138:整然たる道筋
四古参であるブフナー先生の威光と国家を揺るがしかねない緊急事態という状況を盾にして、アマリリスは本来であれば持ち出し許可が下りるのにとてつもない時間がかかる本を朝日が昇る前に学園へ持ち帰ることに成功した。
学園に着いてすぐ、ヒアネオ先生が持ちだされた本の該当箇所を検証して作成した薬を患者に投与すれば、患者の容体は急激に回復した。
その結果を鑑みて、学園の上層部と学園に助力を求めに来ていた役人や、医師、薬師たちを集め、こう宣言する。
「病の原因も回復の理由もまだはっきりとは分かっていません。ですが、それらの解明以上にいまだ有効な手を打つことができなかった病に対する特効薬があるという事実こそ、皆が求めているものでしょう。このまま後手に回り続けるなら、現在の病への過剰な怯えが、ひいては国の乱れを生じさせてしまうことが危惧されます。特効薬のレシピ公開と通常であれば新薬ゆえに課される制約への特例措置の発動を願います」
毅然としたヒアネオ先生の申し出に、役人は僅かに逡巡したのち、特例措置の大部分の発動を約束した。ただし、
「非常時であることは承知のうえで、特例措置を下せない部分が少なくとも3点ございます」
役人はそう言って、その3つのことを口にする。
1つ目は、レシピの公開は国から正式に薬師としての資格を与えられた者のみということ。
2つ目は、薬の投与は必ず医師の手で行うこと。
3つ目は、患者への投与から最低でも半日間、常に1人以上の健康な者が患者の経過を観察すること。
今回の特効薬は稀少性が高い材料は無いが、向精神薬など精神に影響を与える薬の扱いは大抵の場合とても難しい。よって、下手な調合をすれば麻薬という毒に化す危険がある。
依存性のある向精神薬は、確かにきちんとした知識を身につけた者の指示のもとで服用しなければ、薬物中毒者となって最悪の場合には死亡する。
3つの条件に、ヒアネオ先生も医師も薬師も了承の意を込めて右手を上げて頷く。
「それでは、事務手続きに関しては学園に一任します。そしてこれから、レシピの公開と制作手順を実演説明しますので薬師の資格をお持ちの方は私についてきてください」
議長役を務めていたヘルマンの解散宣言があるや否やヒアネオ先生がすばやく立ち上がる。年齢を感じさせない身のこなしで先導する後を、その場にいた薬師の資格を持つ者たちが付き従うように椅子から立ち上がって追っていく。
事前に人数を想定して用意していた部屋には、アマリリスが必要な道具や材料を揃えてすぐに調合に取り掛かれるようになっていた。
他の薬学の教師が模写済みのレシピを配布していき、説明は即座に始まった。
薬師の資格を持つ者たちは調合している机の前で。ヒアネオ先生の一言一句聞き洩らさないという気迫さえ感じる真剣な表情で作業と当時に語られる言葉に耳を傾け、その一挙手一投足を食い入るように見つめていた。
そして、特効薬が完成する一連の流れを確認して、成分の抽出や配合など特に気を配らなければならない過程を頭に叩き込む。
向精神薬の一種なので扱いは難しいが、薬草自体の効力や副作用が低いため抽出の加減を間違えなければ服用して即座に患者が急変することはない。
また、調合時間もさほどかからないし、手順も複雑ではない。
しかし、1つの問題点が彼らの中に生じた。
意見があるかを求められ、手を挙げた中の一人をヒアネオ先生が指名する。
「調合に使用した材料は確かに稀少性が高くありません。しかし、この国には自生していない薬草が含まれていますし、それらを薬の材料として使用しても平時の汎用性が低いために在庫がすぐに尽きてしまいます。代用できる薬草はないのでしょうか?」
「その点に関してはこちらも問題視しておりますが、代用できる薬草は発見できていないのが現状です。このレシピは昨夜、禁書となった『かの魔女』のノートから見つけたものです。彼女の鬼才はここにいる方たちには周知の通りでしょう。効力についてはこちらでも確認済みですが、材料の代用を調査する時間は足りませんでした。学園ではこれから代用できる材料を発見することが急務となってます。それが見つかるまでの間はレシピ通りの材料と手順で調合を行ってください」
ヒアネオ先生の口から出た『かの魔女』という言葉に、その場にいたほとんどの者が息をのんだ。
双黒でありながらある時期から薬学に傾倒し、魔術だけでなくこの分野でも天才の名を欲しいままにした惨劇の異名を持つ女性。
彼女は死ぬまでのたった数年間、それも頻繁に公休となる在学中だけで薬学の歴史を100年は進めたと言われている。
彼女の薬が禁制となる前にレシピが公開された薬で救われる人の数は、彼女が降らせた血の雨と同等かそれ以上になるとも言われている。
「学園の薬草園や在庫からも材料を提供する準備を進めています。そして、王立薬草園にも協力の要請を行いました。それらが尽きる前に、学園は代用の」
「ヒアネオ先生!」
ぎりぎりの綱渡りだと分かっている。すでにいくつかの代用材料の候補を挙げているとはいえ、ここで不確かなことを口にはできないし、代用品を使って完全なレシピと同じだけの効力があるのかは実際に試してみなければわからないのだ。
それでも、やらねばならない。決意を込めた宣言は、勢いよく部屋に飛び込んできた連絡役の教師の叫びによって遮られた。
ずっと走り通しだったのか息が上がり、冬の外を走ってきたのが分かる赤い顔にはうっすらと汗も光っていた。
「ざっ…りょ、が‥と…き、ます」
ゼイゼイとした呼吸音にかき消されて、飛び込んできた教師が何を言っているのか不明瞭だった。いっている当人も自覚しているのか、息を抑えようとしながら同じ言葉を何度も繰り返している。
「‥いりょ…ざい、りょ…とどき‥ます」
「いま、材料が届くといいましたか?それは、特効薬の材料のことですかっ!?」
息の整わない教師の傍にいた薬師の1人が興奮した様子で聞き返す。
教師は首を何度も縦に振って頷いた。
先ほどまでの悲壮と決意が消え去り、静かな希望がその場にいた者の中に生まれた。
「バランドロの、魔術長で、漆黒の御一人である、ネレウス様が、大量に、送って」
途切れがちではあるものの、言葉は明瞭にその場にいた者たちの隅々まで届いた。
「城の転移棟から、すでに学園へ向けて生徒達が移送中。もう半刻もしないうちに学園まで届くようです」
ようやく息が整って教師が宣言した言葉の内容は、信じられないものだった。
「市井へすぐ提供できるよう準備を整えています。すぐに説明役がもう一人参りますので、公職薬師官の方々以外はこちらでお待ちください。ヒアネオ先生は対策本部へ戻られるようにと言付かっています」
「わかりました。すぐに向かいましょう」
予想外なところから差し込んだ光は、思いもしなかった道を照らしていた。
「ヒアネオ先生!ネレウス様から先生に宛ての手紙が届いています」
対策本部にいる者たちの顔は興奮が隠せないでいた。このタイミングで、一番と言うべき奇跡を起こした人物からの手紙は、受け取るべき者の手に開封されることなく渡された。
同時に差し出されたペーパーナイフで宛先と差出人のみが記された封を開ける。中には白く上質な便箋が2枚入っていた。
『事態は把握しています。終息に向けて、バランドロ国は私を筆頭に協力を惜しみません。
まずは必要と思われる薬草数種を送ります。
足りなくなれば連絡を。こちらには十分な在庫がありますし、多数の自生地を抱えているので問題はありません。
そして今回、ブラウンの残したレシピは材料の代替が可能です。
何故、代替が可能であることを知っているのか。そして、現時点では流行病の罹患者がいないバランドロが介入できたかについて、この手紙で詳しく記すことはやめておきましょう。
1つだけ記すことがあるとするならば、流行病と私とを繋ぎすべてを整えた彼女には、いかなる罪も咎もない。
彼女への執拗な詮索は、1人の漆黒を敵に回すことになるでしょう。
と、圧力をかけさせていただきます』
最初の便箋にはそう書かれていた。
ヒアネオの中で文面から想像できる、すべてを繋いだ『彼女』の正体は、レイしか思い浮かばなかった。
不足が予想される材料はバランドロ国がある地域に多数の群生地がある。
そのことを理解しながらも、バランドロに協力を要請することが難しい状況があった。
大陸の宗主国たるアズマール帝国と南西の大国バランドロの仲は一点の曇りなく良好、とはいえない。
それは敵対関係にあるとか不穏な仲だという意味ではない。通常の外交や政治的には平穏な状態を何百年と保っているし、数代前のアズマール帝国の正妃がバランドロから輿入れされた王女であることからも分かるように両国の交流は絶えない。
けれど、ここ10年ほど。正確に言うならば、『緋の双黒』であるレイニング・ブラウンが亡くなったとされた時から、バランドロで漆黒として時には国王よりも強い権限を持つネレウスとこの世界で唯一無二となった『双黒の賢人』との仲が急速に悪化した。
漆黒も双黒も基本的には神殿に属する立場であるが、学園卒業後の『緋の双黒』が神殿に縛られるのを拒否したのに続いて、ネレウスも神殿の意向に従属することをやめ、自らの意思で帝国ではなく彼の母国であるバランドロの魔術長という地位についた。
神殿派の筆頭である『双黒の賢人』と『緋の双黒』亡きいま自由派の筆頭と目されるネレウスが対立することも多く、神殿も帝国にまで波及した原因不明の流行病に危機感を抱き始めている中で、賢人に事態の収拾を求める可能性もある微妙な時期に、むしろ事態を悪化させるような介入を頼むことは難しいと考えていた。
またネレウスと賢人が同時に事態へ介入することで両派の対立が生まれ、結果的に事態への対処が遅れてしまうのを憂い、バランドロに協力を求めるべきとの考えがあっても実行するのはためらわれた。
もし賢人を無視してバランドロに協力を求めれば、神殿の思惑により賢人が介入するのは必至である。 逆に、神殿や賢人に協力を求めれば『緋の双黒』に強烈な忌避感を持つ彼らは、彼女の残したレシピの使用を許さないだろう。それは、大きな痛手である。
また、レシピを発見して幾ばくも経たないうちにバランドロへ根回しをしても即座に自発的な好意としての協力という体裁を整えてもらうことを期待するには、バランドロには未だ発症者のいない原因不明の病に積極的に介入すべき利益が無かった。
2枚目の便箋には、バランドロの介入はネレウスの発案で行われた自発的なものであること。今回の流行病とその薬について思い当たることがあり、開発の足しになることを期待して薬草を送ったこと。それが偶然、本当に役立つものになれば幸いである旨が書かれていた。
つまり、全てを無理矢理な偶然で片づけろと言っているのだ。
そんな暴論が押し通るのは、ネレウスが漆黒であるがゆえ。
そして、レイに詮索の手が伸びるのを厭うていることも感じられた。
近くの教会の鐘が時を告げるために鳴り響く。
その音をどこか遠くに感じながら思うのは、すべてを見通していた少女のこと。
「材料の心配はなくなりました」
手が身に目を通すヒアネオに注視していた者たちに向けて、そう宣言し、
「さあ、みなさん。ぼんやりとしている場合ですか?代替材料を探すはずだった人員の3分の2を特効薬の調合に回しなさい。グズグズしている暇はありません。患者もその家族も、今なお病に苦しんでいるのです。ここからが、正念場ですよ」
「「「はい!」」」
ヒアネオの鼓舞に、その場にいた者たちの中から浮き足立った雰囲気が消え、引き締まった空気がそれぞれがすべきことに意識を向けさせた。
行き詰まる未来しか見えなかった事態は一気に好転していく。
向かうべき道は、たった一日で目の前に現れた。
けれど、あの少女のなかではもっとずっと前から作り上げていた道なのだ。
そのことを知るのは両手にも満たない数の人間だけだろうと思いながら、鐘の音とともに文面が白紙へと変わり、音が鳴りやむ頃には誰が読んでも問題ないような、別の内容と化した2枚の便箋を丁寧に封筒の中に収める。
そして、ヒアネオも自分がこれから向かうべき所へと足早に歩を進めた。