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肉食系女子  作者: こめこ
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04

 悠斗君との電話を切ったあと、私は急いで本棚の奥に押し込まれていたアルバムを広げた。小学校、中学校、高校と美佳子と共に過ごした十二年間もの思い出だ。悠斗との同棲から飛び出した美佳子が逃げ込める場所はここくらいにしかない。

 まずは小学校のアルバムから手にとる。今よりも少し荒い画質の写真の中で、私と美佳子が並んでピースをしている。美佳子は何もかもを吹き飛ばすように歯を剥き出して笑って、私はそれにつられるようにしてひそやかに口角をあげている。

 さらにページをめくる。運動会での綱引きの写真。学習発表会での拙い劇。普段の授業中の様子をとらえた写真もあった。確かこのときは、教室にカメラマンが来て撮影するという非日常感も手伝って、私も隠れるように手を挙げていた。

 ページをめくる。写真の中の子どもたちはどんどん成長していく。身長が伸びただけでなく、いつの間にか瞳の奥には責任感が宿り、お姉さんお兄さんになっていた。美佳子は相変わらず子供のままだった。

 ページをめくる、たびに、否応なしに自分の中の目を背けていた部分が眼前に晒される。私が映っている写真には大抵美佳子も映り込んでいる。私はいつも美佳子を見ていた。

 私は美佳子が好きだった。誰よりも明るく快活な美佳子が、そんな彼女が持っている残虐な危うさが好きだったのだ。そしてそれを私以外の誰も知らないということも、私をより一層特別にしてくれているような気がしてうれしかった。

 小学校のアルバムの隣に、中学校のものを広げる。小学校の頃はどのページをめくっても必ず映り込んでいた美佳子の姿は、影に隠れるようにして見えなくなっていた。二、三枚は見つけることができたが、笑顔を浮かべている写真は一つもなかった。私の姿も、美佳子の写真の中にはない。当然だ。私が美佳子から逃げていたのだから。

 中学校時代、美佳子の異常性は周知の事実になった。そこで私はいじめられている彼女を助けようと、フツウを演じることを提案した。そう思っていた。

 けれど、アルバムをめくるたびにふつふつと湧き上がる思いが、それは綺麗事に過ぎなかったのだと突き付けてくる。

 結局私は、美佳子の異常を私一人の秘密にしたかったのだ。彼女の本当の姿を独り占めしたかったのだと思う。私だけが真の理解者であると思っていたかったのだ。

 綺麗な笑顔を浮かべるようになった美佳子が、高校のアルバムに映っている。次第に美佳子の顔が滲んでいったかと思うと、彼女の写真の上に水滴がこぼれた。

 ああ、醜い。私に、美佳子が異常だと断罪するような資格はなかった。私もフツウという言葉に縋っていただけの人間だった。

 美佳子が可哀想で、そう感じる自分が気持ち悪くて、もうなんだかよくわからない気持ちのまま涙は流れ続けた。ただ、彼女を連れ戻さなくては、という義務感だか罪悪感だかははっきりと私の中にあって、次の日から私はアルバムの中で見つけた思い出の地を卒論のことも大学のことも忘れて、ただただ駆け回った。小学校、グラウンド、小学生のころ訪れた動物園、よく遊んだ公園、近所の山……。思いつくままに回ったが、美佳子の姿も痕跡も何もなかった。

 もう美佳子との思い出の場所も思い浮かばない。目指す場所がなくなって私はやっと、他のことにも目を向けられるようになった。携帯電話には十数件の不在着信がたまっていて、応答のない私を心配するメールが何件も届いていた。そのメールを開いて、私はようやっと卒論の発表までもう一か月を切っているということを思い出した。

 美佳子が行方不明になって三週間後。私は現実へと引き戻された。


 今日も、ゼミ内での卒論の読み合わせがあった。クリスマスも近づいて、赤と緑の電灯に照らされた街はなんだか浮足立っている。

 指先の感覚が痺れるような寒さで、息を吹きかけて何とか暖を取る。息は白くなって、灰色の空へと溶けていった。

 この時期に同年代の仲間が集まると、話題は自然にクリスマスの過ごし方になる。案の定、一通り全員の卒論を読んで問題点を軽く指摘しあった後、さてこれが本題だというように、「クリスマスどう過ごすか決めた?」と誰かが言った。

 恋人がいる男女はどことなく得意げで、恋人がいない男女は悔しそうにする一方で、ここを取っ掛かりにして予定を埋められないかと落ち着きのない様子だった。私に恋人がいないことを知っている友人は、クリスマスに女子会でもしないか、と誘ってくれたが、私は首を横に振った。

 クリスマスがどうとか恋人がどうとか考えるような気分にはなれなかった。気が付くと、美佳子のことを考えてしまう。今どこで何をしているのか、生きているのか。そう考えるたびに心臓が変に脈打って息が詰まりそうになるから、しなければならないことをひたすら無心でこなしている。

 家に帰ったら、今日指摘された研究結果の不透明さを改善しよう。そのためには、もう一度、題材について書かれた本を読みなおさないと。

 カンカンカン、と踏み切りが閉まっていく。走るような気にもなれなくて、徐々に下がっていくバーをぼっと見つめていた。目の前を勢いよく通っていく電車が連れてきた風で、身を切るような寒さに包まれた。マフラーに顔をうずめる。

 ふと、鼻先が冷たくなったような気がして空を見上げると、珍しく雪が舞っていた。頼りなく空を舞う姿が埃のようだ。

 そういえば、小学三年生の冬も雪が降った。車のフロントガラスにうっすらと積もった雪を手当たり次第にかき集めて、美佳子と一緒に雪うさぎを作った。小さな雪うさぎは、私たちの手のひらの上で溶けて、あっという間に消えてしまった。

 ぼんやりとそんなことを思い出しながら、帰路を急いだ。早く帰って、先週母の要望で押し入れから出した炬燵に潜り込みたい。

 ようやく玄関にたどり着いたとき、手は寒さで真っ赤になっていた。手袋の購入を検討すべきかもしれない。ブーツを適当に脱いで家の中へ上がる。それ以外に靴はなく、家族は皆出かけているようだった。

 家の中もすっかり寒さに侵されていた。まるで空から降ってくる雪が熱と音を吸収しているように、寒く静かな空間だ。

 コートをハンガーにかけてから、すぐに電源を入れた炬燵に入り込んだ。温かくなるまでは少々時間がかかる。足先をすり合わせながら、じっと寒さに耐える。

 やがて熱を灯し始めた炬燵が私の足の震えを取り去っていく。筋肉の硬直が取れるような心地よさで、静まり返った部屋の中にいることも相まって瞼がふと落ちてくる。

 だめだ、卒論の直しは早めに済ませてしまいたいのに。

 ふらふらと体を微睡みとともに揺らす。瞼を開けるのが億劫だ。このまま寝てしまおうか――。

 その瞬間、空間を引き裂くような甲高い音がした。それを追うようにして叩きつけたような重低音が続く。

 背中を駆け上がった悪寒とともに瞼がぱっちりと開いた。嫌な予感がする。炬燵から飛び跳ねるようにして抜け出し、音の発生源を探す。

 あたりを見回してみても、家の中は何も変化していない。そもそも炬燵の中でまどろんでいた私以外にいないのだから当然だ。となると、先ほどの音は隣から聞こえてきたことになる。

 無意識に、喉からひゅっと詰まるような音がした。なんとなく感じていた嫌な予感は手足を痺れさせるまでに強くなる。その焦燥感に駆られるようにして、靴も履かずに隣の家――美佳子の家へと飛び込んだ。

 呼吸ができなくなった。

 痛いくらいの静寂の中で、咀嚼の音だけがただ響く。

 リビングの扉が開けっ放しになっているせいで、玄関に立ち竦んだまま中の様子が窺えた。見えてしまった。

 リビングの床に倒れこんだ美佳子の母親。そんな母親に馬乗りになり、右腕を持ち上げて二の腕の肉にかぶりついている美佳子。引き千切るようにして二の腕を噛み切り、流れ出す赤い血など気にも留めず、美佳子は一心不乱に咀嚼していた。ぐっちゃぐっちゃ。生肉を無理やり噛む美佳子の口からは、ぷちぷちとした音とともに噴出したであろう鮮血が漏れ出し、子どもがガムをかんだ時のような唾液の音が混じる不快な音がした。

 目の前が真っ暗になり、血の気が引いて眩暈がした。美佳子を止めなくてはならないとわかっているのに、その場に座り込んでしまう。そこでようやく呼吸をしなければならないことを思い出した。けれど、息を吐けばいいのか吸えばいいのかがわからない。いや違う、呼吸なんだから吸えばいいんだ。訳も分からないまま空気を吸って、そのまま吐き出せなくなった。ハッハッと獣のような荒い呼吸音が自分の喉からしている。気持ち悪い。気持ち悪い。

 美佳子は私の存在など気づいていなかった。しばらく噛んでいた二の腕の肉を、細い首を反らしながらごくりと吞み込んだ。肉は彼女の喉を喉仏のようにぷっくらと膨らませてから食道へ通り抜けていった。離れていても見えるほどだった。

 深く息を吐き出した後で、美佳子は再び母親の、獲物のほうへ向き直った。今度は頭を起こすようにして持ち上げ、その首元へと唇を寄せた。鋭くとがった犬歯をくぱあ、と開けて勢いよく齧り付く。また霧吹きのように血が噴き出した。美佳子の顔がどんどん血に濡れていく。

 目を背けたくなるような光景だった。耐え切れず目を閉じると、一層咀嚼音が鼓膜に張り付いたように響いて聞こえた。両手で耳を塞いでみても、指の隙間から音が入り込んでくる。気が狂いそうだ。腐ったようなにおいがする。

 けれど皮肉なことに、美佳子の咀嚼音を聞いていると、呼吸のタイミングを思い出した。ぐっちゃ、ねっちゃ。歯に絡みついているような気味の悪い音に被せるようにして、息を吐き吸う。何度か繰り返すうちにようやくスムーズな呼吸ができるようになった。息苦しさからかわからないが、いつの間にか私は泣いていた。頬が冷たい。

 美佳子を止めなくてはならない。そうしなければ、美佳子は人間には戻れない。私が、私が止めなければ。

震える足を叱咤する。なんとか立ち上がって、壁を凭れながらリビングの中へと入った。

 そして絶句する。言葉は喉の奥で絡みついていた。

 玄関からはリビングの扉に隠れて、美佳子の母親の全身は見えなかった。中へ入ってみて、ようやくこの惨状の全貌が見えたのだ。

 美佳子の母親はもう、右足の肉がなかった。腰のあたりまではまだ衣服も肉もしっかりついているのに、そこから下は骨が剝き出しになっていた。骨にはうっすらとピンクの残額が纏わりついているが、硬くて食べるのを諦めたであろう部分しか残っていなかった。

 リビングは異様な光景に包まれていた。美佳子の母親の傍には、割れたグラスが飛び散っていて、まわりは一帯が血に濡れていた。美佳子が吐き出した小さな骨も転がっている。美佳子の母親の右足よりも、美佳子の唾液で光る小骨のほうが美しく見えた。

 馬乗りになる美佳子に影を落とすほど近づいても、美佳子はこちらに目もくれない。目の前のご馳走に夢中になっている。

「み、かこ」

 口がカラカラだった。

「ねえ、みかこ」

 美佳子は咀嚼を続ける。その口元はもう真っ赤に染まっていた。含んでいた肉を飲み干して、今度は母親の頬肉に歯をたてようとしている。

「美佳子!」

 私は急いで力いっぱい美佳子の頭を抑えつけた。美佳子は全く止まらなかった。その眼には獲物の姿しか映っておらず、それを食らうことだけを考えていた。私の手を押しのけて食らいつこうとする美佳子の力は強く、歯を食いしばってその頭を抑えつけたが、ぶちっと大量の髪の毛が抜けるとともに美佳子は母親の顔を噛み千切った。唾液がぼたぼたと床に落ちる。

「やめて……、もうやめて、美佳子……」

 もはや私にできることは何もなかった。獣を目の前にして、私はもう涙を流して座り込むことしかできなかった。

 止める、とか。人間に戻す、とか。フツウになれ、だとか。私はなんて愚かだったんだろうか。私はずっと勘違いをしていた。

 美佳子は獣なのだ。そうである以上、この世界で暮らしていくことは不可能だったのだ。

 肉が引き裂かれるたびに、血が飛び散る。粘着質な咀嚼音がする。不気味なほど静かな冬のリビングに、耳を塞ぎたくなるほど反響した。外で舞い散る雪の白さがいっそ嫌味に感じるほど澱み切っている。

 飲み込み切れなかった血とともに口の端を垂れていく涎が、私には涙みたいに見えた。

 私の涙も止まらない。嗚咽が込みあげてきて、喉をせき止める。光の差さないこの場所で、獣と獣になりきれなかった私が言葉も交わせずにただ泣いていた。

 ふと、静まり返っていた部屋に唸るような高い音が近づいてきた。その音でようやく我に返る。無駄だと知りながら、もう一度美佳子の肩を掴む。予想に反して美佳子は、何の抵抗もなく私のほうへ体を預けた。

 大分音が近づいてきたところで、それがパトカーの鳴らす音だと気づいた。リビングを見渡すと、物であふれた暗い茶色のダイニングテーブルの上に固定電話が受話器から投げ出されていた。半分閉まったままのカーテンから覗く空は相変わらず灰色のままだ。そこへ斑点をつけるように雪が舞い散る。

「……っ!」

 ぎり、と美佳子の歯ぎしりの音が私にも届いた。途端、はじけたように美佳子は跳ね起きて、四足歩行のまま家から飛び出した。一瞬の出来事だった。

 パトカーの音は徐々に近づいてくる。今までの出来事すべてが夢であればいいのに。そんな淡い希望を願いながら、リビングに捨て置かれた残骸と玄関まで続く赤い足跡を眺めた。

 やがて警察がやってきた。家に足を踏み入れた途端に、異様な腐乱臭と惨状を目の当たりにして唖然とする。私はそんな人間の様子をぼんやりと見つめていた。

『わたし、チーターだから』

 幼い美佳子の声を頭の中で反芻しながら。


 その翌日、美佳子の母親の通夜がしめやかに執り行われた。親族と個人的なつながりがあった数人だけが集まった小さな通夜だった。

 一通りの手順が済んだ後、会場の外で親族であろうおばさんたちが輪になっていた。

「美佳子ちゃん、お母さんの通夜にも参加しないなんて、なんて礼儀知らずな子なのかしら」

「連絡もつかないんでしょう?」

「そうらしいわね。小さい時から変わった子だとは思っていたけど、お母さんが死んだのに、悲しくないのかしら」

 汚らわしいものを語るかのような声と表情に、無意識のうちに拳に力が入っていた。

 警察の捜査によると、美佳子の家は何かを探していたかのように家中の引き出しがひっくり返されていたらしい。被害者である美佳子の母親は目を背けたくなるような姿でリビングに横たわっていた。その場で呆然としていた私も重要参考人として連行された。

 私は何も言わなかった。訝しんだ警察官から、怒気の混じった大声が浴びせられたが、それでも口を開かなかった。あの光景は、美佳子のあの姿は、誰かに話して手垢塗れに汚したくはなかった。私だけが知っていればいいことだった。

 結局、警察はその場に落ちていた涎をDNA鑑定したことと、連絡がつかないことを決め手として、娘の美佳子が容疑者だとほぼ特定していた。しかしながら、美佳子の母親の死因が大量出血ではなく心筋梗塞であったこと、あまりの残虐性とそれを行ったのが実の娘であるということを発表した際に起こる世間の困惑を加味して、その真実は公には出されなかった。表面化で美佳子の性格や過去を調べ、行方を追うだけにとどまっている。どうやらパスポートを使って外国へと飛び立ったことは調べがついているらしい。けれどそこから先はまだ闇の中だ。

 瞼を閉じると、真っ暗な画面にあの日の美佳子が流れ出す。耳の奥からぶちぶちと筋が切れる音と咀嚼音がして、その音がやがて嗚咽へと変わっていく。美佳子が内包していた苦しみがついに形になってしまった瞬間、美佳子が獣を剥き出した瞬間だ。

 きっと美佳子は、目の前に転がる母親の死体を食べ物だとしか認識できなかったのだろう。命の付加価値をつける人間の世界は、美佳子にとってはじわじわと襲い来る地獄そのものだった。

 あのうつくしい獣が、どうか自分らしくいられるように。立ち去って行った美佳子の四つ足を思い出しては、そう願わずにはいられない。

 誰も美佳子の行方は知らない。けれど私は確信している。

 美佳子はきっと、瞼を焼くほど照る太陽の下で、一瞬の命の駆け引きをする草原を目指した。そして幼いころのような笑顔を浮かべたまま、ひっそりと食物連鎖の中に組み込まれた。



11月中どころか、年内になんとか滑り込みでした……。今年中に書き終えれてよかった!

ありがとうございました。

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