§7§
ここは精霊族たちにとっても、あまりに魔源の濃すぎる危険な場所である。
水でも風でも土でも、ましてや火でもない――古より畏れられてきたパープルカラー、通称「負の魔源」が森全体に満ち満ちている。ただでさえ半殺しの深手を負っている彼らには、さぞ思い苦痛を味わっているだろう。人間に対するおぞましい憎しみと、そして耐えがたい絶望に魔源が干渉すればやがて、その身は化け物【ゴースト】にもなりかねない。そうなれば魂は自然に還ることもできず苦しみ続けることになる。
今ここで、終わりにしてやるのがせめてもの情けだ。
「……リーダ、シフェリニヤ、ナ、アイズ」
そっとし終えた詠唱の切れ端が、空気にとけこむ。するとどこからともなく調べが流れる。
マウリンが右手をかざすと、その上に幾つもの光帯が円を描きながら収束しはじめた。すうと宙へ吸い込まれるようにして塊となり、魔源が硬さを帯びると一つ大きな玉となる。さすればジジジ! と音を立てる真紅の攻撃魔法が完成する。
魔弾の煌めきに髭がぶわあっと煽られて、ふいに想念した。光の玉、わくわくするような高揚感を見る者に与える魔法――。子供の頃、初めて魔法使いの司る光を目にしたその時から、マウリンは魔法の魅力の虜だった。この不思議で、いかに人々を喜ばせることができるだろうと、当時は本気で考えていたものだ。弟子入りしてすぐさま分厚い書物を物ともせず万冊紐解き、寝る間も惜しんで研鑽に努めた。初めて成功したファイアーボールが涙の出るほどうれしくて、無駄に家屋を焦がしてブチ切れられたものだ。
戦争が魔法を兵器に変えてさえいなければ、マウリンは道化師になりたかった。
今となっては、年老いた手のひらに夢などない。
夜冷めに白い息を吐きながら、マウリンはまた一歩竜へと近づいた。もう目と鼻の先にまで来ているというに、母の意識はこちらに向かない。子のことで必死だった。
弱りきった竜であれば決着は容易い。
「一度は滅びをみた種族じゃ。覚悟もあるじゃろう」
マウリンが宣言すると、その殺気に気付いたのか竜がこちらを見やった。まるで厳格な顔つきに強い双眸。真紅を帯びた鱗は月光にさらされ、はかなげに輝いている。あれほどの深手を負っていてなお、まるで鋭気の絶える様子は見受けられない。トンデモナイ魔力の容量を秘めている。さすがは精霊族で最強と謳われる種族だ。
ジジジ! の音をひとしきり高鳴らせると、左手の杖を添えて構える。
「ぬしのためじゃ。ここで終いにしようぞ」
マウリンの渾身の攻撃魔法――ゴンドラは今ひとたびの魔力を帯びて光った。放たれれば一爆に世界が赤く染まるはずだ。が、そこへ、白帯の魔源の流れが、まるで意志を持つかのようにマウリンをぐるぐると囲みはじめた。完成したはずの魔法が乱され、綺麗な玉形が崩れてしまう。まるで図ったように、いや、何者かの強い意志が魔源に影響を及ぼしているかのように、マウリンの意識を邪魔した。魔源コントロールが術者の技量を外れ、バランスを保とうとしても定まらない。
四苦八苦していると突然、世界が白んだ。そして『声』が広がる。
『私は死を厭いません。けれどこの子に、なんの報いがあるというのでしょう』
エコーのかかる、優しくけれど厳しい口調のそれは、明らかに人の言葉だった。
「マゲンミストを媒体としておるのか……、声が通ずるとはのう」
竜の想いが、空間に満ちた魔源を通してこちらへ渡ってくる。
『この子には未来があります』
「未来じゃと、何を言うておる。わしがみるに、もう子は死んでおるぞ。たとえ万が一に生き残ったとしてもどうなる。ぬしが先に死に、母のいなくなったことを嘆く子はいずれ人間への復讐心に駆られるじゃろう。さすれば身を滅ぼすだけの哀れな末路じゃ」
『この子はただ優しかった。私を守ろうとしただけ』
「そうして死んでいった者たちは大勢おる。いまさらのことじゃ」
思い返しても、むごい争いだ。人間と精霊族が大陸をかけて争った「ラカ・フロンティア」は、この世界から多くの命を葬った。血は血で洗いながし涙をも染めて、人が精霊族が死んでいく。最期は人間王が所持、神器「エクスカリバー」が大陸ごと竜王をぶった斬ったことでようやっと、戦いは終結をみている。あとに残ったのは、山のような死骸。そして、永らく消えることのない「溝」だけだ。
前線で直接ぶつかり合ったドラゴンとヒト、互いに恨みつらみは決して癒すことはできない。その過去を知っていてなお、何を言わんとするのか。
自分が殺めてきた精霊族たちのかつてを思い起こし、マウリンは瞳を閉ざした。ここで終わりにすべきだ。竜の時代はとうに終わっている。これ以上長引かせても哀れだ。
もう終わりにしたい、強くそう思っているはずなのに、腕が、手先がふるえた。戦時中、こんなことは何度もあった。深手を負った仲間を『助けて』と叫ぶ兵士や夫の死に際に泣き叫び救いを求めてくる女、呻く子、物言わず求める乞食たち。
魔法が常に敵殲滅に最優先された時代で、マウリンができたことと言えばわずかな光を見せることぐらいだ。汚れた魔法ではヒト一人救えない。
「これまでに多くの同胞を失ったが、まして多くの精霊族を屠ってきたのが。この歳になっていまさら竜を救うなどできぬ。すべての者たちに示しがつかん。ここで終いにさせてくれ」
今ひとたびの魔源を集束させ、手元を光らせる。死を呼ぶ魔弾は激しい音を伴った。
本当は道化師になりたかった。殺したくなかった。
けれどもう遅すぎる。ここまで来た道を後戻りはできない。いまさら精霊族を救って罪滅ぼしもないだろう。汚れた魔法は、自分が背負って最期まで持っていく。
『救えるものがそこにあるとき、あなたの魔法はきっと輝ける。この子はあなたの手によって死ぬでしょう。けれど、あなたの手によって変えることもできる。私に選ぶ未来はないけれど、最期に一つだけ遺せるものがあります』
白む世界をさらに加速させ、竜は、マウリンの周囲を光で覆った。あまりのまぶしさに目がくらむ。何をされたか、まるで浮くように重力から切り離された。
目を開けると、人間の女がいた。傷ついた裸体に血が流れている。
その腕の中に、ヒトの子があった。
なぜ、そうしたのかはわからない。
ただ差し出された『ヒト』の子を、マウリンはその手に受け取った。
「老いてなお、まだまだ厄介ごとが付きまとうの。いまさらじゃ。こんなことを、いまさら」
母親は微笑みながら炎となり、やがて消滅した。