31章 最終日~別れ
長めです。
「今日は学指揮があるよ。咲希も出る?」
「出ます」
だいぶ慣れてきたので、迷いはなかった。
「……そうだね。じゃあ、この間みたいに用意していてね」
中村さんは少し考えて言った。
「咲希……ここは、好き?」
突然の質問に驚いたが、笑顔で答えた。
「はい、大好きです。私はたしかに記憶を失ってしまいましたが……でも、ここで過ごしていると、皆さんの優しさに触れることができました。そして、私の存在を知らない人が多いにもかかわらず、私は誰のことも覚えていないにも関わらず、ここにいると、楽しかったんです。もう少し、楽しいひとときを過ごしたいんです」
「……」
中村さんは、黙り込んだ。
「……中村さん?」
「……え?……ああ、ごめん。考え事をしていただけだよ」
「そうですか……でも中村さん、考え事をしだすといつ何にぶつかるか分かりませんからね?」
「うん、そうだね……気をつける。ありがとう」
そう言ってはいたものの、中村さんはずっと上の空だった。だから、中村さんが物にぶつかりそうになることが多く、私はその度に注意しなければならなかった。
……そんなこんなで、ようやく学校にたどり着いた。
ミーティング、パート練、お昼、と時間は過ぎていった。そして、もうすぐチューニングだ。音楽室にきた私は、いつもの椅子に座った。前に座っているのは中村さんだ。中村さんはケースのないスマホで時間を見る。
『目で見えるんじゃないの。頭の中にイメージが浮かぶんだよ。それが、私の手で触れたものであればね』
昨日中村さんが言っていた言葉が蘇る。
聞き慣れたアラームが鳴る。中村さんが手を叩いた。
「チューニングします!」
「はい!」
いつも通りにチューニングが始まる。そして、変わったこともなく終わる。基礎練習も順調に進んでいた。
「じゃあ今日はね、ハーモニーをやるよ!」
「はい!」
「じゃあね、Cのハーモニーをやります!」
「はい!」
その時、髙橋さんが口を挟んだ。
「なんでCのハーモニーなの?」
「え?だって今やってる曲はCdurでしょ?」
「あ、そっか」
色々とついていけない会話だったが、やるべきことは分かっていた。
Cのハーモニーのときは、Cの音、つまり、この楽器ではラの音を吹けばいいと言われていた。
「じゃあ、いくよ!」
いち、に、と中村さんが指揮を振る。
中村さんの目と私の目が合った気がした。
『ねぇ、咲希は、どのハーモニーが好き?』
Cのハーモニーが鳴り響く。
『私は……Cの和音が好きです』
『なんで?』
『なんというか……どこまでも暖かく包み込む太陽の光みたいで、なのに月みたいにはっきりとして冷たそうな光みたいでもあって、神々しいっていうのはこんな感じかなって思って……』
この和音は……
急に窓が開き、カーテンも揺らめいて開いた。私の足元が光り、そこから霧でできた道が遥か彼方の空遠くまで伸びていく。その瞬間、全てのものが、輝いて見えた。
私は辺りを見回して、そして霧の道を見た。
状況が飲み込めないまま、楽器を置く。
もう一度、霧の道を見る。
そして、ふいに理解した。
ああ、この時が来てしまったのだ。
私がここを去る時が。
「……咲希?」
「……ほんとだ、咲希だ!」
お守りを持っているわけでもないのに、私の姿が見えるのだろうか。周りの人々が、口々に私を呼ぶ声が聞こえ、私は思わず振り返った。
「あっ」
そこにいる人達は、もはや知らない人ではなかった。
「……そうだ、思い出した……!」
私は内川咲希。吹奏楽部員で、高校1年生。担当楽器はバリトンサックスで、先週の土曜日の夜、私はこの世の人ではなくなった。
私はもう、生きていない。
そうだ。私は吹奏楽部の先輩方や、同期の人達に、お別れを言いに来たんだ。自らの記憶を犠牲にして。
「……皆さん」
私は口を開いた。
「私は皆さんに、お別れを言いに来ました」
音楽室はしんと静まり返っている。
「私は皆さんと出会えて、本当に幸せでした。本当にありがとうございました……さようなら」
私は深々と頭を下げた。そして、霧の道を振り返り、歩き出そうとした。
と、その時だった。
「咲希……本当に、行っちゃうの……?」
私は、思わず声の主を見た。
「ねえ……行かないでよ……」
「……楓……」
その瞬間、あちこちから声が溢れ出した。
行かないで、と泣きながら引き留めようとする人、もう少しここにいてよ、と訴える人……
本当に、行ってしまってもいいのだろうか?
行くべきなのは分かっている。
だけど……迷った。
今の私にとって、行くことは、逝くことと同じだった。
行かなきゃ……でも行きたくない……みんなと一緒にいたい……
嵐のように私の心の中で、様々な思い出が駆け巡った。
もちろんそれは、生前の記憶だけではない。
ここに迷い込んでからの記憶も、だった。
記憶を失ってもなお、私に優しく接してくださった人達。
たのしかった思い出は、ほとんどがこの人たちが一緒だった。ここから旅立ってしまったら、その思い出さえ消えてしまいそうで……
「咲希、迷っちゃだめ!」
「……あっこ先輩……!」
「咲希、よく考えて。うちらと咲希には大きな違いがあることを忘れてない?」
「大きな違い……生きているか、この世の人ではないか」
「そう。生きている人にはあって、死んでしまった人にはないもの。それは、なんだと思う?」
「私には、ないもの……」
「それは、未来」
……『未来』……!
「もし咲希がここに留まり続けたら……」
「それ以上、言わないでください……分かっています」
そう、数日前には、気づいていた。
(私にはない未来……)
そんな言葉がふと、思い浮かんできたのは、岸辺さんに初めて会った日だった。
生と死の大きな違い。それは未来の有無なのだと、その日に気付いていたのだ……!
これ以上悲しい現実を突きつけないで……!
そう私の心は叫んでいた。
私がここに留まり続けても、私には未来がない。永遠に、高校1年生だ。
でも、他の人達は?
例えば私の同期の人なら、もうすぐ進級して高校2年生になる。そして、やがてここを卒業し、社会人になり……
そんな中、私だけはずっと、高校1年生で時を止めて、永遠にここに留まり続けるのだ……
そう。たとえ私がここに留まり続けたとしても……辛く、悲しい現実しか残らない。
どちらにしても、残るのは悲しい現実だけ。
ならば……
私は再び霧の道を見て、そして、大切な人達を見回した。
そして、行かないで、と言ってくれた楓に、私は心の中で言った。
(私はいつか戻ってくるから、その日まで……さようなら。私は、ここにはもう、いられない……)
私は決意した。
「私はここにいられて、本当に幸せでした。ありがとうございました。そして、さようなら」
もう私に迷いはなかった。
私は霧の道を歩き始めた。誰かが私の名を呼んだけど、振り返らなかった。思い出深い音楽室を後にする。私は思い出に浸りながら、この道を歩いていた。
思い出というけど、それは全て過去のこと。思い出は宝物。たまに取り出して幸せに浸ればいい。でも、私がここにいて、生きていたときは、過去以上に、思い出以上に、「今」が幸せだったし、1番の宝物だった。その時その時が輝いていた。だから、私はもう、現世に心残りはない。私は旅立つ。死の国へと。いつか、また生まれ変わって、大切な人に出会えることを確信しているから。
C……ピアノでいうドのことです。ややこしい話なのですが、バリトンサックスの場合、この音はドではなくラになります。
Cdur……ハ長調のことです。
 




