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クラスの人気者だった美佳子と、特徴もなく目立たない生徒だった私は、高校に入学してからも中学のころの冷たい距離感を保ったままで、お互いが大学に進学してからはめっきり連絡も取らなくなっていた。もともと私は声をかけられるような性質ではなかったし、彼女に対する罪悪感もあった。
だから、美佳子とは大学三年生の時に開かれた高校の同窓会で、卒業以来初めて顔を合わせることになった。
ふんわりとカールのかかった明るい茶髪で、派手すぎないナチュラルメイクを施した彼女は、どこから見てもふつうの可愛らしい女子大学生だった。高校時代の人懐こい笑顔とはきはきとした声は健在で、その同窓会でも男子からさりげないアプローチを受けていた。
私はそんな彼女を遠目で見ながら、久しぶりに再会したよく本の貸し借りをしていた友人とぼそぼそと近況の報告をしていた。大学の授業がつまらないとか、レポート課題が多くて大変だ、とかサークルにかっこいい男子がいる、とかそんなとりとめもない話だ。
私と彼女の間には三台のテーブル分の差があった。しかし、同窓会という名の飲み会が半分を過ぎると、美佳子は真っ赤な顔でふらふらと私の所へ来た。驚いて彼女が元いた席に目をやると、ビール瓶が三つほど転がっていた。随分酒を飲んだようだ。
「ひさしぶりいー」
へにょへにょの声で、美佳子は私の肩に腕を回した。高校時代は距離を置いていたため、私が彼女と同じ中学出身だということはあまり知られていない。向かい側に座っていた私の友人も、やけに親しげに絡んでくる自分たちとは別世界の人に困惑している。
「え、えっと……真紀ちゃん、美佳子ちゃんと仲良かったっけ?」
「……まあ、ちょっとね」
「ちょっとってなによお、小学生のころからの幼馴染でしょお」
拗ねたように口にした美佳子の言葉に、友人は目を見開いて確認を取るように私に視線を送った。隠すことでもないかと頷く。
「へえ……そうなんだ」
ほんの少しだけトーンの下がった声に、「うん」とだけ頷いておく。なんとなく裏切られたような気になっているだろうことは想像に難くない。私たちは目立たない生徒グループだったのだから。
「あんた最近どうしてるの?」
「どうって……、大学通って、あ、今は建築の勉強してるんだけど、レポートやったり空いてる時間にバイトしたり、かな。まあふつうだよ」
「彼氏はあ?」
「今はいないけど……、美佳子は?」
社交辞令のつもりで聞き返すと、美佳子はフンと鼻を鳴らして胸を張った。
「最近できましたー! 同じバスケサークルの男子で、同じ学年なの。あ、学部は違うんだけどね、あたしが理学部で、彼氏が工学部なんだあ」
聞いてもいないのにぺらぺらと動く口を見て、美佳子が話したかったのはこれなんだろうなと少しげんなりしながら気づいた。
彼氏のいない私への当てつけかと思いつつも、フツウから弾き出されて摩耗していた美佳子が大学生活を楽しんでいることが嬉しくて、私の口元は緩んでいた。このころになると、私の中にあった醜い気持ちはほとんど薄れていて、獣であった美佳子がただの私の妄想だったかのように感じていた。
「どうよ、あたし、フツウの大学生でしょ!」
「うん、ふつうに楽しそうで羨ましい」
含みもなくまっすぐにそう言うと、美佳子は一瞬呆けた顔をして、「そうでしょ」とまたフフンと鼻を鳴らした。
「そうだ、あたしメアド変えたから。ちょっとケータイ貸して、登録しとく」
差し出された彼女の手のひらに、去年機種変更をした携帯電話を乗せる。この三年近く一度も連絡を取っていなかったのに、どういう風の吹き回しだろう。私が怪訝に思っているのを察したのか、美佳子は悪戯っぽく笑って、
「あんたに彼氏ができたら教えてね。あたしたちとあんたたちでダブルデートするから!」
私の手のひらに携帯電話を返してまたふらふらと席を立った。「なんか嵐みたいだったね」とぼそりと零された友人の言葉に頷きながら、『あんたたち』の片割れを想像してみたけれど、そのシルエットは真っ黒だった。
美佳子からの連絡は思い出したかのようにぽつぽつと入った。同窓会までの凍結していた関係がまるで無かったかのようにくだらないことを伝えてくる彼女になんだか気が抜けて、私からも少しだけメールをするようになった。
『今日はカレシの誕生日! マドレーヌ作ったんだけど、みてよこの美しさ! あたし天才かも!』
『カレシさんにおめでとうって伝えておいて。美佳子お菓子作り上手だね』
『ありがと! でしょでしょ!』
二通ほどの返信であっさりと終わるやり取りがなんとなく心地よくて、私は美佳子からのメールに律儀に返していた。
そして同窓会から五か月がたったころ、私にも彼氏ができた。真っ黒だったシルエットは彼の姿に上書きされた。同じ学部の一歳年上の先輩で、気遣いのできるやさしい人だった。少し躊躇ったけれど、メールをすることが楽しかったこともあって、私は結局その三日後に美佳子に報告のメールを送った。美佳子から『本当~!? じゃあダブルデートの日にち決めなきゃね!』というメールが返ってきたのはそのほんの二分後だった。
約二週間後、四人の予定の合う日を見つけて食事に行った。美佳子が頻繁に行っているという暗めの照明が特徴的なイタリアンレストランだ。
約束の十分ほど前に予約席について彼氏と待っていると、しばらくして美佳子がすらりと背の高い男の子と手をつないで店に入ってきた。
「おまたせー! じゃあ紹介するね、あたしの彼氏の山崎悠斗です。 そんで悠斗、この子が幼馴染の岡部真紀」
美佳子が手を向けてくるのに合わせて、お互いにぎこちなく会釈をする。次いで私も彼氏を紹介して、美佳子曰くダブルデートは恙なく進行した。
美佳子と悠斗くんはとても仲が良く、私たちもいるというのに、二人の世界に入ってしまったかのように手をつないで時折ぼそぼそと小声で会話をしては笑いあっていた。私たちはまだ付き合い始めてまもなく、どこか距離を測りかねているところがあったから、そんな二人を見てはなんとなく気まずくなって、顔を合わせては苦笑いしていた。
「すごい仲いいんだね」
苦笑いのまま二人に声をかけると、二人は顔を見合わせてうれしそうに笑った。
「あたしたち、今度同棲するの」
「そうそう、今はお互いの条件に合う物件を探してるんだよな」
「お互いっていうか、悠斗の条件が厳しすぎるだけでしょー。駅から徒歩五分以内とか、ペット飼えるところとかさ」
「仕方ねえだろー、俺、引っ越すなら絶対犬飼うって決めてたんだから」
そのままわいわいと言い合い始めた二人に、私たちはまた苦笑いをしてはこっそりとため息をついた。帰り際、美佳子に流されるままに悠斗くんとも連絡先を交換したが、きっとこれが使われることはないんだろう。
食事会の後数か月すると、美佳子と悠斗くんは本当に同棲を始めた。私の家の隣に引っ越し業者のトラックが止まっているのを目撃していたから、美佳子からのメールを見ても驚きはなかった。
『同棲開始~! リビングはこだわったよ! オシャレでしょ!』
添付されている写真には落ち着いたブラウンのダイニングテーブルに、シンプルなベージュのテーブルクロスがかけられているのが印象的なリビングが映っていた。写真の端には見切れている悠斗くんの後ろ姿も映り込んでいて、幸せそうな二人が簡単に想像できた。
同棲開始とともに娘が家を出たのが寂しいようで、美佳子の母親は私に会うたびに美佳子の近況を聞いてくる。美佳子は家族に対しては筆まめではないようで、ぽつぽつとしかメールを受けていない私のほうが彼女のことを知っているらしい。
美佳子のことをメールで知った情報を主に伝えると、美佳子の母親は「そう、よかった」と眉を下げて微笑んだ。小学生のころからよくお世話になっていた彼女の母親は、昔は快活だったが最近はどこか青白く儚げだ。それでも幼いころから周りとは違う性質を持つ子供であった美佳子を育て上げた彼女の母親は、楽しそうに笑っていた。
春ごろに同棲を始めた美佳子たちは、夏を過ぎても問題なく暮らしているようだった。二週間に一通ほど届くメールと時折添付されている写真がそれを物語る。
あるときは新しいベッドが届いたという報告が、またあるときはソファで眠ってしまった悠斗くんの寝顔の写真が届いた。なんでもない幸せが満ちているように見えた。
一方で私は、夏を迎えるころには彼氏と別れてしまっていた。とりとめのないメールが当てつけのように思えて仕方がなかったが、それでも美佳子たちの幸せが嬉しかった。
ごく稀に、美佳子からの愚痴も送られてくる。「悠斗が家事してくれない」とか「レポートばっかで最近顔も見れてない」とか「愛犬が悠斗はわざわざ玄関まで出迎えるのに、あたしのことは無視してくる」とか、そんな小さな文句だ。だからこそ、そのメールもそんな部屋の隅に残った埃のような小さな不満だろうと片づけてしまった。
『最近悠斗が、お肉ばっかり食べすぎだって怒ってくる。でもメインってお肉でしょう? それにあたし野菜嫌いだから、お肉の量がちょっと多いのは仕方ないと思う。これって、フツウだよね?』
このメールが届いたとき、私は論文の中間発表が迫っていることで、携帯電話なんてろくすっぽ見ていなかった。友達からのメールや企業からの宣伝メールを未開封のまま積み重ねていた。美佳子からのメールも、その手紙の山に埋もれてしまっていた。
結局そのメールを開いたのは、メールを受信してから二週間も後だった。たいしたことのないメールに二週間もあけてわざわざ返信する気にもならず、美佳子には申し訳ないと思いながらも流すことにした。
今にして思えば、このメールはすべての前兆だったのだ。
しばらくたって、また美佳子からのメールを受信した。タイトルは無題。いつも楽しげなタイトルで送られてくるメールとは違って、開く前から違和感はあった。なんとなく嫌な予感がした。
『フツウってなに』
挨拶も装飾する記号もないシンプルなメール。明らかに言葉足らずで、美佳子が私に何を聞きたいのか全く分からなかった。けれど、美佳子の気が動転しているだろうことは分かった。
『どうしたの? 落ち着いて、何があったのか話してくれる?』
『おなかすいた』
悩んだ末に送ったメールには、何のつながりも見えない言葉が返ってきた。ふざけているのかと怪訝に思いながら、もう一度『どういうこと?』と送ったが返信は返ってこなかった。
人がせっかく心配しているのに、悪ふざけだったんだろうか。『新着メールはありません』と表示される画面を睨み付ける。眉間に皺が寄っているのが自分でもわかった。腹に溜まった悪いものを吐き出すように大きく息をついて、携帯電話はベッドのほうへと放り投げた。それは布団の中に潜り込んで視界から消えた。
美佳子からのメールはその後ぱったりと来なくなった。
そうだ、あのときから歯車は狂い始めていたんだ。雲行きが怪しくなっている様子はあったんだ。結末にたどり着いてから推理小説の張り巡らされた伏線に気づいた時のように、美佳子の様子が頭をよぎってゆく。するすると絡まった糸が解れていくように。
美佳子はずっと前から可笑しかった。ただそれを、フツウという仮面をかぶって隠し通していただけだ。
「……なあ、おれ、美佳子が不気味でしょうがないんだけど、なあ」
耳に当てた携帯電話からくぐもった声がする。その震えた声がやけに遠くで響いているように聞こえた。