129:出張魔法陣
長くなってしまった未明の話のあと、レイもジークフリードもそれぞれに部屋へ戻った。
でも、レイはあてがわれた部屋に戻ってもベッドに横になって眠ることはなかった。
夜はもう明けてしまってきているし、本当の意味でレイが眠りにつくことはない。
完全なる無表情で、息遣いの音さえ聞こえない部屋の中でレイは目を閉じて佇んでいた。
普通の人間にはありえないほど発達させた耳には多くの情報という名の音が聞こえてくる。
控えめな朝の挨拶、流行病のせいかあまり活気の感じられない朝市の準備の音、物を運ぶ荷車の音、控え目ながらそんな生活感に満ち溢れた音の中に1つだけ鼻をすする音が聞こえた。
乱れた息遣い、衣擦れの音。
やがて息を殺して忍び足、出来るだけ出さないようにしている扉の開閉音、また忍び足。
ほどなく水音。そうして前の手順を逆に繰り返し、そして何かを拭う音。
(泣いたか)
そこまで聞いて耳を人並みに戻して心の中だけで呟く。
心に響き、感情を揺さぶるほどの感慨はなかった。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回してみたが、やっぱり他人への興味があまり生まれない。引っ掻き回した責任は然るべき時にとらなければならないと思うが、それは今ではない。
何故、自分には他者への興味がないのかと言われれば一番にあがる理由はそれ以上に気にするべき大切な人が居るからで、そこに他者に興味を持つ余地はほとんどない。神さえも自分の大切な人のためにお互いの利害関係で手を結んでいるし、友人を作ったのだって大切な人の願いだったから。
自分を他者とを介在するのは、そのほとんどが自分の大切な人。
自分は大切な人__母、師匠__の介在なしに他者との関係はおろか、自分の存在すら成り立たない。
かすかな余地は、ほんの少しの気まぐれと、時々堪えられなくなる爆発のような感情の奔流による一時的な狂気だけ。
いつもと同じようなクルシューズ家の朝がやって来た。
ジークフリードには未明の会話などなかったかのように朝の挨拶をして、レイも同じく丁寧に返す。
セリナさんは朝から一手間かかった料理を、多過ぎず少な過ぎず栄養バランスよく食卓に並べている。
マリは食前の祈りを呟いて見た目によらない成長期の少年らしい旺盛な食欲を見せている。
マリアは珍しくぼんやりと朝食を口に運んでいるが、そのうちに血がちゃんと巡るようになったのか、しばらくするといつものマリアになった。
「レイちゃん、今日はどうする?」
ジークフリードの唐突な問いかけに、
「ご迷惑でなければ昨日と同じくお手伝いをさせていただきたいです」
と、言葉の意図をきちんと汲んで控え目に答えた。
「そうか。・・・ものは相談なんだけど、他の診療所に出張する気はある?」
「場所にこだわりはありませんが土地勘があまりないので、どの辺りに診療所があるのか教えていただいて、徒歩で向かえる範囲であれば、どこにでも行きます」
「だったら、出頭魔法陣をお願いしていいかな?評判が昨日のうちに回っていて色んなところから魔法陣の依頼が来ているんだ」
「分かりました。することは魔法陣だけで良いんですか?」
「うん。出来るだけ多くの場所を回って欲しいからね」
ジークフリードは希望が叶って安心したように穏やかに笑いながら理由を口にした。
マリとマリアは、自分達も診療所を手伝いたいと言っていたがジークフリードにもセリナにも却下された。これは過保護というよりも、魔法陣によって発覚した流行病の罹患者が想像以上に多かったせいだ。このままでは在庫の薬が足りなくなる。
今回の流行病の死因は緩やかな衰弱や、無自覚の高熱のせいで突然意識障害が起こって倒れた際に打ち所が悪かったり、心臓に負担がかかって発作で、と流行病なのか持病なのか急病なのかが分かりにくいのが特徴で、発見されにくさに対処が後手に回る傾向にあった。
だが、今回の魔法陣の効果で病気なのだという自覚さえ生まれれば、解熱剤を飲んだりして完治は出来なくとも命に関わるような事態は起きない、と現時点の症状からは判断できる。それに、症状を抑えている間に特効薬が開発される可能生だって十分にある。
そんなわけで、マリとマリアは平常通り薬作り。セリナは午前は地区の教会で神殿所属の舞い手として舞えない代わりに裏方として事前準備。午後からは朝のうちに仕込みをしておいた診療所の差し入れと栄養をつける病人食作り。そして、ジークフリードとレイはまず診療所に向かい、ジークフリードはレイに町の地図と診療所の位置を説明して徹夜組と交替して診察を開始。レイは説明を頭に叩き込んだが、一応地図を持って他の診療所へと歩き出した。
まずレイの目に映ったのは人は多いのに生命力も活気も感じられない、ジークフリードの診療所よりも若干大きな診療所だった。病人、怪我人の集まる場所に生命力と活気を求めるのはおかしいが、生命力と完治に向かう希望があるのがあちらだとすれば、こちらは取りあえず死にたくないと言う貪欲さがあるだけだ。
ここは効率だけを考えた必要最低限の診察と治療、そして薬の処方が機械的に行われているようだ。
ジークフリードの診療所が小さくて、その割に人員がいるのに常に忙しいのは限られた時間の中で出来るだけ患者に寄り添おうとしているからだ。だからこそ、患者か多く来て待ち時間が長くなる。
でも、ここは機械的だからこそ多くの患者をさっさと裁けている。待ち時間もさほど長くなく、そうなると自然と患者層は時間に余裕のない貧民層になる。
大きな町に診療所が幾つかあるとジークフリードの診療所か、ここかにパターンが分けられる。中間としては金払いに応じて診察を丁寧にするかぱぱっと終わらせるかだ。小さな町や村では診療所は一軒しかないこともあるが、その場合は人数も少ないので自然と密な診察になる。
これが、レイが旅した中で見て来た診療所に対する分け方だ。
明らかに健常者の足取りで若い娘が入って来て受付の人間に一瞬警戒されたが、レイが丁寧に自分が魔法陣を描きに来たことと、ジークフリードから預かったこの診療所からの依頼状を渡して一応の警戒はとけた。けれど、今度は見た目で侮られているらしい。胡乱げな視線を感じたが敵意はないようなので無視する。
淡々と自分のなすべきことを手順通りに始めて終わらせる。陣はきちんと作用して胡乱げな視線は払拭された。
ここでの仕事が終わるとレイは次へ、また次へと向かった。
ほぼ二極化された診療所巡りが終わる頃には町外れまで来ていた。ここにある最後の診療所は二極化が診療所内で起こっているらしい。穏健な所長は患者に寄り添おうとし、その息子の副所長は効率よく診察して回転率を良くて医師の負担も減らそうとしているようだった。
今は患者の多さから後者の意見が強いらしく、この間まで行っていた訪問診察を今は中止しているという噂話が耳に入って来た。
ここでも淡々と自分の作業を終えて回るべき診療所を全て回った。丸一日をかけて回ったとはいえ、帰りは帰るために歩く以外にすることはないので日が落ちる前にはジークフリードの診療所に戻れる。それもこれも離れているとはいえ比較的近場の診療所を回っているからだ。
昨日初めてたった噂がすぐに全体に広がるわけがない。平素の人通りでもすぐに全体に広がりはしないのに外出が少なくなっている今なら尚更だ。今回の依頼は噂がすぐに広がる近場の診療所からしか来ていない。
帰る旨を告げて診療所の外に出ると、コソコソとした視線を感じた。
(釣れたかな)
ここで釣れていればレイは自身の目的を果たせる。
視線に気付かないふりをして、いつもよりゆっくりと歩みを進める。そうすると同じように自分の後をついてくるかすかな足音。歩数と一歩一歩の間隔、足音からまだ幼い子供だと見当をつける。
何かを狙っているような貪欲な感情が感じられて自然とレイは微かな笑みが浮かべた。
不意に道を曲がると子供らしい単純さでレイを見失わないように子供がレイを追いかけて走った。
「なんっ」
「君、どうかしたの?」
医者のところから出て来たってことは薬を貰ってるってことだ。スリをするのは初めてだけど、こうでもしないと母さんが死んでしまう。
近所の往診のついでに診に来てくれた先生が来なくなって、母さんは医者に診てもらおうとしなくなった。日に日に衰弱していくことが分かるのに、母さんは困ったように笑うだけだ。薬だってお金が掛かるからと僕に買わせようとしない。それ以前に、もう買うようなお金は残っていない。
「言っておくけど、私は患者でも患者の身内でもないから、あの診療所で薬は貰ってないよ。医者や薬師でもない。私は他の診療所に派遣された、ただのお手伝い。スられて困るものを何も持ってない」
角を曲がったはずの女が背後から淡々と、そう話しかけて来た。僕が何も言えないでいると、
「だから、これを君にあげよう。流行病の特効薬か、それとも死に至る毒か。試すも試さないも君次第」
女は無表情に首に下げていた細い鎖から小瓶を引き千切って差し出した。
「取るか?取らないか?」
突きつけられた選択に僕は反射的にその小瓶を取った。奪い返されないように退路を求めて視線を他に巡らしながら、小瓶を抱え込むように少し後ずさると、
「貪欲に、求め縋る人間は嫌いじゃないよ」
初めて、笑うような雰囲気があって顔をあげた。見失ったときと同じように女の姿はどこにもなかった。
角を曲がって、闇と光を魔法で操作する。自分の姿を見えなくして追いかけてきていた子供の足が思いがけない事態に留まった瞬間、魔法を解いて背後から話しかけた。混乱している子供に一気に情報を与えて、選択を突きつけて、それでも子供は逃げずに小瓶を取った。
それを見届けると闇と光を魔法で操作して自分の姿を子供から消した。
混乱している様子の子供が気を取り直し、どこかへ向かって走り出す。
その手に、大事そうに小瓶を持ちながら。
それを見届けて、レイは再び帰路を歩きだした。