128:失われた記憶
「マリアが、実の両親を忘れていることに気付いたのはあの子が正気を取り戻してすぐのことだった」
ジークフリードは目を伏せながら、レイの顔を見ることなく淡々とその事実を口にした。
「とうさん、かあさん、さすがに苦しいよ」
抱きしめられた状態にマリが耐えられなくなったのか、絞り出すように言った。
セリナはまだボロボロと泣いていたがだいぶ落ち着いているようで、そっと腕に込めた力を緩めた。
ジークフリードもそれにならい、次いでマリの頭をワシワシと撫でた。
「・・・なに?」
「なんでも」
マリの意味が分からない、という問いかけにジークフリードは飄々とした返事をしながら、撫でる手を止めない。
「おかぁさん?」
幼子の高くか細い声で紡がれた言葉に、ジークフリードもセリナも凍りついた。
セリナは流れていた涙がとまり、零れそうなほど目を見開いて声の主であるマリアを見つめた。
「おかぁさん、なきやんだ」
ニコッと嬉しそうに笑ってそう言った。
「・・・マリア?ぼくのかあさんは、マリアのモガッ」
ジークフリードは余計なことを言いそうなマリの口を塞ぐ。じたばたとその手を外そうと暴れるが、そこは大人の男と幼児の力の差でその手はビクともしない。鼻までは塞いでないので大丈夫だ。
「おとぉさん、いいの?」
またアワアワと心配そうにマリとジークフリードを交互に見ながら口にされた言葉に、ジークフリードは穏やかに笑って、
「心配ないよ、マリア。これはマリに対するお父さんの愛情表現だ」
と答えた。
「なかよし?」
「仲良しだよ」
するとマリアは嬉しそうにニッコリと笑った。
引きはがすように力を込めていたマリの小さな手の力が抜け、次いでまた、今度は引きはがすためではない力が視線とともに込められる。気付きながらもジークフリードは穏やかに笑うことしかしなかった。
いや、出来なかった。
心を守るために忘れた記憶を、伝えることは出来ない。
抜け殻のような姿に逆戻りさせるわけにはいかない。
「でも、かわいいマリアに対する父さんの愛情表現はこうだっ」
そう言ってマリアを高い高いした。
一瞬ビックリした顔をして、次の瞬間には楽しそうに綻ぶような笑顔を見せる。
その日マリアは、ジークフリードとセリナの娘になった。
「両親にも兄達を知る旧知の人達にも事情を話して兄達のことを口止めした。この近所の人達は当時は越したばかりで深い事情を知らないからマリアは本当に僕らの娘だと思ってる。マリは、朧げながらマリアが妹ではないと覚えているけど、2歳の頃の記憶なんてはっきりしないからね。ずっとはぐらかしてる。・・・でも、時々思う。このままマリアに実の両親の記憶がなくていいのか、って。マリアは2人に愛されていたし、マリアも愛していた。成長したいま、その事実を僕達の一存でずっと隠し続けて良いのかと」
そう言ったあと、自嘲気味に、
「マリアに実の両親のことを思い出して欲しくはない。そう思っているのに、マリアが実の両親のことを思い出さないことに悔しさを覚える。怒り、と言い換えられる悔しさだ。理不尽だよね。始めたのは僕なのに」
と口にした。
「大切で、好きだったんですね。同情が怒りに変わってしまうくらい。始めたことを、後悔してしまうくらい」
レイはようやく口を開いた。朝日がそろそろ昇ってくる。窓の外にはうっすらと白み始めた雲がある。
「・・・愛されていたんだ。そして、愛していたんだ。兄さんもマリナもマリアもお互いがお互いを。だから、悔しい。忘れることしか出来なかったマリアが、忘れさせることしか出来なかった自分が。大切な、優しい記憶だったのに」
その言葉を聞いてレイは、コクリとカップの中の僅かな中身を全て飲み干した。
「マリアに、真実を告げる気はありますか?」
「もしも、思い出すのなら。・・・なんだか、レイちゃんに話して楽になった気がする」
「マリアのこと愛していますか?」
唐突な確認に、
「もちろん、愛しているよ。マリアを本当の娘のように、マリのように」
と、間髪を入れずに答える。
「でしたら、大丈夫です。マリアが何を思い出しても、何を知っても、親のように支えて見守って抱きしめる先生とセリナさんがいれば、きっと何とかなりますよ」
静かに、けれどあっけらかんと放たれたレイの言葉に、
「・・・意外と、楽観的な考え方なんだね。昨日のことや、マリとマリアの話からは理知的な印象を持っていたんだけど」
と、少し目を見開いて呟くと、
「人の心のありようで、物事は大きく変わります。家族であればなおさらです。確かに未来のことは誰にも分かりません。でも、既に起こっていることであれば原因があり、結果があります。ただ未来を語るか、過去や現在を踏まえた上で語るかで考え方が変わるのは仕方のない事ですよ」
と、とても理知的な答えを小さな笑みとともに返された。
(・・・不安定な子だな。いや、不安定というよりも掴み所がないのか)
ジークフリードがそう思ったときだった。その心情を見透かすかのようにレイが笑みを深めた。
「カップ、洗いますね」
そう言って差し出された手に一瞬呆けたあと、目の前のカップを礼を言いながら手渡した。