141:いやな思い出
静かに、穏やかに、おかあさんは息を引き取った。
どれだけ時間がたったのだろう。
冷たくなったおかあさんの手を握っていたサラの手に、ふと温もりが重なった。
「悲しいね」
耳元で、そっとそう囁いて、いつの間にか傍らにいたカナタがサラの体を優しく抱きしめた。
サラの中で、止まっていた時間が動きだす。
悲しい。
寂しい。
次々と渦巻く感情を言葉にはできなくて、カナタの胸で、ただ泣いた。
おかあさんが逝ってしまった。
サラはひとりぼっちになってしまった。
ずっと抱いていた不安は、現実となって目の前にある。
どうなってしまうのだろう。
これから、どうすればいいんだろう。
苦しそうな終わりではなかった。
でも、幸せな人生でもなかったはずだ。
サラは、おかあさんのためにもっと何かできたのではないか。
上の学校になんて行かずに、働いていれば。
体調が悪そうだと思ったときに、止めていれば。
そもそも、サラが生まれなければ、おかあさんはもっと生きていられたかもしれない。
ぐるぐると、おかあさんには言えなかった言葉が頭を巡る。
全部、全部、『もしも』の話。
おかあさんに言っても、きっと否定されただけの、自分を責める無意味な言葉。
分かっていてなお、もうやり直せない後悔ばかりが降り積もる。
でも、一番嫌なのは。
失ったことを嘆き悲しみながら、どこか、終わったことにホッとしている自分自身への嫌悪だった。
醜くて、ずるくて、弱い自分。
カナタの優しさに甘えて泣きながら頭の端でそんなことを思うサラを、心から蔑む自分がいた。
埋葬はその日のうちに、カナタの家が手配してくれた。
見送るものはサラとカナタの他に教会の神官と墓守だけの、ひっそりとした葬送だった。
おかあさんの両親が眠る場所で、一時間にも満たない別れだった。
そのころには涙も枯れて、ただぼんやりと埋められていく棺を見つめていた。
『悲しむのは、一日で終わらせればいいの』
いつだったか、泣いていたサラにおかあさんはそういった。
『どんなに悲しくて泣いていても、明日は来るのよ』
残酷なくらい当たり前に。
ちっぽけな人間の悲しみなんて歯牙にもかけず、現実はやってくる。
だから、生きていくために、泣きやんで考えなくてはいけない。
サラは、これから1人で生きていかなければいけないのだから。
今のサラより少しだけ年上のころに天涯孤独となったおかあさんが、そうしたように。
この、とても生きにくい町で。
それが叶わないと知ったのは、おかあさんが死んで一週間とたたないうちだった。
「今日中に王都に、発たないといけなくなった」
酷く不本意そうに、毎日のようにサラの様子を見に来ていたカナタが言った。
「戻って来たばかりなのに珍しいね。無理はしないで、気をつけていってきてね」
「それは、こっちのセリフ。眠れてないだろう?……なにも、こんな時に」
「これからずっと、そうやってカナタに心配されるわけにはいかないよ」
「学校だって」
「もう、通う余裕はないもの」
すでに退学の手続きは済ませている。
せめて卒業まで家で援助を、と言ったカナタの申し出を断ったのはおかあさんを見送った翌日だ。その言葉に、甘えてはいけないとサラは弁えていた。
それに、その言葉はカナタの独断だろう。サラの魔術に伸びしろはもうほとんどないし、専攻していた紋章術や術式構成も職を持てる水準に達しているとカナタの家の手伝いをして理解した。
カナタの家は商家だ。カナタの家族は商人で、これ以上投資しても発展が見込めない者に援助を申し出るとは思えない。
もし、家族から援助を見込めないとなればカナタはカナタ個人のお金でサラを援助するだろう。
当然のことのように。
けれどそれは、とても歪な関係だ。
「私は自分の力で生きていかないといけないの」
心配性のカナタに、ここ数日で何度この言葉を繰り返しただろうか。
複雑そうな、どこか傷ついたような表情を浮かべるカナタは、やっぱり優しいと思う。
たとえ自分に関係ないことでも、他人の人生に想いを寄せてくれる人。
「いってらっしゃい。気をつけて」
「すぐに、王都から戻ってくるから。待っててね?いってきます」
ひどく不安そうにサラを見つめるカナタに声をかけると、違和感を覚えるほど真剣にそう返される。
それでも出発まで本当に時間がないのか、名残惜しそうにしながらも自宅の方向に走り去っていく後姿を見送った。
優しいけれど、心配し過ぎだと思った。
けれど、向けてくれるその優しさと心配を、嬉しくて心が温かくなるものだとも思った。
それが与えられるべきでものではないと知ったのは、カナタが王都へ発った翌日だった。
最近の外出にはずっと、カナタがついて来てくれていた。
本当に小さな買い物にも「1人で行ってはいけない」と、カナタが居ないときは外出を我慢するようにとまで言われていた。
まるで、幼いサラにそう言い含めていたおかあさんのようだと思いながら、喪に服す意味も込めてカナタの言う通りにしていた。
おかあさんが使っていた物を整理したり、ついでに家中を隅々まできれいにしたりとやるべきことは沢山あった。
サラとおかあさんが住んでいた家は、貸家である。広くはないが、母子二人で住むにはちょうどいい部屋数だった。
逆に言うと、1人で住むには手が余るし、街の中で一番治安のよい場所にあるからか家賃も当然のごとく高い。
サラが働き出したとしても、この部屋を借り続けるのは厳しいことが容易に分かる。
半年に一度の前払いで借りているので、春が来るまでには職と新しい家を見つけなければいけない。
それまでに、サラが持っている物もいくらか処分する必要がある。筆頭は本だろう。
この街で生きていくために、しなければならないことは山のようにあった。
カナタが王都へ発った日の翌日、久しぶりに1人で外出した。そういえば、前に一人で外出したのは、まだ母が生きている頃だ。
改めて思うと、何週間も一人で外に出ていないことになる。
(何か、おかしい)
カナタと一緒になら何度も外に出ていたし、カナタがそれを当然としていたので「心配し過ぎ」と口にしつつも抵抗なく受け入れていた。
おかあさんを亡くしたばかりのサラを慮っているとしても、少々度が過ぎている気がしないでもない。
わきあがった疑問の答えを得ることもできず、1人で歩くことに違和感すら感じるようになった道を辿っていく。
カナタが居ないうちに仕事を見つけるのが当面の目標だ。
カナタの家で相談役の他に助っ人としてお針子の手伝いもさせてもらったことがあるので、仕立て屋の仕事を中心に募集がないか探すつもりでいる。
どこにも募集がなければ、カナタの家の系列である仕立て屋に直談判してみる。これは、カナタが居ないうちにしなければいけない。
カナタ自身はまだ商会の仕事自体にはかかわっていないらしいので、雇用に対し口を挟むようなことはしないと思うが、オーナーの息子と交友がある人間を、その息子の目の前で「雇えない」とは言いにくいと思う。
カナタの家の人たちには、とてもお世話になった。
その厚意に胡座をかくことは許されないとサラは思う。
だから、カナタと交流を持つことで繋がった縁を頼りつつも、公正であらねばならない。
残念ながら街の掲示板に、お針子を募集しているような仕立て屋や服飾関連の張り紙はなかった。接客や家政婦などの募集はちらほらとあって、頭の中に選択肢として入れておく。
掲示板の付近にはサラ以外にも人はいるが、相変わらず遠巻きにされている気がする。
サラが住んでいる地区から街の中心部にある掲示板までは少し距離があるので、サラのことを知らない人も多いのに珍しい反応だ。
サラは珍しい色の目をしているが、目の色をきちんと識別さるにしては遠巻きにしている人たちと距離があるし、髪や肌の色はおかあさんと違って周囲に埋没する平凡な色。
住んでいる地区を出てしまえば、おかあさんと違ってサラの容姿まで見知っている人は少なくなっていく。
この地区で見かけない子供、という意味で遠巻きにされることはあるが、この街全体の共有地である中心部に見知らぬ人間がいるのは当たり前のはずだ。
周囲の反応にかすかな不安を抱く。
おかあさんが死んでしまったり、いままでずっとカナタに付き添ってもらうことが当たり前になっていたりで、過敏に反応しすぎているだけかもしれないと結論付ける。
拭いきれない居心地の悪さを感じながら、サラは足早に掲示板が設置されている場所からサラが住んでいる地区の大通りへ向かう。努めて、周りのことは気にしないように。
大通りにはカナタの家の系列であり、サラが仕事を手伝ったり相談役をしていた仕立て屋がアトリエを併設した店を開いている。
目的の店に向けて、サラは脇目も振らず歩き続けた。
「ごめんなさい。貴女を雇うことはできないの」
少しだけ申し訳なさそうに、けれど迷うことなく告げられた顔見知りの店主の言葉は、思った以上にショックだった。
「こちらも、突然無理を言ってしまって。……その、厚かましいのは重々承知しておりますが、できれば新しく人を雇いたいというお店を、紹介していただけませんか?」
「残念だけど」
間髪を入れず、すげなく返された言葉に一人で頑張ろうと意気込んでいた気持ちがみるみる沈んでいく。でも、そんな顔を見せるわけにはいかない。
「お仕事の邪魔をして、申し訳ありませんでした」
予想の範疇だ。
まだ、始まったばかりだ。
「貴重なお時間を割いていただいて、ありがとうございます。それでは、失礼させていただきます」
「……この街に、貴女を雇う人間は1人も居ないわよ」
店のこじんまりとした応接室の中で、店主から告げられた言葉の意味が分からなかった。
「だからどんなに頑張って、この街で職を探しても無駄」
「あの、どういう」
応接室から出ようと、扉のところまで来ていたサラは振り返って聞き返した。
「外を歩いていれば、分かるのではないかしら」
店主の声はどんな感情も伝えない。見える横顔は、塗り固めたように表情を変えはしない。
「失礼、します」
ようやく、小さな声でそう告げてサラは店の外に出る。
店主の言葉がぐるぐると頭の中で繰り返される。
『雇う人間は1人も居ない』
『職を探しても無駄』
どうして、そんなことを言うのだろう。
カナタの家の人たちは優しくて、紹介してくれたこのお店の人たちも最初は少し探るような目で見られていたけど、関わるにつれて良い関係を築けたと思っていたのに。
それとも、その思いは一方的に甘えた考えだったのか。
雇う人間は居ない、という言葉。確かに、この地区ではサラを雇ってくれそうな店はここだけしか思いつかない。
でも、他の地区の仕立て屋や、それがダメでも掲示板にあった求職の張り紙もある。
この街は、この国有数の歴史ある商業都市なのだ。選り好みしなければ常に何かしらの職が余っていて、雇用条件に目を瞑れば職は得られるはずだし、どうしても雇ってもらえないなら編み物などをどこかの店に卸させてもらえばいい。
この街では売れなくとも、他の町や国の商隊をターゲットにすれば食べていけるくらいにはなるはず。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ。まだ、始まったばっかりだから。少なくとも、私の人生がそうそう上手く回るはずがない。がんばりなさい)
通りを歩きながら、頭の中で自分に言い聞かせる。
傷つかない。
怖がらない。
甘えたりしない。
それをしてしまえば、サラはきっとがんばれなくなってしまう。
その時だった。
グチャッ
視界の端に何かを捉えたと思えば、左側頭部に何かが当たり聞きなれない音とともに何かが張り付くような不快感がサラの身を襲った。
痛みを感じるより先に驚いて体が固まった。
周囲を見回しながら、頭に触れるとヌルリとした感触とともに薄く壊れやすい白い破片が手に残る。
玉子を投げつけられたのか、とぼんやり思った。
周囲を見回せば、混雑時ほどではないにしろ買い物客や売り子は沢山いる。衆目の中で起こったことなのに、誰も何か口にすることなくサラの身に起きた出来事を静観していた。
だから、誰がこれをしたのかサラには判断できなかった。
今、ここにいる人たちの誰が投げつけたのだとしても、おかしくないような気がしたから。
何も言えずにその場に立ちすくんでいると、買い物客だった中年の女性が一人、その場にしゃがんで地面から何かを拾い上げた。そうかと思えば、サラに向けてその何かを振り上げる。
避けなければいけない、頭のどこかでそう思うのに体は縫い付けられたように一歩も動かず、ゆっくりと進んでいく光景をただ見ていた。
カツン、とサラがいる場所よりも手前で落ちた小石が幾度か跳ねて、サラに当たることなく静止した。
光のない世界を見ていると目の前で起こることが、どこか遠い出来事のように感じる。
女の人が、何かを叫んだ。
それに、別の誰かの声も重なる。
多分、意味のある言葉の羅列なのに、サラには何を叫んでいるのか理解できなかった。
ただ、サラに対する敵意の存在だけはありありと感じられた。
ハッとしたとき、サラは自分の家の中で鍵を掛けた玄関の扉に体を預けるようにして座り込んでいた。窓の外はまだ明るい。
悪夢でも見ていたのかと、現実味のない記憶を思い返しながら髪に触れると、不自然に固まったような状態になっていた。そのまま髪を握りしめて、胸に去来した何かを耐えていると指先にピリッとした痛みが走る。
手の力を抜いて確認すると指先にできた真新しい切り傷に赤い玉が浮いていた。次は、探るように握っていた場所を確認すると、殻の破片が見つかった。
記憶が悪夢ではないことを実感しながら、とりあえず髪を洗おうと立ち上がると、膝から力が抜けるように倒れそうになった。
とっさに扉に手をついて、それを回避する。
近くの、手すりになりそうな窓の桟に手を伸ばして、やっと上手く立ち上がれた。
そのことにホッとして、体の震えが少し収まった時、ようやく自分が震えていることに気づいた。
いままで、あんなにも直接的な悪意をぶつけられることはなかった。
嫌われ、疎まれ、蔑まれていたのは知っているし、害意ある態度や言葉を浴びせられたことも少なからずある。
子供達の中で、軽く押されたり転ばされたりといったことが無かったとは言わないし、大人たちから、おかあさんの仕事のことであからさまな悪口を聞かされたことが無いとも言えない。
でも、どんなに嫌われて無視されていても、大人たちから殴られたり蹴られたり何かを投げつけられたりしたことはなかったし、知らない男の人に連れていかれそうになった時には声を上げてくれる人がいた。
「だ、だいじょうぶ。だいじょうぶ。怖くない。悲しくない。ちょっと、びっくりしただけ。だいじょうぶ」
いつだったか、声に出して自分に言い聞かせれば落ち着けるという記述を本で見た。自分にしか聞こえない声で、自分以外の誰にも聞かれないようにすべての音に耳を澄ませて。
幼いサラにとって、外の世界の音を聞くために耳を澄ませるのは楽しいことだった。
かすかに聞こえる楽しげな話し声。売り込みの音や、荷車が行きかう音。
扉一枚隔てた先には、サラがカナタを通してしか知ることができない、温かくて明るい世界が広がっている。
だから、世界は怖くない。
幼い頃からの刷り込みは、サラの心を落ち着かせた。
その想像が優しくて都合がいいだけだと気づくまで、生きようとしていた世界の広さを知らなかった。
さすがに今日はもう出かける気になれず、鍵という鍵が閉まっていることを確認して、頭をきれいに洗い流す。
幾分かすっきりとした気分で、食卓の席に着きこれからのことを考えた。
(どうして急にあんなこと)
物を投げつけられたり、内容までは覚えてはいないけど多分罵声を浴びせられた。でも、サラ自身にはそんなことをされるほどの恨みを買った覚えはない。
強いてあげるなら、カナタと交友があることを学校の生徒からよく思われていない程度である。
(あとは、おかあさんが働いていたところの店主くらい)
憎々しげな目を向けられながら、すさまじい罵声を浴びせられたのは記憶に新しい。けれど、あの店主の立場はむしろサラやおかあさんと同じはずだ。この地区に住んでいないし、店がある地域ならばまだしも、このあたりにまで影響を及ぼせるとは思えない。
(……そういえば)
いっぱいいっぱいの状況で、さほど気に留めていなかったけど、おかあさんがまだ生きていたときにも今日と似たようなことがあったはず。
(その時は一人で買い物をしてて、何かが私のほうに飛んできた気がした)
でも、それからすぐにカナタの家が寄越してくれたお手伝いさんが買い物を代行したり、外出にはいつもカナタが付き添ってくれたりして、何もなかったので、今の今まで忘れていた。
(だとしたら、そのころから街の人たちは私に害意を抱いていたってことになる)
急激に深まったサラへの悪感情の原因は何なのか。
もし、その原因が、サラではないとしたら。
そう思ったとき、サラは考えることをやめた。
これ以上考えてはいけない。
出すべきでない答えを知っている。
だから、考えない。
なのに、抱きたくないと侮蔑すらしている想いが次々と溢れてくる。
落ち着きを取り戻しかけていた心が、嫌悪と懺悔で荒れ狂う。
唐突な倦怠感と激しい眠気がサラを襲った。
誘われるままにサラはテーブルに顔を伏せて、次の瞬間には意識を手放した。