トールの独り言
憧れていた聖領で暮らすようになって、早一ヶ月。ここでの暮らしを謳歌している。
「トール先生、さようなら」
「はい。さようなら」
私はそれに手を振って答える。
ここは職業訓練所と呼ばれる施設だ。
何でもナツキ様が尽力して立ち上げた、子持ちの未亡人や働きたい、手に職をつけたいと切望する人達のための施設なのだそうだ。
私はここで先生をしている。
ここで獣人と言えば、荒事を処理する傭兵などが多くて、私のように学問をする者は珍しい。
「先生、またね!」
うら若い少女達から、こっそり流し目をいただく。
手に職をつけたいのは、なにも夫を亡くした未亡人ばかりではない。
家が貧しくて、家計を支えるために技術を学ぼうとする少女も大勢いる。ただ、彼女達は出来れば結婚したいと思っていて、私のような獣人も対象となるらしい。
ナツキ様に相談したら、
「そりゃ、あんたは有望株だもの。出来れば、旦那さんにしたいでしょうよ」
「?」
疑問を浮かべると、
「学問するのにはお金がかかるでしょう?あんたはお金持ちだと思われて当然でしょ」
納得した。
確かに私はお金に困ったことはない。けれど、それは祖父や父のお金だ。私のものではない。
「そんなの関係ないんじゃない?実際のところ、あんたには教養もあるし、自分で稼いでいるんだから」
そう言われても、素直に喜べない。
私は一族の中でも変わり者で、言うなれば鼻つまみ者であったのだから。
祖父が東領の領主の側近となったことから、ただの地方の田舎者が、中央で一目置かれる存在となった。
長男であった父も優秀で、よく祖父を助けたと言う。父の他に大勢いる兄妹達は一番下のオーリを除けば、娘ばかりでこれは早々に嫁に出された。
オーリ叔父は次代の領主であるレキ様の側近となった。
私には兄がいる。この兄も側近としてではないがレキ様の側で仕えている。
弟妹達もそれぞれに巣だって行ったと言うのに、私は屋敷に燻っていた。
好きな学問をしたいと言うのは、本当だ。
けれど、自分には叔父や兄のように領主家に仕えるのは無理だと諦めた結果と言えなくもない。
明晰な頭脳も判断力も自分には備わらなかった。決して卑下する訳ではないが、私にはこの家に生まれたこと自体が窮屈でしかなかった。
「え?私に巫女様方の案内役を?」
祖父は現役を引退したのち、故郷であるムスカの町長となった。
私は祖父に部屋へと呼び出され、そう告げられた。
「うむ。やはり、若様では十分な案内が出来ないだろうと思ってな。あの方は都とその周辺以外、それほど詳しくはあるまい。長い間、別邸でお暮らしだった故な」
それほど詳細を知る訳ではないが、直系であるラベル様ではなく、叔父であるレキ様が領主を継いだ。そのせいでラベル様は厭世を余儀なくされたとか。
「巫女様のことはここだけの、極秘事項だ。お前も洩らすのではないぞ?」
「それはもちろんです!」
私は内心震え上がる。
聖領に鎮座されるヒルダ様と並び称される、異界からの巫女は、言うなれば、この世界を創造された神の末裔。
決して疎かにしてはならない、至高の存在だ。
そんな相手に、私のようなものが…。
「お前は自分が兄と比べて劣っていると思っているようだが、そんなことはない。人にはそれぞれ役割があるのだ。今回の件は、それを知る良い機会となるだろう」
「…はい」
祖父はそう言うが、私には信じられなかった。
この私にも、定められた役割がある。
今なら、それが何だったのか分かる。
私は教師と言う役割を心から感謝している。
週に一度、養護院に出向いてそこでも授業を行っていた。生徒は神官見習いの少女達だ。
彼女らは総じて聡明で、学問への取り組みかたも熱心だ。
私にとって、よい生徒であると言える。
ただ一つ、難点と言えば…。
「ひわっ!」
いきなりしっぽを掴まれ、跳び上がる。
振り返らないでも分かる。
「…ナツキ様」
はふうっ。私は涙目で抗議する。
「いやー。つい、ごめんね!」
巫女様であると知っていたので、しっぽを掴まれても何も言わなかった経緯から、ナツキ様は遠慮なく私の尾を掴む。
しっぽは、その人にとって大切な人しか触っては駄目なのだと説明され、理解されたらしく、「分かった」と、仰られたのは何だったのか。
「トールのしっぽは触り心地が良くって、目の前にあると誘惑に抗えないのよ」
確かに私の尾は弾力に富んで、まるでボンボンのようだ。とは、ナツキ様の談。
「…駄目ですよ?」
「分かってるわよ」
キリリと真剣に返された。
でも、次に会えば、また繰り返されるのだ。
はあっとため息。
ただ、私もいけないのだ。
頻繁なスキンシップ?に慣れてしまったのか、それを心待ちにしている部分がある、こともない。
慣れとは恐ろしい。
多分、私が大事な人を見つけるか、ナツキ様に大事な人が出来るまで、この攻防は終わらないだろうなと思う。
おおむね、私の居場所は居心地が良い。
それが何よりだ。