々はバランドロ国で創業された商会であり、この国では特に力を持っている。
カナタの両親は現商会会長の弟夫婦であり、いずれこの国の支店を総括する立場になるという噂をサラも耳にしたことがある。
そんな人たちに睨まれてまで、厄介な人間を受け入れようとする物好きがいるだろうか。
答えは“否”だ。
「持っていけない物の処分は商会で行うよ。君がここを出てから生きていく当面の資金も用意している。弟夫婦の屋敷に来れば、行きたい場所までは商会の荷馬車で行けるようにもしよう。3日以内には覚悟を決めておきなさい。決まらないようなら追い出すだけだ」
決定事項を突きつける声は朗らかで穏やかなのに、寛容の優しさが削ぎ落とされたように欠落している。
答えを、返すこともできないままサラは俯いて、せり上がってくる吐き気に耐えていた。
「この街を出て、2度と戻らないのが君のためでもあるのではないかな」
最後にそう言い残して、オーガスタは席を立った。
お手伝いさんは出ていく主人の後をすぐには追わず、テーブルの上の茶器を片づけ、籠の中から取り出したまだいくつかの焼き菓子が入った小さな盛り皿に、サラが手を付けなかったお菓子も盛り直して白いナプキンを被せ、サラの目の前に置いた。
その横に、預けていたこの家の鍵も置かれる。
「ありがとうございます」
顔を上げ、つぶやくように言ったお礼の言葉は、きちんと彼女の届いたらしい。
一礼して、今にも出ていこうとしていた背中がその場で止まり、振り返る。
その顔は、暗がりでよく見えない。口元がかすかに動き、けれど言葉が出てくることはなかった。
やがてもう一度、深く礼をした彼女が顔を上げ暗がりに消える一瞬、その顔に苦悶の影が見えた気がした。
その意味をサラが理解できるはずもなく、彼女は静かに出ていった。
静寂が満ち、灯りの火だけがユラユラ揺れる。
「『待ってて』か」
しん、とした部屋の中で口に出してつぶやくと、思ったより冷静な声が出た。頭で冷静だと判断できると、不思議と吐き気も治まってくる。
「待ってるって、言わなくて良かった」
悲しむな。
傷つくな。
甘えるな。
私に、そんな権利はない。
「これでよかった。遅かれ早かれ、こうなるのは分かってた。ずっと甘えているわけにはいかないし、私は誰がどう見てもカナタに不釣り合いな人間。だから、離れるのが正しいの」
そうだ、玄関の鍵を閉めないと。
思うのに、立ち上がろうという気がしない。
「だいじょうぶ。今までは、好意に甘えさせてもらえただけ。だいじょうぶ。1人で生きるのは、もう決まってたこと。だいじょうぶ。1人でだって、生きていける。だいじょうぶ。どこでだって、生きていける」
きちんと、温情もかけてくれている。
問答無用で叩き出されないだけマシなのだ。
当面のお金だって用意するとも言っていた。
行きたい場所まで連れていってくれるとも。
泣くな。
恨むな。
それは、筋違いだ。
与えてくれていた厚意が、与えられなくなったからと詰る権利があるはずない。
「大丈夫。考えなさい。どうしたら生活していけるのか。出ていくときに必要なもの。どこへ行くべきか。どうしたら迷惑をかけないのか」
考えて、考えて。
やがて、1つの答えに辿り着く。
光ある世界は、やっぱりサラには眩しすぎたのかもしれない。