125:かなわぬ未来
その日のうちにダリアードの手配で、新居購入時に新調した家具と細々とした荷物が彼の社員によって運び込まれ、夕方になる頃には今日からここに住める、という環境にまでなった。
「本格的な転居は3日後だが、泊まってみたらどうだ?親父達とお義父さん達も。客室は3つ作ってるから」
ここには食材がないのに無茶を言っているダリアードだが、自分の設計した家に身内が住むと言う長年の夢が叶って嬉しそうな笑顔に、ジークフリードはその提案を受け入れた。
(というか、やっぱり身内全員が泊まれるようにの客室数だったんだな)
軽い苦笑を禁じ得ないが、すぐにそれを噛み殺して、
「兄さん達は泊まるの?」
と問うと、
「そうしたいのは山々だが、いったん家へ帰らないと明日には2日分の書類の山が待ってるんだ。いや、必要経費まで削ってくる老舗を飛び出したことに後悔は無いんだが、会社を立ち上げるとここまで書類申請が多いのか、ってちょっと憂鬱だ。さいわい今回の仕事で初期投資という名の借金は全部完済したがな。評判よくて次の仕事もどんどん来てるし」
忙しさは嬉しい悲鳴なのだろう。悲鳴を上げたいほど大変なことに違いは無いが。
「充実してるようで何より。まだ2才の娘が居るのに博打に出た兄さんに一瞬頭がおかしくなったのかと思った弟を許して。住宅群の設計依頼が個人指名であって、しかも結構前から考えて計画してたって知らなかったから」
「おう、マリナ以外に言ったことなかったからな」
剛胆に笑うダリアードにジークフリードは兄が自分の考えを本当に許してくれていることを知る。むしろ気にさえしていないだろう。
「もし失敗したらお前にマリアを託して借金生活してたな。ジークは、安定感抜群だし。一番安心してマリアを任せられる」
「はいはい。兄さんがこけて借金作ったら、妻子の面倒は引き受けるよ」
リビングのソファに腰掛けてキッチンに行っている女性陣と子供陣抜きで、あっけらかんと思い話を口にする兄とまるっと受け止める弟がそんな会話交わしていると、
「あら、私の面倒は必要ないわ。夫が大変な時に支えられない妻なんて私の中では妻たる価値がないんだもの。その前に、こけさせないようにするのが妻の役目ね」
ニコニコと笑いながらやって来たのはマリナだ。
「あなた、そろそろ帰らないと明日に響くわよ。ああ、そう。食材は家具の搬入手伝ってくれた人達に差し入れた料理が余ってるから夕食の心配はしなくて大丈夫よ」
万事に抜かりのない対応。“夫をこけさせない”妻の役目を完璧に果たしているマリナの言葉に嘘はなかった。
「そうだな。じゃ、俺たちはそろそろ帰るよ。マーリアー!」
ダリアードがマリアに聞こえるようにその名を呼ぶと、
「うー」
返事をして、トコトコと可愛らしく駆け寄って来たマリアを破顔した顔で軽々と片手で抱き上げる。
「もう帰るの?」
「・・・」
続いて現れたのはちょっとつまらなそうな顔をして口をとがらせるセリナと、何も言わないが少し不機嫌そうな顔をしたマリだった。
「マリアだけ置いていかない?マリがもっとマリアと遊んでいたいみたいだし」
「いかない。虫はさっさと払っとかないと」
ダリアードはキッパリと遠回しにマリが“虫”だと宣言した。
「人の息子を虫扱いしないでちょうだい。虫は良いわよ、花の花粉を運んで次の世代を残す手伝いをしてくれるんだから」
「虫なんて俺の花にとまらなくていい!」
「親バカね。そうしたらただ萎れて最終的には枯れていくだけじゃない」
ダリアードとセリナの応酬にマリナはコロコロと笑い、ジークフリードはセリナを止め、爺婆達は、
「マリアは行き遅れるかしら?」
「平気だと思ぞ。将来鬱陶しがられる父親そのものだ」
「良い男が自分からよってくる美人に育つに決まってるわ」
「結婚を認めるのに父親がごねそうだがな」
合理主義者のくせに暑苦しい難儀で面倒な性格の(義)息子に孫娘のマリアが出来るだけ悩まないように、そんな日が来た時には協力してやろう、と口に出さずに思った。
「じゃあ、また明日。今日中に全部の書類仕上げておくから明日はサイン地獄だ」
「書類仕事が苦手な兄さんと違って、こっちはほぼ毎日カルテ書いてるから地獄ってほどでもないよ」
「嫌みな弟だ」
「マリア、マリともっと遊んでいく?」
セリナの言葉に少し心惹かれた様子を察知して親バカはマリアを抱き上げると、
「マリナ、もう帰らないと積み上げられた書類の山が雪崩を起こして、パパが困ってしまう」
と愛娘が誘惑に負ける前に慌てていった。
「そうね。ほら、マリアンヌ一緒に“さようなら”って」
「さおーなら」
可愛らしくマリ個人に手を振るマリアにマリも一生懸命に手を振り返す。
オレンジ色に染まった空の下で手を振るマリアを片手で抱き上げ、もう一方の手でマリナと手をつなぐダリアード。仲の良さを見せつける兄夫婦に対して何となく気恥ずかしさを感じつつも、この光景に小さな子供がもう1人増えてマリアが姉になるのはそう遠くない未来かもしれないと思っていた。
でもそれは、儚い夢想で終わった。