03
今朝、朝食後の歯磨きがちょうど終わったころに、きっと使われることはないんだろうと思っていた番号が携帯電話に表示された。冷たい風が吹き荒ぶ十二月のはじめのことだ。窓の外ではひゅうひゅうと不安定な呼吸のような風が吹き、その寒さをそのまま伝えるように狭いワンルームのフローリングは底冷えしていた。
「なあ、美佳子ってずっとあんなだったの、どうなんだよ、なあ」
『山崎悠斗』と表示された画面を驚きながらタップすると、開口一番にそんな弱弱しい声が聞こえた。随分前に行った食事会のときの楽しそうな声だけが私の中の『悠斗』くんだったから、声を聴いたとき一瞬誰だかわからなくなった。
「どうしたの? 美佳子に何かあったの?」
「美佳子……あいつ、あいつおかしいよ、絶対おかしい」
震える声は全く何が言いたいのか伝えない。ただ、悠斗くんの様子が尋常ではないことくらいは、ほとんど接点のない私にもわかった。
「落ち着いて。説明してくれないとわからないよ。美佳子の一体何が可笑しいって?」
「……あいつ」
悠斗くんは、しばらく黙り込んだ後に言葉をつかえさせながら話し始めた。深呼吸が私にもはっきり聞こえた。彼の動揺が伝染したように、私も息をひそめる。
彼の話を聞いていくうちに、心臓が変に動き出した。呼吸は浅くなり、血の気が引いていくような感覚がして、鳥肌が止まらなくなった。
彼曰く。美佳子は普段肉しか食べようとせず、野菜や果物はほとんど口にしようとしないらしい。おかげで彼も、美佳子が肉料理しか作らないため、細身だった体形がどんどん変わってしまった。しかし美佳子はちっとも太っていなかった。それをなんとなく不平等に感じた彼は、冗談交じりで、
「美佳子さあ、女子っつうのはふつうもっと野菜撮ろうとするだろ。肉を大量に食べるなんてふつうは気にするところじゃねえの? それも毎日だったら尚更だろ」
「……なによ、お肉くらいいいじゃない。食べたいんだから」
「お前それでもほんとに女子かあ~?」
「そんなこと言うんだったら、自分で作れば。そんでもっと女の子っぽい彼女つくれば」
普段であれば、彼の冗談を見抜いてむしろそれに乗ってくる美佳子が、ふと笑顔を消して棘を含んだ言葉を放ったのが癪に障ったらしく、その後は売り文句に買い文句。これまでしたことのないほどの大喧嘩になったそうだ。
美佳子は料理を含めたすべての家事を放棄。見せつけるように毎日唐揚げやハンバーグ、ステーキなどの肉料理を一人で食べた。一方で彼も、美佳子の様子を見たあとは、必要最低限の持ち物を持って、友人の家を転々として、何日も家に帰ろうともしなかった。
とはいえ、一週間も経つころにはほとぼりも冷めてくる。少し冷静を取り戻した二人は、お互いに謝りあってなんとか和解した。彼は「美佳子の食事にケチはつけない」、美佳子は「もう少し女の子らしくする」を条件にして。
それから美佳子は、サラダやスムージーを朝ごはんにして、夕食には彼のためにも野菜炒めを作った。二人で共有で使っているパソコンの検索履歴には「食事 普通 女子 おすすめ」という検索条件が残っていたらしい。彼は美佳子のその努力を愛らしく思い、今まで以上に距離が縮まっているように感じていた。
しかし、それから美佳子は、どんなに進めても肉料理を口にしなくなった。飲食店のショーウィンドウを見てお腹を鳴らすくせに、入るように促すと顔を青ざめさせて首を横に振った。「いいの、あたし、女の子だから。フツウの女の子だから」そう、自分に言い聞かせるようにしていたという。
彼は、以前の喧嘩を引き摺っているのだと思い、そのお詫びも兼ねて美佳子を久次ぶりのデートに誘った。行き先は、デートスポットで有名な動物園だった。
そこで彼は、ようやく美佳子の様子がおかしいことに気が付いた。
「美佳子の目が、変なんだよ。ひん剝かれた目が、血走ってて、唾液を飲む音が何回も聞こえててさ」
今にも柵の中の動物たちに飛びかかっていきそうなほど、彼女は平静を失っていたそうだ。
悪寒を感じながら、足早に動物を次々に見て回った。立ち止まると、獲物に襲い掛かるのを必死で我慢しているかのようなフー、フーという荒々しい呼吸が聞こえるため、止まるわけにはいかなかった。彼女の細い手首を掴んで、歩き続けた。安全地帯を探すように。
「そしたら、子供向けの広場を見つけたんだよ。うさぎとか、ひよことかと遊べるっていうのが売り文句のところ。そこなら美佳子もちょっとは落ち着くかと思って、引っ張っていったら、美佳子、うさぎばっかりじーっと見つめるんだよ。ひよこなんて目に入らないみたいに」
うさぎとひよこが動き回る小さな広場。細かな草が生えている砂で覆われた広場は、小さな動物と戯れる子どもたちの楽しげな声が響いている。そんな中で、ぐっと体を丸めても一回りも二回りも大きい美佳子が、聴覚を失ったかのように目の前の白いうさぎをじっと見つめている。繋いだ右手側に心配そうに美佳子を見やる悠斗くんの存在も忘れて、見入っている。うさぎの赤い目が、美佳子の中の獣の姿を暴く。そのうさぎは体を震わせて、固まったようにその場に立ちすくんでいた。
そんな光景が一瞬で脳裏に描かれた。その姿が、小学生の時に見た美佳子へと重なる。
「うさぎを見つめるって言っても、顔とか耳とか見てるんじゃないんだ。美佳子を見てたのは……」
「後ろ足」
「え?」
「後ろ足の付け根の部分」
受話器の向こう側から、ひゅっと息を吞む音がした。冬の朝の冷たさがじんわりと身を侵していくような沈黙。
やがて、彼の掠れた声が響いた。恐る恐るこちらを窺うような、蛇に睨まれた蛙が身を震わせるような怯えが滲んでいた。
「……な、なんでわかった。……お前も?」
「いや、ちがうよ」
間を空けずに言うと、彼は少しばかり安堵したようだった。一つ深呼吸を落として、問答を続ける。
「じゃあ、どうして」
「だって、知ってるから」
美佳子が可笑しいことも。うさぎが一番おいしいと語ったその表情の狂気も。その異常性が到底受け入れられないものであることも。私は知っているから。
呆気にとられた「は?」という彼の声が聞こえる。私はそれに答えずに、「ところで」と口を開く。
「ほかにも、何かあったんじゃないの」
ほとんど確証を持った問いだった。美佳子と彼をつなぐ絆ともいうべき情は、そのエピソード一つで崩壊するものとは思えなかった。美佳子がどうだったかはともかく、たしかに彼は美佳子を愛していた。
案の定一瞬の沈黙のあと、「ああ」との肯定が力なく零された。
彼らのリビングには大きく載せられた動物の写真が特徴的なカレンダーが掛けてあること。それは同棲を始める際に、動物が好きだという彼女の要望で購入したこと。動物園から帰った翌日、とうに過ぎている四月のページが開かれ、そのページのうさぎの写真には後ろ足が大きく赤字で丸く囲まれていたこと。
二人の家で灰色の毛並みのチワワを飼っていること。そのチワワにはコウタという名前をつけたこと。彼女は動物が好きだと言いながら、コウタの世話はしようとしなかったこと。最近の彼女は、コウタをみるとあの血走った目で歯を食いしばりお腹を鳴らすこと。
ぽつぽつと、彼の声は小さく降り注いだ。不信感を溜めるグラスがあったなら、少しずつ注がれたそれは、もう少しであふれだしそうなほどになっていた。
「……そんで、昨日」
それまで動かしていた口を、躊躇うようにふと止めた。「うん」と相槌を打つと、彼は許しを得たようにまた話を再開した。
「帰ったら、美佳子が鍋を出してくれたんだ。最近寒いし、鍋って準備も楽だから、別に不審には思ってなかったんだ。その鍋にはたっぷりの白菜と人参と、大き目に切られた肉が入ってた。見た感じだと牛肉にも鳥肉にも豚肉にも見えなかったから、何だろって思いながら食べたんだよ。やけにごりごりした食感で、噛んでも噛んでも噛み千切れなくて、ぐっと顎に力を入れたら血管が切れたみたいなぷちって音がした。なんだか妙に生臭い不思議な肉だった。だから俺、聞いたんだよ。『これって何の肉なの』ってさ」
そこで、彼の声が途切れた。語尾が尻すぼみになるように消えていき、食いしばった歯の間から漏れ出てくるような嗚咽が小さく聞こえる。
「……そしたら美佳子、何も言わねえんだよ。笑うんだ」
彼の声は小刻みに震えていて、聞き取るのが難しい。けれど、彼が語る彼女を想像するのは難しくはなかった。
ダイニングテーブルの向かい側に座る美佳子。どこか気が重たくなるような澱んだ空気が漂うキッチン。蒸気が立ち上る土鍋から、肉を掴み上げて口に運ぶ彼女。歯を突き立てると、血しぶきのように肉汁が溢れ出る。そして彼女は澱んだ目で、口角だけ持ち上げるみたいにして、ただ笑う。
「俺、その瞬間に全身に鳥肌が立ってさ、ぞっとした。めちゃくちゃ嫌な予感がした。そのまま家中を探し回ったんだ、けどさ」
――どこにもいないんだよ、コウタ。
嗚呼、と思った。嗚呼、ついに彼女はそこまで行ってしまったのか、と。
二人の同棲生活の幸せの象徴であったはずのキッチンが、そこにほのかに灯るオレンジの光が、暗く不気味な静けさに染まっていく。
「俺、未だに気のせいであってほしいって思ってるんだ。それくらいには美佳子のことが好きだったし、あいつとの生活を気に入ってた。だけど、あの瞬間、俺はそんなことを考えるよりも先に眩暈がして、気持ち悪くなって、トイレに駆け込んでた。胃に入れちまったもん全部、俺の中から出てってくれ、って泣きながら思ってた」
二人で世話をした愛犬がどうなったのか、彼は本能的に察したのだろう。そして、愛したはずのコウタを知らずにとはいえ口にしてしまったことに、抑えがたい嘔吐感が襲ってきたのだろう。
いつもよりも暗く、体の芯から凍り付いてしまうような寒さのトイレで、彼はぼんやりと便器の縁に頭を預けて決意した。美佳子と別れよう、と。小刻みに震える手で、頬を流れる涙をぬぐいながら。
その後、彼は呼吸を整えてからキッチンへと向かった。美佳子は変わらず上機嫌に、鍋の中の肉だけを掬いあげて一心不乱に食いついていた。
「……なあ、コウタはどこ行ったんだよ」
切実な思いのこもった彼の問いに、彼女は首をかしげた。まるで、「コウタ」なんていうものは知らないとでもいうように。肉を食らう手を止める気配は一向にない。
「おい、なに、知らん顔してるんだよ。おまえもよく餌やってたろ」
言い募ると、ようやくその存在を思い出したかのようだった。はちきれんばかりに口に含んでいた肉を吞み込んで、真っ赤な唇を開く。
「コウタは死んだよ。仕方ない、多分寿命ってやつ」
事務報告のような平坦な声で、美佳子はそういった。そして、もう話は終わりだ、というようにまた肉を食らう作業にもどった。
彼は、目の前が真っ暗になるっていうのはああいうのを言うんだな、と言った。まるで自分から一切の感情が抜け落ちたかのように何も考えられなくなった後、パンドラの箱を開けてしまったかのように怒りや悲しみ、憎しみ、恐怖が次々に彼に襲い掛かった。
美佳子が最後の肉をごくっと豪快に呑んで、椀に残った汁を啜った。その椀が乱雑に叩きつけられた音で、ようやく彼は体を動かすことができた。
「別れよう」
美佳子が目を見開いた。
「もう、無理だ」
彼の震える声を聴いて、美佳子はようやく正気に戻ったようだった。何かを言おうとはくはくと口を何度か開いて閉じる。伏し目がちの目は、どこを見つめるべきか迷っているように泳いでいた。結局、美佳子は何も言わなかった。
「この部屋は使っていいよ。俺が実家に戻るから」
こんな気持ちの悪い空間に居れるわけがない。吐き出しそうになるその言葉をのみ込む代わりにため息を吐いた。
そして、家の近所のカラオケ店で一晩を過ごし、荷物を取りに来た今日。美佳子が失踪していることに気が付いた。部屋は昨日の出来事が何も無かったかのように、減った荷物もなくいつも通りだった。ただ、もう聞こえない愛犬の鳴き声は相変わらずしなかった。
「今の美佳子、何するか全然わかんねえっつうか……。俺じゃどこに行ったのかも全然わかんねえし、真紀ちゃんならなんか知ってるかなと思ってさ」
そう呟くように言って、彼は話を終えた。口を閉ざして一呼吸おいてからは、彼も少し平静を取り戻したようだった。
どうやら彼は、もう美佳子の顔は二度と見たくないと思うくらいには美佳子に不気味さを感じているようだったが、一方で彼女の行為を気にする程度にはまだ情を持っているようだった。なんとも複雑な心境だ。
「私も、美佳子が行きそうな場所は思い当たらないな……。でも美佳子、昔からそうだったから、放っておくと本当に何するかはわからない」
「でも、俺があった時のあいつは、そんな素振り全く見せてなくて……」
好きだった彼女に縋りつくような彼の声に、胸が締まるような痛みを感じる。
「たぶん、私のせいだ」
「え……、真紀ちゃんの?」
「私が、フツウになれってそういったから。だって、美佳子のあんな醜いところ、受け入れられるはずがないってそう思ったから、美佳子がちゃんと生きられるようにって」
言い訳を紡ぐ口が止まらない。言葉を紡げば紡ぐほど、自分の言葉が嘘くさくなって、彼女のためを思って言ったということが本当なのかわからなくなる。
傷口が開いてしまったかのように、あのころ私がひそかに感じていた優越感や甘美がぶり返してくる。もう私は、私が信じられなくなっていた。
「真紀ちゃんのせいじゃないって、そんなに自分を責めるなよ」
慌てたようにそう捲し立てる彼の声は、自分の醜い心が生み出した都合のいい幻聴にしか聞こえなかった。
次で完結です。
11月中に終わらせればいいな……。