リヒトの描く未来
うららかな冬の午後、うっすらと木漏れ日が地面に降り注いでいる。冬と言っても、南領の冬はそれほど寒くはならない。
私は、読みかけの本の頁をめくった。側に誰一人寄せ付けないよう、予め申し伝えているので一人きりの時間を楽しむ。
今は政務の合間の小休憩だ。誰にも邪魔されることなく、庭の東屋で寛いでいる。
もうしばらくすれば、直に側近が呼びに来るだろう。午後からはまた忙しく立ち働かなければならない。
私の名は、リヒトと言う。南領の領主の長子として誕生し、その瞬間から、私の生き方は決まった。
初代と同じ、豹の獣頭を持って生まれる者は領主家でも稀だ。私は実に数百年ぶりに誕生した、豹頭の獣人であり、次代の領主として南領を治めるべく育てられた。
誰もそれを疑わなかったし、私自身、そうだ。領主として、相応しい人物になること。それが私の目標であり、生きる道であった。
だが、時々思う。もし、あの時、彼女とともに行くことを選んでいたら…と。
共に過ごした時間はほんの僅かでしかない。しかも、別れてからかなり経つと言うのに、相も変わらず、彼女は私の心をざわめかせる。
つい先日のことだ。父親から引き継ぐ予定の領主としての政務を、当の本人から伝授されている際、頭の中に突然、彼女の声が響いた。
《誰か、助けて!お願い、私に力を貸して!》
机の上に広げられた書面を目で追っていた私は、はっとして顔を上げる。
それから、きょろきょろと室内を見渡した。声の主の姿を探すが、当然、ここにいるはずもない。
彼女は、とうの昔に自分がいるべき場所へと戻ったのだから。
けれども、まるで脳裏に直接、声が届けられたかのような既視感を覚えて落ち着かなかった。
もしや、彼女の身に何事か起こったのだろうか?胸騒ぎがする。
「お前にも聞こえたか?」
真正面へと座る、父親が問うた。
「まさか、父上にも聞こえたのですか?」
「ああ。女性の、いや少女の声で助けてと言っていたな。どこの誰なのだろうか。聞いたことのない声であったが…」
「神殿の巫女姫であられるナツキ様の声でした。父上はお会いしたことがありませんでしょう」
「ふむ。そうか。何かしらのトラブルに巻き込まれ、無意識に祈ったのだろう。光魔法の使い手には、共鳴と言う能力があると聞いたことがある」
「光魔法ですか?」
その能力を持つ者の数は決して多くない。極めて特殊な才能と言われている。
「だが、案ずることはあるまい。神殿の巫女が護衛もなしに出歩くはずもない。何かしらあったのだろうが、おそらく救助されているはずだ」
「それはそうでしょうが…」
そう聞いても、私は落ち着かなかった。
「気になるようなら、神殿に問い合わせてみるか?」
「そうして頂けますか?」
まだ、正式な代替わりが行われた訳ではないので、神殿へと直接繋がる魔道具の通信器は領主しか使えない。
魔法による念話と言う方法は、距離が遠いと届かないのだ。
父親は苦笑しつつも、私の願いを叶えてくれた。
しばらくしてから戻った父親の顔は、曇っていた。
「やはり、何事か起きたのですか?」
心臓がドクンと一つ、早鐘のような音を立てた。
「いや、詳しいことは何も分からないのだそうだ。巫女姫は何かしらの調査のために騎士を連れて神殿の外へと出ていて、そこで危難に遭われたらしい。
神殿でも事情が分からず、パニックとなっているそうだ。
ヒルダ様が騎士団を派遣して、現地で確認を行うように指示されたとか。
私も、ヒルダ様に直接話を聞けたのではなく、側近のピアレット殿から伺った限りではヒルダ様がかなり取り乱していらっしゃるらしい」
「あのヒルダ様がですか?」
俄には信じがたい。あの方は女神の如く、輝かしいばかりに美しいだけではなく、聡明で思慮深い。
取り乱す姿など思いもつかない。
「それだけ巫女姫のことを愛しく思われているのだろう。代々の巫女姫方とは違って、随分と破天荒なお方らしいから」
「破天荒とは言い過ぎではありませんか?突拍子もないことを仕出かす方だとは思いますが」
ん?破天荒と大して変わりはないか?
「はっはっは!お前の口からそのようなことが聞けるとはな。巫女姫と出会ったことでお前の中に迷いが生じたようだが、あながち間違いではなかったようだ」
「なっ!」
「それ、その顔よ。お前は初代と同じ豹の獣人として生まれた故に常に完璧を求められた。また、お前はそれによく答えてくれた。
それは良いのだ。領主たらんもの、人より努力して当然だからな。だが、完璧にあらねばと行動するうちにお前からは表情と言うものがすっぽりと抜け落ちてしまった」
私にも責任の一端があるのだがな、そう言って父親は自嘲するように笑った。
「最初の妻であった、お前の母親が早くに亡くなって、私は全てがどうでもよくなったのだ」
両親は随分と身分に差があった。決して名家の出とは言えない母親を父親が望んで迎え入れたのだが、婚姻生活は長くは続かなかった。
短いながら、心から愛し合う夫婦であったそうだ。これは母親の乳姉妹であった乳母から聞いた話だ。
私には母親の顔も、その温もりも記憶にはない。
「その後、次々と云われるままに有力者から妻を娶り、子も儲けた。そして、お前を顧みることもなかった」
すまなかったと、父親が息子である自分に頭を下げる。
「ち、父上!」
私は狼狽した。父として、領主として尊敬したきた人が自分から頭を下げたのだ。
「お止めください。そんなことをされては周りに示しがつきません」
「ん?周り?この部屋には我ら二人しかおらんぞ?」
そうなのだ。常に傍らにあった父親の双翼であった獅子族の族長と翼人の族長はともに座を退いた。それだけでなく、自身が統治する部族の長の座もまた退いた。
それは数ヶ月前に起きた獣人と翼人とのいさかいの責任をとるためだ。当時、領主は二人を連れて聖領で行われる領主会議に出席しており留守だった。
いなかったのだからと言う言い訳は盗用しない。それは領主も同罪だ。同じ様に、父親もまた、領主の座を退く。
「お前には悪いと思っている。急に領主を引き継げなど、戸惑うことも多かろう。
不満があれば、言ってもいいのだぞ?」
「不満など、ありません。次期が少々早まっただけで、私には心構えがありましたから」
「そうか…」
こんな風に父親と二人で話をするなど、いつ以来だろうか。思い出すのも困難なくらいだ。
常に傍らに誰かがおり、私自身、父親としてではなく領主として接した。
父親は、私が変わったと言った。そうだとしたら、おそらくそれは彼女に出会ったからであろう。こんな風に優しい時間を過ごせるのも彼女のお陰なのかもしれない。
だからこそ、彼女の安否が気遣われた。
またしても表情に出ていたのだろうか、父親が困ったように私を見た。
「心配はいらないだろうが、時間を改めて神殿に問い合わせてみよう」
「―恐れ入ります」
結果、彼女は無事だった。ほっと安堵する。
と同時に、一瞬とは言え、彼女を危険な目に合わせた神殿の騎士達に怒りが覚える。
あの狼面の、すました男。さも当然のような顔をして、ナツキの傍らにあった。
あれの存在は最初から気に食わなかった。
「今度、彼女を危険な目に遭わせたら、私が聖領まで奪いに行くぞ」
ギリギリと歯を鳴らした。
それが二日前のことだ。無事、神殿に戻ったナツキから、早速、お礼の手紙が届いた。それには心配をかけてごめんなさいと書かれていた。
「は?湖水竜だと?一体、何をやっているのだ」
南領の砂漠地帯に棲む火竜のみならず、湖水竜と友達になったと、そこには書き記してあった。
次から次へと驚くことをやってのける当代の巫女姫に頭を抱えた。
「全く、君のような人間に付き合っていられるのは、あいつらぐらいのものだ」
私には到底無理だ。少しばかり、守護騎士である彼らに同情めいたものを覚える。
「…楽しいのだろうな。だが、私にはそれよりも南領をいかに良くしていくか考える方が性に合っている」
冒険をしたくない訳ではないが、こんな風に忙しくとも、束の間、静かに過ごせる毎日でいい。
「湖水竜か…。それよりも火竜殿にご挨拶する方が先か」
リヒトは本の頁を閉じた。
そのタイミングで側近の一人がこちらへと慌てたようにやって来た。
「リヒト様、シルヴァ様がお越しですが、いかがいたしましょう?」
「なに?シルヴァが?珍しいな。すぐにここへ連れてこい」
呼びに行かせると、すぐにシルヴァがやって来た。相変わらず、動作そのものが大袈裟で存在自体やかましい男だ。
「リヒト!昨日、助けを乞う巫女姫の声が聞こえたのだが、何か知っているか?」
バサバサと翼を揺らすのは止めて欲しい。羽毛が飛ぶ。
「…ああ、お前も聞いたのか。どうやら、魔力が強い者に聞こえたようだな」
「何を落ち着き払っている!俺はすぐにでも聖領へ向かうべく、万全の準備をして来たと言うのに!」
ダンと拳を机の上へと叩き付ける。
私とシルヴァは公式では主従の間柄だが、私生活においては幼馴染みだ。遠慮がない。
「準備とは何だ?まさか、聖領に兵でも向かわせるつもりか?」
「おうよ!我らの翼をもってすれば、あっという間だ」
「馬鹿か!聖領に兵など派遣したら、反逆者だと討たれるぞ!」
「むっ、それもそうか…」
短慮だ。あまりにも短慮過ぎる。
「それにナツキ様は無事だ」
「そうなのか!無事であるならよいが、巫女姫には色々と世話になったからな。窮地にあるようなら、お救いせねばと勇んできたのだが、無駄だったか。まあ、無事ならば何よりだ」
そう言って、真正面へと座った。
側近がお茶を運んできた。
「父上は?」
この後、ともに政務を行う予定だった。
「ご友人が訪ねて来られたのだから、午後からの政務は休みでよいと」
「そうか…」
「ん?お前も大変だな!次期領主として覚えることがたくさんあるだろう」
ずっと器のお茶を一息で飲む。かなり熱いのだが、翼人の舌はどうなっているのだ。
「それほどでもない。これまで学んできたことだ。今は引き継ぎや互いにすり合わせを行っている所だ」
「ふうん、そうか」
「お前こそ、どうなのだ?族長を引き継いだ感想は?」
「俺か?俺は順調だ。至らぬところは兄上が指摘してくれるしな!」
お前、それは順調とは言わんだろう。
「頼れる兄上がいて羨ましいことだ」
「はは!そうだろう、羨ましかろう」
嫌味が通じない。頭の中まで筋肉の相手だ。仕方なかろう。
「おい、俺は近いうちにエルリックの奴に会いに行こうと思うが、お前はどうする?」
「…私は止めておこう。まだ、時期ではない」
「まあな。あいつもまだ、心の整理がついてないだろうからな」
ずっと三人でこの領地を守っていくはずだった。それが何故、こうなったのか。あいつの心の奥底にある、わだかまりや不安に気付いてやれなかった私が至らなかったせいか。
「止せ。お前のせいではない」
こいつは、脳筋のくせに妙な所で聡い。
「あいつの弱さ…とは言わないが、周囲の期待が大きすぎて、それに押し潰されてしまっただけだ。俺だって、カナフ兄上の足元にも及ばないが、それを悪いとは思わない。
あいつも自分と比べるのではなく、目標にすれば良かったのだ」
楽天家め。私にはやはり、お前のような者が側に必要だ。しかし、その言葉は呑み込んだ。
「あ、それからな。エルリックに報告に行った後のことだが」
「報告?何だ。結婚の報告でもするのか?」
「それはまだ先のことだ。相手が幾つだと思っているのだ?」
シルヴァの許嫁は私の妹で、まだ十歳である。むろん、からかっただけだ。
「報告と言うのはな。俺は、お前の側近に戻るつもりだ」
「馬鹿を言うな。族長の務めはどうする!」
「親父にだってやれていたことだ。何を今さら」
「昔とは違うだろう。領内のごたごたとて、完全に治まったとは言えん状況だぞ?」
調和の鐘のお陰で獣人と翼人の間は、随分と穏やかにはなった。けれど、長年の恨みはなかなか消えるものではない。
「お前はまず、自分の部族のことを第一に考えるべきだ」
「考えたさ。それがこの答えだ。俺は、この先もお前と共に南領をよくしていきたい」
「なっ!勝手なことを言うな」
「リヒトよ。南領はよい所だな」
「それは…」
「俺は今回のことで学んだのだ。種族の違いなど、本当に些細なものだと。
巫女姫を見よ。側にあるのは、あらゆる種族であったではないか!皆、仲良く寄り添い合っていた。
俺はそんな世の中をお前と作りたい。そして、いつの日か、そんな光景をエルリックの奴にも見せてやりたいのだ」
「シルヴァ。お前は…」
全く、脳筋のくせに。私が目指すべき方向をお前に指摘されるとはな!
「良かろう。ともに作ろうではないか」
「おうっ!」
私達は固い握手を交わした。その道のりは遠くとも、きっと辿り着けると信じよう。
私はその夜、そうした決意をナツキへと手紙に書いた。彼女は何と言って、返事を寄越すだろうかと想像しながら。
「私も、諦めないでもいいのだろうか」
シルヴァが族長の座につきながら、私の側近として傍らにあることを望んだように。
私もまた、南領の領主でありながら、巫女姫の夫となることを望んでもいいのだろか。
きっと、彼女は困った顔をするだろう。今さら何だと怒り出すかも知れない。
それにあの狼も焦って、おたつくだろう。
それを考えると少し、いや、大いに楽しい。
私はそうしたことを思い描きながら、手紙を綴る。
父上も仰ってではないか、私は完璧であろうとし過ぎると。
これはちょっとした反抗だ。
どう転ぼうとも構わない。私のこれからは、この先に無限に広がっているのだから。